お答えします 2015年2月5日木曜日 (ロシアの駅建築とその広場)

    お答えします 2015年2月5日木曜日

    A.お題
    ロシアの駅建築とその広場
    http://japanese.ruvr.ru/2015_02_05/282709006/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/railwaystation
    編集改造20分00秒

    B.選曲

    1曲目
    Олег Газманов - Три вокзала
    アレク・ガズマノフ - 3つの駅
    https://www.youtube.com/watch?v=1l0uRKYo0bA

    2曲目
    Анжелика Варум - Привокзальное кафе
    アンジェリーカ・ヴァルーム - 駅前のカフェ
    http://www.avarum.com/index.php?page=audio_09


    C.本文

    「巨大な公園。
    駅のガラスの球体。
    鉄の世界がまたしても魔法にかかる。
    霧につつまれたエーリュシオンの野の響きわたる饗宴の方へ…」


    (「駅のコンサート」、中平耀著『マンデリシュターム読本』、群像社より)

    ロシアの銀の時代を代表する詩人、オシプ・マンデリシュターム。
    この詩には彼がロシアで初めて敷設された鉄道の首都ペテルブルグに出来た「ツァールスコ・セロー駅」を訪れた印象が綴られている。
    20世紀初頭にロシアに登場した駅は実際、単に乗客を収容する施設ではなく、本物のコンサートホールであり、そこでは有名な演奏家が出演し、それに負けず劣らず有名な世界の指揮者がタクトを振っていた。

    おそらくこれが理由で、昔のロシアの駅は実用的な施設というよりは宮殿を想起させるものだったのだろう。
    ロシアの駅建築はあらゆる建築の形の中で最も表現に富んでいると語るのは、ペテルブルグ出身の建築家で芸術学者のニーナ・ペトゥホヴァ氏。
    ペトゥホヴァ氏は駅は文句なしに街の顔と呼ぶことができるという。
    それは町を訪れた人が最初に目にする建物が駅だからだ。
    町との出会いはまず駅から始まる。

    ペトゥホヴァ氏は駅を前後に2つの顔をもつヤヌス神にたとえこう語る。
    そのファサードは町に向けられているが、プラットフォームは駅の内部の空間を見据えているというのだ。
    ファサードはヨーロッパの様式に習って作られており豪華に飾られている。
    一方、プラットフォームの役割はあくまで技術的なものであるため、プラットフォームやその建設のためには最新の建築資材、技術、エンジニアリング・ソリューションが使われる。
    ペトゥホヴァ氏は、アーケード、そして大きな展示ホールと、まさに駅のプラットフォームから長く伸びた建築構造は始まると強調する。

    駅そしてそれに隣接する広場は都市インフラのなかで重要な役割を演じるだけでなく、統一された建築アンサンブルを形作りながら町の風貌を飾ってもくれるとペトゥホヴァ氏は語る。
    ペトゥホヴァ氏はロシアの建築家は駅建築の分野で多くの貢献を行っているとの見方を示し、次のように語っている。

    世界の多くの国では駅とその周辺の空間は駅に向かって走る通りを単に拡大したものです。
    ロシアの駅建築が達成した最たるもの、世界の都市建設へのその重要な貢献はまさに駅前の広場を作り、それを発展させたことにつきます。


    ロシアの駅建築の古典的な例を挙げますと広場の主要的な部分に駅の建物があり、これが回廊(アーケード)によって両脇にある業務用の施設と一体化しています。
    ということは規則にかなった古典様式のコンポジションとは建築の上で支配的な広場に仕え、その先に建てられる建物の様式を決定するのだということです。
    統一されたアンサンブルとして駅と駅前の広場を作るという方法が広く発展していったのはロシアをおいて他にありません。


    モスクワのニコラエフスク駅(現在のレニングラード駅)、そしてサンクト・ペテルブルグのニコラエフスク駅(現在のモスクワ駅)はまさにそうしたコンセプトに基づいて建てられた。
    この2つの駅は19世紀半ばロシアで初めて誕生したモスクワとペテルブルグとつなぐ鉄道路線の最終駅だ。

    駅を市内に配置するにあたって最初に影響を及ぼしたのは都市構想だった。
    モスクワのニコラエフスク駅の配置については最初2つの案が検討された。
    ふたつの案とも駅は中心地の内部に配置されていたが機関車の煙から火花が引火し、火事になる危険性が考慮されて両方の案は却下。
    それに蒸気機関車のたてる「地獄から響いてくるような唸り」も望ましくないとされた。
    そこで浮上したのが町の北の端にある火の見櫓の立つカランチェフスコエ・ポーレに建設する案。
    こうして小川が流れ、沼の点在する広い原っぱが将来モスクワで最も活気ある美しい広場へと変わる一歩を踏み出した。

    サンクトペテルブルグのニコラエフスク駅はというとネフスキー大通りのズナメンスカヤ広場に建てられることが決まった。
    広場は駅が作られる前にすでに出来ていたものの、建築家は自分の意図の実現のためには民間の建てた上質な建物でさえ撤去を命じている。
    その意図とは駅周辺の空間を広げ、広場を台形のような形に仕上げようというものだった。
    確かに広場にあった建物でも建築家との交渉でなんとか撤去を間逃れた例もあった。
    それらは建物全体を壊さずファサードを作り変えるだけで済んでいる。
    こうして新たに作りかえられたズナメンスカヤ広場の周囲は駅の建物と同一のアンサンブルにのっとった建物が立ち並ぶこととなった。
    そのファサードはイタリアのルネッサンス様式のアーケードで飾られた。
    このように駅と駅前広場を統一した建築アンサンブルで作る手法が実際取られたのはロシアだけだったことは特筆に価する。

    モスクワとサンクト・ペテルブルグの2箇所に作られたこのニコラエフキー駅は古典主義という同一の様式のプロジェクトにのっとって作られた。
    いかめしい2階建てのファサード。
    アーチ型の窓の間に立てかけ式の円柱が飾られている。
    そしてふたつの駅ともに中央部分には時計と旗ざおが立った2階建ての塔が聳え立っている。
    ペテルブルグからモスクワへと向かう鉄道ではその間にある全ての駅と駅前の広場は同一の建築様式で作られていた。
    ペトゥホヴァ氏は鉄道の線上に連なる一つの建築アンサンブルを作りだしたということもロシアが世界の鉄道建築になしたもうひとつの貢献だとの見方を示し、次のように語っている。

    一本の鉄道全体に並ぶ駅が全て様式では同じアプローチを行い、駅前の広場は同一の形式を持っています。
    西側ではこうした複合体はどこにもありません。
    ロシアは鉄道を敷設し始める前に全ての駅だけでなく、エンジニア上の建物、作業員用の建物、居住用の建物にもタイプを統一したプロジェクトがたてられました。


    駅とは生きた組織体であり、エポックの転換に敏感に反応するものだとペトゥホヴァ氏は語る。
    19世紀末にかけてロシアでは資本主義的な結びつきが力を蓄えた。
    民間資本が現れ2つの首都という中心都市とそういった都市とはしばしば遠く離れている産業が発達する地区とを結ぶ新たな鉄道が必要になってきた。
    株式社会が出現しそれが独自の鉄道を敷きはじめると、都市建築家らの計画に目を向けずに駅が作られだした。
    モスクワのズナメンスカヤ広場のあった場所には3つの駅の広場が登場した。
    つまり国営の豪華なニコラエフスク駅の隣にさらに、ヤロスラフ駅、リャザン駅(後のカザン駅)という2つの駅が作られたのだ。
    多少規模の小さいこの駅は株式組織によって建てられた。
    ペトゥホヴァ氏はこれにより新しい複合体としての駅の建設によりプラグマティックなアプローチが生まれたとして次のように語る。

    株式組織によって建てられた駅はモニュメントという点ではぬきんでるものではありませんでした。
    それは鉄道自体がそう大きいものではなかったからです。

    芸術的にもこれらの駅は折衷主義であり劣っています。
    ですが新興企業家らには美しさモニュメント性は大事なことではなく、駅は交通の要衝としての収容性のほうが上だったのです。

    国は建設請負側にヤロスラフ駅をニコラエフスク駅と一体化させ、広場の様相を損ねないように要請したのですが断られました。
    それでもヤロスラフ駅、リャザン駅の所有者らは譲歩に出、アーケードの形の窓と中央部の塔はニコラエフスク駅のファサードにある同様の要素と呼応するようにはしました。


    エポックはその後何度も変化し、それぞれのエポックが駅建築の駅前広場の様相に独自の痕跡を残した。
    今日モスクワのヤロスラフ駅は創建当時のような慎ましやかで田舎くさいものではすでにない。
    高いとりでのような塔のそびえる宮殿の姿で作られたヤロスラフ駅の建物はロシアの古い御伽噺の世界へと誘い、これから北東を目指して旅立つ私たちにたくさんの奇跡が起こることを約束してくれているかのようだ。
    そういえばウラジオストクに始まるシベリア横断鉄道の旅の終着駅はここヤロスラフ駅となっている。
    一方のリャザン駅、後に改称されカザン駅となったが、これは正真正銘の東への門になる。
    そのためリャザン駅はロシア様式のロマンチックな特徴と東方芸術のモチーフが見事に合わさって出来上がった。
    こうして出来上がった3駅の広場は今日、鑑賞に値いする。

    ペトホヴァ氏は歴史とロシアの駅建築の今の状況という面で掘り下げた調査を行った結果、20世紀初頭までに作られた意義の大きい駅はその後も根本的な変化を遂げていないという帰結に達した。

    駅前の空間はすでに作られています。
    道はもう都市へとつながっており、広場もあってこれ以上は何もできません。
    駅は形成の様式を維持しつつ、ただ機能上の原則に沿って作り直されました。
    なぜなら乗客数は増え、要請も変わりそれに呼応していかねばならないからです。


    これから先も駅は建設されるのだろうか? 
    もちろん作られるはずだとペトゥホヴァ氏は確信をこめて語る。
    駅は利用客が増え、古い駅にかかる負担を軽減するためにも、また今日ロシアの最も辺境の地で生まれつつある、新たな産業の中心地を開発するためにも欠かせない。
    ペトゥホヴァ氏はそれでも、それぞれの新たな駅とその駅前広場はこれからもロシアの駅建築の功績の全てを考慮に入れて作られつづけることは間違いないとの確信を表している。

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    お答えします 2014年11月6日木曜日 (リヒャルト・ゾルゲについて)

    お答えします 2014年11月6日木曜日

    A.お題
    リヒャルト・ゾルゲについて
    http://japanese.ruvr.ru/2014_11_06/279696416/


    C.本文
    今から70年前の1944年11月7日、伝説的なソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲの心臓の鼓動は止まった。
    ゾルゲはラムザイの通称で歴史にその名を残した。
    そして今度は今から50年前の1964年の11月、ソ連では初めてゾルゲの諜報活動に関するきちんとした形の評価がなされた。
    ロシアの声はこの日にあわせて特別番組を組み、リヒャルト・ゾルゲの生涯からいくつかのエピソードをぬきだし、著名な日本研究家のアンドレイ・フェシュン氏、アレクサンドル・クラノフ氏の見解をご紹介したい。

    1944年11月7日の朝、東京の巣鴨拘置所。
    人間の歩みで図れば縦が5歩、横は3歩という狭い独房。
    天井にぎりぎり近い位置に格子の入った小窓。
    小さな電球が1人の受刑者をぼんやりと照らし出している。
    閂がかちゃかちゃと音をたてた。
    扉の敷居には看守と2人の警備員、そして主任牧師の姿。
    秩序を遵守しながら看守が口を開く。

    「あなたの名前は?」

    「リヒャルド・ゾルゲ」

    「年齢はいくつですか?」

    「49歳」

    「東京地方裁判所は絞首刑による死刑を言い渡し、最高裁判所は控訴を取り下げました。これはご存知ですか?」

    「はい、知っております」

    「執行は44年11月7日、つまり今日行われることになっております。覚悟はよろしいですか?」

    「覚悟は出来ております」


    看守は受刑者の視線を床に促した。
    床の真ん中にはハッチのふたがあった。
    ゾルゲはそのふたの上に立った。
    ゾルゲの首に縄がかけられる。
    そしてハッチのふたが開けられた。
    こうしてリヒャルト・ゾルゲの命は露と消えた。
    ゾルゲの死体は拘置所の墓地にある無縁墓地に埋葬された。

    ゾルゲの訃報は彼に非常に近しかった女友達の石井花子に伝えられた。
    石井はこれに絶望したが、それでもこの日から彼女の人生は再び新たな意味を帯びた。
    石井はゾルゲの遺体を捜し出し、墓を建て人々にこの人物のことを伝えることを自分の使命と肝に銘じた。
    そして1949年彼女の念願が叶う。
    石井花子はゾルゲの遺体を捜し出し、荼毘に付し東京の多磨霊園に埋葬しなおした。
    石井花子のおかげで日本語とドイツ語でリヒャルド・ゾルゲと銘を入れた墓石が立てられた。

    ソ連邦がゾルゲの貢献を認めるまでの間の1960年代の初頭まで石井花子は1人でゾルゲの墓守をしていた。
    1964年11月5日、ソ連最高会議幹部会が次のような勅令を出した。

    「祖国に対する貢献と勇敢かつ英雄的行動を讃えて同士リハルド ・ゾルゲにソ連邦英雄勲章を授与する」

    このすぐ後ソ連政府はゾルゲの墓所にロシア語で彼の名を刻んだ墓石を加えた。
    そこには「ソ連邦の英雄、リハルド ・ゾルゲ」と記されている。

    今のロシア人にとってはリヒャルド・ゾルゲは記念碑や文学作品に描かれ、諸都市のあちこちの通り広場に名を冠する存在であり、第2次世界大戦時代に英雄的に活躍した輝かしいスパイとして刻まれている。
    ゾルゲについてはほとんど全てが明らかにされていると思われているが、実は全くそうではない。
    1941年秋、東京でゾルゲとその一味が逮捕された後、彼の名はソ連では忘れるがままにされていた。
    そしてそれからほぼ20年にわたって同じ状態が続いていた。
    だがこれは何の不思議もなく非難されるようなものでもない。
    世界で暗躍するスパイのほとんどはその名も知られないまま消え去っていくからだ。

    ゾルゲのスパイとしての主な功績は一体なんだったのだろうか。
    高等経済学校の助教授で日本専門家のアンドレイ・フェシュン氏は次のように語る。

    1940年12月から始まってゾルゲはソ連の諜報参謀本部指導部に対し、わが国への攻撃準備に関する機密情報を送りつけ、文字通りこれを『爆撃し続けた』。
    そして攻撃の期間について知らせるだけでなく、ヒトラー軍がどこに一番の打撃を加えようとしているのか正確な方向までも報告したのだ。

    ところがゾルゲの報告をモスクワは信憑性を欠くとして受け止め、この点において除外的に注意深く受け止められていた。
    ゾルゲの悲劇はまさに最も重要度の高い戦略的情報でさえも諜報部の疑いを招いていたという点にある。
    だがいったん戦争が始まるとゾルゲの忠誠心は明確になり、軍事的性格の要請が次から次に寄せられるようになった。


    ゾルゲの功績は彼がソ連に対するヒトラーの攻撃を伝えていただけに留まらない。
    ゾルゲはドイツのソ連攻撃の日をはっきりと6月22日と明言していたのだ
    (これについては他のエージェンシーも情報を伝えていた)。
    1941年秋、ゾルゲは日本は対ソ参戦は行なわず太平洋上で米国を相手に戦うだろうと報告した。
    これを受けてスターリンは師団の一部を西部戦線およびモスクワ郊外に投入することができ、まさにこれによってモスクワへと進軍するヒトラー軍を阻止することが叶った。
    確かに軍部隊の配置換えはゾルゲの報告だけによるものではなかった。
    これには満州にいたソ連のエージェンシーなどの情報源も加味されていた。

    ソ連側の疑心はゾルゲを非常に気落ちさせた。
    ゾルゲは回想録のなかでこう記している。

    「私が集めた情報をすべてモスクワに送ったと考えるのは間違いになるだろう。
    いや、私は情報を自分の目の細かい篩にかけ、絶対的な確信をもってこれは非の打ち所がない信憑性があると思われるものだけを送ってきた。
    政治状況、軍事状況を分析する際も同じ姿勢で行なってきたのだ。」


    ゾルゲのもつ分析能力と広い博識が功を奏して、彼は日本で様々なコンタクトを取得することに成功する。
    そのつながりのおかげでゾルゲはほぼ第1人者に近い筋からの非常に価値の高い機密情報を得ることが出来た。
    ゾルゲが日本に渡ったのは1933年9月。
    ドイツの主要な新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員としてだった。
    新聞にはゾルゲが定期的に執筆する記事が掲載され始める。
    そんな記事の見出しを読むと、「日本の軍事力」、「日本の財政配慮」、「近衛公、日本の力を結集」、「日英の不透明な関係」、「軍事立法における日本の経済」などが挙げられる。

    認識的な資料、日本の将来についての考察がちりばめられたこうした記事は明確な政治的帰結を含んでいたため、すぐさま注目を集めた。
    ゾルゲはオイゲン・オットー駐日ドイツ大使の信用を勝ち得るようになった。
    オットー大使はしばらくすると日本がベルリンに宛てた大使館機密情報の編集まで頼むようになる。
    後にゾルゲはドイツ大使館の広報担当大使館員兼大使顧問となった。
    ゾルゲは最重要証拠の60%をまさに自分の執務室で、または大使の妻から入手していたのだった。
    これにある種の役割を演じたのがゾルゲのもつコミュニケーション能力の高さと魅力的な人格だった。
    だが最たるものは高い知性と多くの問題についての豊富な知識、先を見通し、全体を見渡して帰結を出すことのできる力だろう。
    ゾルゲは日本に渡る前に、日本の歴史、経済、文化について大量の資料を読み込んでいたが、それはちゃんとした理由があってのことだった。

    かなり短い期間でゾルゲは日本で見事に非合法活動を行なう諜報団「ラムゼイ」を作り上げた。
    そこには合計30人以上のメンバーが入っており、中核にはゾルゲ本人、無線技師のマックス・クラウゼン、洋画家宮城与徳、ジャーナリストのブランコ・ヴケリッチ、日本人ジャーナリストの尾崎秀実がいたが、尾崎はゾルゲにとっては最も重要な情報源となった。
    ゾルゲ諜報団は万人にアクセスが開かれた情報源のみならず、日本の閣僚、将官団、大産業家などをつかって最大限、諜報情報を引き出すことに成功していた。

    この一団にはたった一人の共産党員もいなかった。
    そしてこれはゾルゲのとった第1の安全対策だった。
    というのも日本の警察や特高は共産党員を捕まえようと「赤」狩りをして彼らの痕跡を見つけ、諜報団自体の存在を突き止める危険性があったからだ。
    数年にわたりこの「ラムゼイ」は日本警察の鼻面の前でたくみに振舞い続けた。
    ゾルゲ自身には目に見える、そして見えない様々な監視がついていたにもかかわらず。

    いくつかの諜報情報が日本の特務機関に傍受された際も特高はそれを解読したり送信地点をすぐに突き止めることは出来なかった。
    ところが送信ステーションはすぐ鼻先の東京郊外にあった。
    諜報団がこれだけ見事に成し遂げた理由についてロシア日本学者協会の幹部アレクサンドル・クラノフ氏は次のように語っている。

    まず、これはゾルゲの教育レベルの高さとプロとしての豊かな経験のゆえんだろう。
    ゾルゲは忍耐強く非合法活動に接していた。
    とはいえ時にこれを軽蔑していたことを物語る証拠もたくさんある。
    もちろんゾルゲは非常についていた。
    彼は危険を犯していた。
    あたかも運命を相手に競うかのように。
    ゾルゲは日本の警察のよけいな疑念を払拭することに成功していた。
    なぜならドイツ大使館という格好の隠れ蓑があったからだ。
    もうひとつゾルゲの成功を促した要因がある。
    1930年代半ば当時、日本の治安維持機関はこれだけの規模の諜報活動を相手にするには準備が足りなかったのだ。


    だがなぜゾルゲの諜報団は逮捕されてしまったのだろうか? 
    これについてフェシュン氏は次のように語っている。

    この一団はずいぶん前から追跡されていたのだが、どうやら証拠不十分だったようだ。
    ゾルゲに通信機で、ソ連大使館の代表らが直接彼とコンタクトを取るといわれたとき、ゾルゲはこの契約は暴露されるだろう、つまり破綻したことが分からないはずはなかった。

    このとき、ゾルゲの心中で何が起こっていたのか我々は知る由もない。
    だがゾルゲ本人がミスを犯すはずはなかった。
    ゾルゲを近寄せたのはソ連側の担当者らだった。
    諜報員が在東京ソ連大使館職員と直接的にコンタクトを取る場に引き出されたとき、日本の防諜機関には直ちに出動命令書が出された。

    もちろん有名な外国人ジャーナリストの彼には多くが許されてきたし、これといって大きな疑惑の念がもたれたことはなかった。
    だがソ連大使館の公式的な代表者に呼び出されたということは判決を言い渡されたも同様だった。
    これが内務人民委員部機関の知識不足なのか、または故意の煽動だったのかは明らかにされていない。


    いくつかの証拠によると、1943年9月29日、ゾルゲに死刑判決が言い渡された後、日本はソ連に対してゾルゲとノモンハン事件で捕虜となった日本人軍人の交換を申し出ていたことがわかっている。
    人質交換を許可できた人物はただ1人スターリンだけだった。
    なぜスターリンはこれに応じなかったのだろうか? 
    ひょっとするとスターリンにはゾルゲが「二重スパイ」であるかのような話が伝わっていたのかもしれない。
    本当にゾルゲは二重スパイだったのだろうか? 
    これについてクラノフ氏は次のように語っている。

    ゾルゲを『二重スパイ』と呼ぶには条件がある。
    ソ連側はゾルゲが送ってくる内容はベルリンにも送られていることは把握していた。
    ベルリン側が知っていたのはゾルゲがベルリンに情報を送っているということだけだった。
    これはあまりにも大きな違いだ。

    「もし平和な社会に生まれ、政治的に平和な環境にいたら、私は間違いなく学者になっていたはずだ。
    少なくとも、諜報員としての仕事を選ばなかったことは確かだ。」


    ゾルゲの独房での手記はこう語っている。
    彼は一体どんな人物だったのだろうか? 
    敵の穴のなかで働き、長い間、こんなにもうまくカモフラージュできたとは、どんな資質を兼ね備えていたのだろう。
    この問いをまずはフェシュン氏にぶつけてみた。

    ゾルゲはロマンチストだった。
    スパイの仕事を始めながらゾルゲはプロとしてのロマンチシズムの時代を体験している。
    スパイとしての自らの課題を彼は日本のソ連侵攻を防御することと捉えていた。
    そしてこれは彼にとっては平和を求める闘争のロマンチシズムだったのだ。
    これは彼の上海時代に運命のいたずらで彼がソ連諜報機関のレジデントになり、甚だ功績を挙げてしまったときにすでに発揮されていた。
    ゾルゲのあらゆる方面に均一の取れた性格、やりくりのうまさ、人付き合いのよさも発揮された。

    だが常に緊張の中で生きるというのは誰にでも出来ることではない。
    ロマンチストであるからこそ、ゾルゲは神経質にもなった。
    それでも彼は人目を惹く人間であり、絶好の話し相手でありつづけることができた。
    彼は美しい人物で非常に勇敢だった。
    女性たちは彼に夢中になった。
    おそらくそれだけのものがあったに違いない。
    ゾルゲが本当に一貫した、一様な性格の持ち主ではなかったことは確かだ。


    クラノフ氏の意見はこうだ。

    残念ながらゾルゲの恋人だった石井花子の著作『人間ゾルゲ』はロシア語には訳されていない。
    訳されていれば多くの面白い事実を知る事が出来ただろうと思う。
    この人はまちがいなく完全な、そしてあまりにも高度な知性をもったとても強い人物だ。
    当時の描写のそこここからゾルゲがいかに敏感で注意深く強い意志力をもった人間かがわかる。

    もちろん彼は強いエネルギーと芸術家としての資質を兼ね備えていた。
    必要と在らばゾルゲは人を魅了し自分にひきつける事が出来たのだ。

    彼は惚れっぽく数々の女性を相手に名声を上げた。
    花子のゾルゲへの愛の物語はロシアでも日本でも十分に評価されていないと思う。
    8年ものスパイ活動をゾルゲは常に高度の緊張状態で行なっていた。
    このため時に激しい感情の起伏に襲われることがあったが、これは十分に説明がつく。
    まあ、まったく普通とは違う人間だった。


    ゾルゲの働きの意味をまとめると、これは日本とソ連の間の戦争勃発を防御することにあったが、実際ゾルゲによってこれは見事に果たされた。
    たしかにゾルゲは「日本の国益を損傷した」として裁かれたが、事実上はゾルゲは日本を敵にしたわけではなく、なんとか日本とソ連に戦争が起きぬように働いていただけなのだ。
    今の日本人の解釈はまさにこうであり、だからこそ未だにゾルゲの墓には花が絶えない。
    リヒャルト・ゾルゲについてはロシア人もそして外国人も多くの調査を行い執筆を行なっている。
    残されていた古文書もほとんど全てが公になった。
    ゾルゲの名は伝説となり、その歴史はどこまでが真実でどこからが嘘なのか見分けがつきにくいほどに数々の伝説がまとわりついている。
    何か新たなことを探し出すことは難しい。
    この番組ではゾルゲの人生の最後を少し取り上げてみた。
    リヒャルト・ゾルゲ没後70周年の前日に再びこの人物を思い起こし、その功績を讃えたい。

    お答えします 2014年10月16日木曜日(ロシアの広告事情)

    お答えします 2014年10月16日木曜日

    A.お題
    ロシアの広告事情
    http://japanese.ruvr.ru/2014_10_16/278760313/

    再放送日時
    2015年4月23日


    B.選曲

    1曲目
    Shocking Blue - Venus
    ショッキング・ブルー - ビーナス


    C.本文

    どんな国のコマーシャルでも独自の国民カラーを持っているものだ。
    コマーシャルはコミュニケーションの1つの形であり、一種の特殊言語で、翻訳を必要とするものでもある。
    宣伝コマーシャルやコマーシャル動画を見ると、その国民のメンタリティーや価値観、理想がうかがえる。
    このためコマーシャルの特色はいつもその民族の文化、伝統、歴史、心理に根ざしたものとなっている。

    この意味でロシアの文化はユニークだ。
    ロシアは東と西の交わる交差点に位置している。
    ヨーロッパに近い国でありながら、今の西側のブランドをロシアの文化地質に直接的に持ち込むのは不可能だ。
    この意味でロシアも日本もそのコマーシャル市場は似たような困難さに直面している。
    ある面では日本、ロシアのコマーシャルではヨーロッパの、あるいは米国のブランドを扱うことが多く、そうしたブランドはすでに西側で形成されている独自のイメージをもっている。
    ところが別の面から見ると、ロシアでも日本でも、コマーシャルメーカーはこのイメージを自国民によりわかりやすい、近いものに作り変えねばならない。
    しかも自分たちの伝統文化を維持し、コマーシャルを通すことも含め、これを次の世代に渡していこうとしている。
    このためコマーシャルはときに西側のステレオタイプや欧米的思考からも離れてしまうことがある。

    コマーシャルメーカーは時としてわざと、本家本元の西側ブランドに対立するような真似をして、コミカルなセンスを加えることがある。
    2年ほど前の話だが、可笑しな「クワス」のコマーシャルが出現した。
    クワスというのはスラブ民族に特有の黒パンから作った発酵清涼飲料水だが、あるメーカーが自社クワスに「ニコーラ」という名前をつけた。
    「ニコーラ」というのはロシア人男性の名前「ニコライ」の愛称だが、ここには確かに、あの世界中で飲まれている米国の清涼飲料「コーラ」の響きが含まれている。
    しかも、この「ニ」というのはロシア語で「ニェット」つまり、否定を表すNOのことだから、この飲みものは名前からして「クワスっていうのは、ニ・コーラ、コーラじゃないよ」といっていることになる。
    「コカ・コーラ」はものすごく健康に良い飲料水ではないというイメージを負っている一方で、それから連想させるものはアメリカ文化とその価値観と切っても切り離せない。
    それとコマーシャルの中で対抗するクワスは、このようにして、体によく、天然の「愛国的」製品であると高らかに謳われているわけだ。

    西側のブランドでは西側流の製品名が受け入れられないという可笑しな例がよく見かけられる。
    たとえば、ロシアでは «Blue water» というミネラル・ウォーターはうけず、さっさと姿を消した。
    なぜならば、その単語の組み合わせがロシア語のトランスクリプションでは «блю вота» (ブリュ・ヴォタ)となり、これが嘔吐の音を想起させるという悲しい結果になったからだ。

    それでも製品の広告看板、コマーシャル・マテリアルでは、ロシアの消費者に合わせることなく、英語の名称をそのまま訳したものがほどんどだ。
    これがまた、可笑しな効果を呼び、広告のテキストでつづりも意味も「大間違い」になってしまうことも多い。
    それでも、ロシアの消費者はこんなコマーシャル・マテリアルでもOK、ハラショーという。
    なぜなら崩れた翻訳でもそれなりの本質は伝えているからなのだ。こうしたコマーシャルのおかげでここ20年、ロシア語のなかの外来語の数はとんでもない勢いで増えた。
    おそらくこうした問題はロシアにも日本にも共通するものだろう。

    さて、ロシアのコマーシャルを語りながら、なぜ私たちは書くも頻繁に西側と平行線をたどるのだろうか? 
    ロシアにとってはそのそもコマーシャルは原則的に新しい社会文化現象なのである。
    その登場はソ連崩壊の瞬間と一致する。
    このためロシア人にとってはコマーシャルは外から入ってきた現象であり、ロシアの歴史の中にはこんなものはなかったのだ。
    今のコマーシャルのテキストをソ連時代に存在したわずかな広告文と比較しようなど絶対に無理な話である。
    なぜなら、国家モニタリングの統制下では宣伝活動の主たる原動力である市場競争など、そもそも存在していなかったからだ。
    これはもちろんのこと、宣伝文句の形式にも内容にも反映されていた。

    このほか、ここ数年、電子世界のあまりに急速な発展がマスコミの、そしてコマーシャルの可能性を大幅に拡大した。
    技術改良のおかげで、私たちの日常に毎分のように、今まで考えられなかったような大量の映像、音が進入してくるようになった。
    前世紀の人間であれば、こんなふうにあらゆる壁からパッケージから、箱から、服から、時にまったくふさわしくないような場所から自分を「見つめて」いるピクチャーに遭遇したら、きっと卒倒してしまうに違いない。
    これは時に、テキストの字体形成にも関係している。
    鮮やかで驚くほど多様な字体が先を争うように私たちの視線をとらえ、ジャーナルの表紙や看板、パッケージに注意を惹く。
    ところがこれは常にふさわしい場所にあるとは限らない。
    コマーシャルの課題は、なによりもまず、注目を集めることにある。
    なぜなら通りを歩いている人はじっと最後まで看板を覗き込んでいるわけではないからだ。

    おそらく、ロシアのコマーシャル、宣伝のこうした特長が日本人を驚かせるのではないだろうか? 
    日本では、周りの人に迷惑をかける、騒がせることはよしとされない。
    たとえば公共の場所で大声で携帯電話で会話することはマナーに反する。
    おそらくはこのマナー原則を日本の広告代理店も守っているのだろう。
    通りに立てられる露出広告は通行人の気をそらすものであってはならないのだ。
    ロシアの広告に比べると、日本のそれはより完成された作品に近く、周りの空間から孤立しているようだ。

    今のロシアでは事情はそれとは全く異なる。
    露出広告にはものすごいニーズがある。
    露出広告は大きく儲かるので広告代理店は広告を建てる新たな場所の開発に余念がない。
    ここ数年、露出広告はあっと驚くような場所に登場するようになった。
    たとえば地下鉄の車両の床、地下鉄の駅の床などにも広告が張られている。
    違法ではあるが、突然通りの真ん中でアスファルトの上に広告が書かれていることもある。
    地下鉄について言えば、車両が完全にひとつのブランドの広告に占領されたものも登場した。
    つまり、何両編成かの地下鉄全体が車両の外側から内側まですっかり一つのブランド、メーカーの宣伝で埋まっているというものだ。

    最近は人通りの多いところでのビラ配りや、宣伝文句を大声で叫ぶプロモーターの姿もよく目に付くようになった。
    いわゆる「生きたコマーシャル」も相変わらず人気を誇っている。
    これは人間がコマーシャル・マスコットのかたちになったり、コマーシャル入りの服をきたり、アクセサリーをつけて人目を引くという宣伝の形。
    このほか家の固定電話に電話をかけ、サービスを提供するコマーシャル・コールも普及している。
    こういった電話を利用するのはインターネットプロバイダーやビューティーサロンが多い。

    今のロシアの広告市場の状況を一様に評価するのは容易くはないが、広告の歴史が浅い割りには、この市場はかなりの改善にこぎつけたことは間違いない。
    90年代、広告、コマーシャルの質はきわめて低く、冗談の対象にされることが多かった。
    コマーシャル、正確を期せば笑うしかないほどひどい状態の広告はポストモダン作家として有名なヴィクトル・ペレーヴィンの有名な小説『ジェネレーション P』のライトモチーフにまでなった。
    実際、当時の広告の質はあまりに低かったにもかかわらず、それでも自らの課題はこなしていた。
    つまり商品販売を助けていたのだ。広告市場はまだ飽和状態にはなく、消費者も、ソ連時代、ソ連崩壊後、またそれに先行した経済停滞時期という物不足の時代に溜め込んでしまった自分の消費意欲を一刻も早く満たそうと必死だったからだ。
    現在、状況は変化している。
    一方で広告分布の条件は安定したが、競争も広告価格も著しく高くなってしまった。
    これらすべてがあいまって、広告の作り手は専門的な経験をとぎすませ、広告を注文するほうは入念に広告代理店選びを行なうようになっている。

    それでも当然のことながら、ロシアの広告のプロらだって外国の広告作りに学ぶところは大きい。
    ここ最近、ロシアの広告はどんどん外国の経験を取り入れるようになってきた。
    しかもそれは西側の広告に留まらない。
    新たなアイデアを探すロシアのクリエイティブたちはもちろん、日本の広告に無関心ではいられなかった。
    日本の広告はロシアの若者の多大な興味を惹いている。
    しかもそんな人たちの携わる分野は広告とは全く関係がない。
    驚かされるのは、人気度では、ビデオホスティングで日本のコマーシャル動画がダントツを走っていることだ。
    日本のコマーシャルがカバーする層は極めて広く、日本のアニメファンの層をはるかに上回っている。
    感動しきりのユーザーらの書き込みによると、日本のコマーシャルは「もう狂気の沙汰」なのだそうだ。
    これはつまり、あまりにオリジナリティーが高く、しかも異常に興味を惹き付けるという評価になる。
    カナダの広告代理店 Leo Burnett がロシアのマクドナルドのために作ったコマーシャルはどうやらこの効果を狙ってのものだったらしい。
    動画には髪の毛の色の異なるふたごの女の子がでてくる。
    服装は日本の女子高校生の格好で、このまわりを頭が上下反対についている男の人やら、 パンダ、折り紙、変形ロボットなどなど、へんてこで、カワイイ人たちがいっぱいでてくる。
    コマーシャルの制作は2012年だが、これはYouTubeで未だに大ヒットを飛ばし、訪問回数を増やしているほか、このリメイクバージョン、パロディー版まで登場した。

    さらにもうひとつ、ロシアの広告市場の発展を示す傾向をあげると、国が社会広告に対し、さらに大きな注意を向けるようになってきていることだ。
    2011年にロシアではこれに関する2つの法律が採択された。
    それは社会広告の創出および配置の法的規則の改善を図るもので、これによって広告メーカーも注文主も税金から解放されるようになった。
    ロシアの社会広告の質が十分高いことは注目に値する。
    その理由はおそらく、この種の広告がロシアでは豊かな歴史を誇っていることにあるのではなあいだろうか。
    今のテクニカルタームでいえば、あの有名なソ連のアジテーション・プラカードは社会広告という以外呼びようがないからだ。

    時にこうした広告はショックをあたえ、不意に危険や社会問題のようないやなものを想起させることもある。
    だが、そんなものも社会広告の本の一部であり、その種たる役割は社会を市民全体、人類社会全体の理想と結びつけ、分かりやすい言葉で国の政策の意味を国民に理解させることにある。
    統計によると、社会広告の割合は過去6年は変化なく、広告全体の1%を超えることはない。
    だが、世論調査の結果からは、市民の45%が社会広告は社会の問題解決に現実的な影響を及ぼしていると断言していることがわかっている。

    番組の終わりに付け加えると、どんなコマーシャル、広告でもそれを見る、読む際は、意味を良く踏まえて、冷静に対処したいものだ。
    反対に広告制作にたずさわる方々には、ご成功、ますますのご発展を祈念したい。
    どんな広告でも人間の頭脳にあまりに大きな影響を及ぼすことを考えると、情報の客観的な伝達、全人類的価値の保全は商業的な成功を邪魔するものではないということを記憶したうえで、これを用いるよう期待したい。

    お答えします 2014年10月2日木曜日(コルチャーク提督について)

    お答えします 2014年10月2日木曜日

    A.お題
    コルチャーク提督について
    http://japanese.ruvr.ru/2014_10_02/278097663/
    http://static.ruvr.ru/download/2014/10/16/14/Kolchak.mp3
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/kolchak

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3


    C.本文

    映画「提督」は2008年、ロシア人映画監督でプロデューサーのチムール・ベクマムベトフによって撮影された。
    ベクマムベトフ監督の作品は日本では「ナイト・ウォッチャー」や「デイ・ウォッチャー」が公開されている。
    これはロシア人作家のセルゲイ・ルキヤネンコの同題の著作を映画化したもの。
    映画「提督」の舞台は1916年から1920年、ロシア帝政期の瓦解と内乱の血塗られた嵐を背景に展開している。

    映画の中心人物はコルチャーク提督。
    提督はロシアの愛国者として描かれており、祖国の運命を一身に引き受ける覚悟でいたが、状況からロシアの人民に銃口を向けざるを得なくなる。
    コルチャーク提督の悲劇的運命にはロシア自身の悲劇が反映されていた。

    モスクワ大学史学科で20世紀のロシア史を教えるアレクサンドル・オスタペンコ助教授は映画の特徴について次のように語っている。

    「映画はコルチャーク提督とアンナ・チミリョーヴァの関係を主題に展開している。
    コルチャークとチミリョーヴァが交わした書簡、短い書付が残されている。
    こうした書付をベースに筋が組み立てられた。
    この意味で映画はほぼ史実に即しているといえる。
    だが全体として話は実際の史実と一致しているものの、映画では個々の出来事は多少理想化されて描かれている。」


    実際に他の多くの専門家も認めるように、スクリーン上のコルチャーク像は虚像の部分が多い。
    コルチャークはあまりに一徹でセンチメンタルだが、本物のコルチャークはより矛盾に満ち、多面的な人間だったとされている。

    コルチャークについて同時代人の書いた回想記を読むと、複数の人物についての回想かと思われるほど、その像は異なっている。
    ある回想ではコルチャークは「やつれ、厳つい様子をしていた」と書かれているが、他の回想では、「彼の顔には驚くほど心地いい微笑が浮かんでいた」、また別の本では「彼の顔には思考と感情のあらゆる色調が表れていた。
    よいときにはそれは内面の光を得て輝きだしたものだった」とある。
    当時のジャーナリストらはコルチャークには「どことなく野獣的なところがあった」と指摘している。
    提督は外見だけでなく、性格も一様ではなかった。「気品が漂うが、素朴で気取ったところがない」といわれた一方で傲慢で尊大なところもあった。
    誠実さをほめる人もあれば、度を越した一徹さをなじる人もいた。

    コルチャークは優秀な成績で海軍学校を卒業すると、エドゥアルド・トッリ男爵の北極探検隊に参加して功績を挙げた。
    この時期コルチャークは日本、中国、朝鮮などのアジア諸国を回り、東洋の哲学に心酔して中国語まで学び始めている。
    また独学で海洋学に没頭し、学術本まで発行した。

    1904年3月、コルチャークは教養のある貴族の娘、ソフィヤ・オミロヴァと結婚した。
    ところが結婚式の数日後には二人は引き裂かれてしまう。
    コルチャークは露日戦争へと送られたからだ。

    露日戦争でのコルチャークの英雄的な働きは敵の日本人でさえあっぱれと褒めたほど目覚ましいものだった。
    アルトゥール港(旅順港)を明け渡したあとも、コルチャークは自分の率いる砲兵中隊とともに砲撃を止めず、負傷して、ようやく捕虜にとられた。
    いくつか残されている歴史の証言によれば、コルチャークの勇敢さに深く感銘を受けた日本人は、それに対する敬いの念を示そうと、武士の行列を2列組み、コルチャークを籠にのせて運んだ。
    それだけではない。
    日本帝国軍司令部は捕虜であるコルチャークからは武器を取り上げず、戦争終結を待つことなく、彼を自由の身にした。

    1915年、コルチャークの人生に転換期が訪れる。
    コルチャークはアンナ・チミリョーヴァと出会ったのだ。
    アンナは友人の人妻だった。

    二人の心は一瞬のうちに固く結ばれあった。
    その絆はあまりに強く、ふたりはどうしても交際を打ち切ることができない。
    そして頻繁な手紙のやり取りが始まった。

    二人が知り合ったとき、コルチャークは41歳、アンナは22歳だった。
    これまでにコルチャークは世界の大洋の4つを制覇し、20の海を渡り、世界一周旅行を成し遂げ、2冊の本を著していた。
    コルチャークにはロシアだけでなく、外国からも多くの勲章が授与されている。
    こんなコルチャークとチミリョーヴァの関係は、国民的英雄とナイーブな若い娘の間の恋という印象を与えるかもしれない。
    だが実際は、チミリョーヴァという女性はコルチャークに劣らずはっきりとした個性を持った人物だった。
    チミリョーヴァはコルチャークよりも強かったと語る人も多い。
    「大丈夫、まだ私たちは戦える。」
    これがチミリョーヴァの口癖だった。
    コルチャークを励まさねばならないとき、チミリョーヴァはかならずこの科白を手紙にしたためたものだった。

    こうした心からの励ましのおかげでコルチャークは躍進的な昇進を遂げていく。
    第1次世界大戦のさなか、1916年、コルチャークに黒海艦隊の司令官の辞令がおりる。
    コルチャークにはロシア全国から賛辞が浴びせられる。
    中央の新聞はコルチャークについての記事を書きたて、彼の写真が紙面に踊った。
    そのときこの1年後にロシアで革命が起き、コルチャークの運命も急展開して、国民的英雄が国家犯罪者に転落することなど誰が予想できただろう。

    1917年2月、旧弊した世界は瓦解した。
    黒海艦隊の状況をコントロールできなかったコルチャークは、6月には首都ペテルブルグへと召還される。

    コルチャークはボリシェビキを受け入れることはできなかった。
    ボリシェビキがドイツと停戦交渉を行っていることを知ったコルチャークは、これをロシアに対する裏切りととらえ、これ見よがしに辞職する。
    辞職の前にコルチャークは水兵らにむかって怒りに燃えた弁舌を行い、露日戦争の終戦に際して「勇敢さ」を讃えて叙勲された金の勲章を海に投げ捨てた。

    オスタペンコ助教授は、新政府に対するコルチャークのこうした反応を次のように説明している。

    「コルチャークは単にボリシェビキのロシアなど想像もできなかった。
    彼はロシア軍の大多数の将校と同じように、心からの君主主義者だったからだ。
    まあ、大多数といえなくとも、かなりの数の将校らがこうした君主主義者だったといえる。」


    だからこそコルチャークはボリシェビキに反対する運動に加わらないかと誘われると、即座にこれに同意したのだった。

    コルチャークは軍事経験を交換するために国外へと送られた。
    コルチャーク提督自身、後日、回想録のなかでこのミッションを振り返り、ほとんど傭兵に近いものだったと告白している。
    本質的に、コルチャークは外国の軍人、政治家らの支援を取り付けたことで、この瞬間から祖国の裏切り者になってしまった。
    こうした者たちは白衛軍を助けようとはせず、弱体化したロシアに侵略する計画のほうが大事だったのだ。

    コルチャークは英米に渡った後、ロシアへは日本を経由して戻り、十月革命を知った。
    そしてロシアの軍人の高官では彼以外誰もしなかったことをした。
    コルチャークは英国のエージェントとして自分を採用するよう頼んだのだ。
    このあとコルチャークはハルビンへと送られる。ハルビンでは反ボリシェビキ勢力が形成されつつあった。

    この時期、コルチャークとアンナ・チミリョーヴァの間のロマンスはますますドラマティックな展開を見せる。
    二人はほんのつかの間の逢瀬を重ねながらも、始終文通を続けていた。
    今までと同じ、生活は別々に、それぞれが自分の家庭で暮らしていた。
    この状態は1918年の夏まで続く。アンナは夫と共にウラジオストクに出かけ、その旅の途中でコルチャークがハルビンにいることを偶然知った。
    このときアンナは運命を決める行動に出る。
    コルチャークと会おうと出かけたのだ。
    この後すぐにアンナは夫と正式に離婚するが、こんな話は当時、全くありえないことだった。
    真珠の首飾りを売り払い、チミリョーヴァは海を渡って日本へ行く。
    日本にはそのとき、コルチャークがいた。

    後日、回想録のなかでチミリョーヴァが明かしたところによると、コルチャークは駅で彼女と会い、帝国ホテルへと連れ込んだ。
    翌朝、コルチャークは自分と一緒にロシア正教会へ行くよう頼む。
    教会は人気が無く、二人は並んで立ち尽くし、日本語で語られる正教の祈祷を聞いていた。
    これが結婚式の代わりだった。
    そしてこの瞬間からふたりは一緒だった。

    愛する女性と一緒となり、コルチャークはシベリアへと戻る。
    1918年11月、オムスクで軍事クーデターが起こる。
    その結果、コルチャークはロシアの「臨時最高指導者」となった。

    おびただしい数の兵士を抱える軍を組織し、コルチャークはシベリア全土とウラルを掌握し、ヴォルガ川まで迫る勢いを見せた。
    ところが1919年半ばからコルチャークを次々と不運が襲う。
    赤軍はひとつの町、また次の町と制圧してゆき、コルチャークの軍をどんどんと東に追い詰めていった。

    このときからコルチャーク体制には危機が始まる。
    シベリアの農民はコルチャーク軍に従軍し、食糧を供出することを望まなかった。
    そこでコルチャークらはこれを武力で解決し始めた。
    目撃者の証言では白衛軍の兵士は常に銃殺を振りかざしながら従軍者を集めていたという。
    そしてこれに従わなかった者らは、処刑の前に自らの手で自分の墓を掘らされた。

    状況はコルチャーク体制の核の中に、社会主義革命のために蜂起した民衆への復讐心に燃える人間がそろったことでさらに深刻化した。
    コルチャークの腹心らは反体制を疑われる人物は全員銃殺しつるし上げ牢屋にぶち込んだ。
    ウラル地方だけでコルチャーク体制の粛清にあい、殺された人間はおよそ25000人に及んでいる。

    こうした行為はコルチャーク戦線を崩壊へと招いた。
    動員兵は群をなして部隊を離れていった。
    コルチャークとの協力を、以前は彼を信奉していた多くのインテリらが拒むようになった。

    ところがこうした事件を目にしていた数人の証言によると、コルチャーク自身はむごい命令を出したことは一度もなかったらしい。
    彼はもともと穏やかな性格だった。
    北極探検に参加したときも、力尽きた犬を殺すことは許さなかったといわれている。

    このようにしてコルチャークは人間としては君主制を破壊したテロを容認しなかったが、専制君主としてはテロ行動を阻止せざるを得なかった。
    それは無慈悲な軍事的専制をおいてボリシェビキ政権を打倒できる手段はないと確信していたからだ。

    白衛軍が全滅した後、コルチャークは捕らえられ、捕虜となる。
    今の時代の専門家らはコルチャーク自身は歴史的現象としてはコルチャークの信奉者と同列ではなかったことを認めているが、内戦の空気の中ではこうした繊細な違いをとやかく言うものはいなかった。
    人民の目にはコルチャークはコルチャーク派を具現化する存在に映っていた。
    そしてこれが提督のその後の運命を決めた。

    コルチャークの銃殺は1920年2月7日と決められた。
    目撃者の回想では、その日は恐ろしい寒さでシベリアでさえ、これだけ厳しい凍ては珍しかったという。
    伝えられているところでは銃殺の行なわれた川辺で提督はロマンスを歌ったという。
    それは「燃えよ、燃えよ、私の星よ」という歌だった。

    コルチャークは輝かしい司令官であり、才能豊かな北極探検家であり、ロシアの栄光のために多くを成し遂げた人物だった。
    ところが別の見方をすると、彼は「シベリアの血塗られた処刑者」という異名を得るほどの軍事専制者だった。

    オスタペンコ助教授はソ連時代あらゆる歴史資料にはコルチャーク像の一面だけが表されていたとして、次のように語っている。

    「ソ連の歴史学の表した内戦時代とその後では、コルチャークの像はもちろんネガティブなもので、ソ連政権の主たる敵のひとりとされていた。
    とはいえソ連軍人のなかには主としてこれは海軍将校らだが、コルチャークの勇敢さ大胆さに、そして北極調査の貢献に深い敬意を表すものたちもいた。
    ソ連時代のコルチャーク像は往々にして極端に無慈悲な専制者として描かれていた。
    とはいえ、これはある部分は実際と一致しているといわねばならない。
    コルチャークは銃殺の命令を出していたし、そうした銃殺は大量殺戮だったからだ。
    ただ指摘しておかねばならないが、これは一部は実際と一致する。
    コルチャークは銃殺の命令をだしていた。
    そして銃殺は大量殺害だったということだ。」


    ペレストロイカが始まるとロシアの歴史上の人物への評価も変わり始めた。
    コルチャークも例外ではなかった。
    オスタペンコ助教授はこれについて、さらに次のように語っている。

    「ここ数年、コルチャークに光を当てた研究が多くなされるようになってきた。
    コルチャークへの評価は変わり、より秤にかけた肯定的なものに変わりつつある。
    私自身はコルチャークを研究者としても人間としても勇敢な人物として捉えている。
    私の評価はもちろんのこと敬意に満ちたものだが、これはあらゆる場面、時代に注意を向けた上でのことで、これには銃殺も含まれる。
    コルチャークは他の人間にたいして遠慮することはなかった。
    ただし、当時、ボリシェビキも同じように遠慮はしなかったことは指摘しておかねばならない。」


    今のロシアでは価値の再評価が行われつつあり、自分たちの歴史も客観的に捉え、単に白か黒かに色分けせぬようになってきた。
    人生の出来事はすべてそう単純ではないからだ。

    映画「提督の戦艦」(英語版)はこちらです。
    ご興味をもたれた方 はどうぞご覧ください。
    https://www.youtube.com/watch?v=gRckaEkuRAo



    お答えします 2014年9月11日木曜日(ロシアの姉妹都市について)

    お答えします 2014年9月11日木曜日

    A.お題
    ロシアと日本の姉妹都市について
    http://japanese.ruvr.ru/2014_09_12/277191312/

    11日日本時間21時台放送分の音声ファイル一部視聴不能につき、音声ファイル視聴は14日日曜日モスクワ時間17時台分を参照のこと。

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3


    C.本文

    2014年9月初旬、ロシアの数都市を視察した舛添東京都知事は姉妹都市であるモスクワとの交流強化を約して帰国した。
    知事、市長の交流再会は実に20年ぶりのこととなった。
    姉妹都市関係を結ぶとはいったい何を示すのだろうか? 
    姉妹都市提携をすることでどんなプラス面があるのだろうか?

    東京都、大阪市、札幌市、新潟市などの大都市も含め、日本のおよそ40の都市がロシアと姉妹都市関係を結んでいる。
    姉妹都市関係というのは、都市の間に恒常的な友好関係が成立している間柄を指す。
    姉妹都市の市民らは互いに行き来しあい、代表団の交換や合同の学会、スポーツ競技、芸術関連の展覧会の開催を行う。

    姉妹都市関係を結ぶという運動が始まったのは、実は第二次大戦のさなか、人々が共通の不幸で結ばれ、そして最も支援を必要としていた時だった。
    1942年、ソ連のスターリングラードが残酷極まりない爆撃を受けていたとき、同じくナチス・ドイツの空襲に苦しんでいた英国のコベントリーの市民はスターリングラード市民に電報を送った。
    電報の文面には、ソ連市民の勇気と平常心に対する心からの感動が表されていた。
    コベントリー市民はスターリングラードの人々に友情の手を差し伸べたのだ。
    その後の1944年になって、コベントリからスターリングラードに最初の贈り物が届く。
    中身は刺繍の施されたテーブルクロス。
    そこには「大きな同情をするより、小さな助けをさしのべたほうがいい」という文章とコベントリーに住む800人以上の女性の名前が縫いこまれていた。
    刺繍に加わった女性らはそれぞれが自分の名前を糸で綴ったのだった。
    そのテーブルクロスとともにコベントリーはお金を送った。
    それはスターリングラード市民のために開かれた慈善キャンペーンのなかで集められたものだった。
    こうしてソ連のスターリングラードと英国のコベントリーは世界で初めての姉妹都市となった。

    1957年、世界中の姉妹都市の代表者らによって国際姉妹都市連盟が創設される。
    1964年、ソ連には「ソ連外国都市交流協会」が誕生し、その尽力によって旧ソ連のおよそ300の都市が世界71カ国に姉妹都市を見つけることができた。

    姉妹都市運動が特に大規模に展開されたのは1980-1990年代。
    この時期は田舎の小都市でさえ10もの姉妹都市と提携関係を持とうと奔走したものだった。
    ここ数年はこうした爆発的な傾向は廃れたものの、それでも姉妹都市関係は新たな都市の間で結ばれ、拡大を続けている。
    国際姉妹都市デーまで制定された。
    これは4月の最後の日曜日に祝われている。
    国際姉妹都市デーの制定は、1963年パリ、国際姉妹都市連盟によって採択されている。

    さて、露日の間で最初に姉妹都市となったのは沿海地方のナホトカと京都府の舞鶴市だった。
    合意が結ばれたのは1961年。
    ナホトカはその後、日本の小樽、敦賀市とも姉妹関係を結んでいる。
    だがナホトカが日本の複数の都市と姉妹関係を結んでいることは驚くに値しない。
    1992年、ナホトカはソ連極東で唯一、外国人の立ち入りが許可された港湾都市であり、国際交流の中心地だったからだ。
    日本の総領事館も1991年までまさにナホトカに置かれていた。

    ナホトカと舞鶴の姉妹関係は歴史的な国際関係があって築かれたものだった。
    それはまず貿易関係だったが、後日これに真心と温かい気持ちが芽生えてきた。
    1978年夏、姉妹都市関係締結17周年を記念し、舞鶴からの「友好の船」が初めてナホトカに着いた。
    船には当時のタテミチ市長を団長とする250人からなる代表団が乗船していた。
    この代表団はナホトカ市に「友好の石」を贈る。
    石はナホトカ大通りに置かれることになった。
    これがきっかけで同じような石が今度は舞鶴にも登場した。
    ナホトカからの石はナホトカから贈られたトネリコ、白樺、樅が植えてある「友好の庭」センターに置かれた。
    こうした記念のモニュメントや並木道はロシア、日本の全ての姉妹都市に見つけることができる。

    露日間で最近に姉妹都市関係が結ばれたのは2001年。
    同年7月にクロンシュタット(レニングラード州)と洲本市(兵庫県)が、9月にはユジノサハリンスク(サハリン州)と稚内市(北海道)が姉妹都市になった。

    ナホトカの他に日本の姉妹都市を多く抱えるのは極東のもう一つの大きな港、ウラジオストクだ。
    ナホトカ同様ウラジオストクも新潟市(1991年)、秋田市、函館市(1992年)と姉妹都市関係を結んだ。
    日本のなかでロシアとの姉妹都市関係を最も多く結んでいるのは新潟市。
    提携先はやはり3都市でハバロフスク(1965年)、ウラジオストク(1991年)、ビロビジャン(1992年)。
    ソ連崩壊、ロシア連邦誕生の1991年にモスクワと東京が姉妹都市となったのは象徴的。

    在露日本大使館のサイト上の情報によれば、希望すればロシア、日本のいかなる都市も姉妹都市関係を結ぶことができる。
    姉妹都市になるには、相手の都市政府に対し、自分の都市の地理、人口、歴史、文化、インフラについて情報を伝え、姉妹都市関係、交流を行いたい旨を告げればよい。
    姉妹都市の具体的な相手を選ぶことができなくても、姉妹都市を探していることを広く知らしめ、反応がくるのを待つだけでよい。
    こうした姉妹都市相手探しに格好のウェブサイトが最近登場した。
    地元自治体システム国際化協会の作るサイトCLAIR www.clair.or.jpがそうしたサービスを提供している。

    では実際、姉妹都市になるとどんなよいことがあるのだろうか? 
    姉妹都市になるということは、他の外国のパートナーを前に相手の都市を認め、これに対して大きな信頼を寄せたということを示すことになる。
    ですから町のプレステージも国の権威もあがる。
    姉妹都市合意によって文化、観光の交流が促されるばかりではない。
    役所の公的組織や事業が相互関係を持つための法基盤も出来上がっていく。
    このほか、姉妹都市合意にはよく姉妹都市圏において言語、文化の普及を支持しようという項目が見られる。
    自然災害に襲われた場合、姉妹都市はいつも互いに人道援助を行なう。
    もちろんこうした計画の多くは姉妹都市の政府の積極性や発案力に掛かってくるのは当然だ。
    残念ながら、姉妹都市関係が外国語を学ぶ学生どうしのただの手紙の交換に終わってしまう例も少なくない。

    だが露日の自治体間の姉妹都市関係はありがたいことに、空疎なお題目とは全く異なっている。
    これからは姉妹都市どおしが親戚のように互いの生活をより豊かにおもしろくしている数例をご紹介しよう。

    イルクーツクで3月行なわれた「美容産業」展では、最先端の化粧品のもつ素晴らしい威力が紹介された。
    よりぬきの製品を展示したのはロシア全土から参加した50人。
    このほか展示会の枠内では理容、装飾的メイク、マニキュアのコンテストが開かれている。
    この展示会にはイルクーツクと姉妹都市関係を結ぶ各都市が日本、韓国、モンゴル、フランス、ポーランド、ドイツから参加した。

    サハリン州の州都ユジノサハリンスクの青年スポーツマン代表団が姉妹都市の旭川市で開催の権威あるスキー大会、第35回北海道スキー選手権大会に参加した。

    こうしたことは一見たいしたことではないかのように思われるが、まさにこうした自然体での付き合いが最終的にそれぞれに異なる民族通しの深い感情を形作っていくことになる。

    姉妹都市関係は国際協力の拡大においても大きな将来性をはらんでいる。
    1970年から極東ロシアと日本の西岸の諸都市の市長は定期的な会合を開いており、極東、シベリア、日本西岸諸都市の市長協会が創設された。
    この協会創設以来、現在にいたるまでハバロフスクと新潟の市長が協会のトップをしめている。
    地方レベルの相互関係がうまく運ぶことでハバロフスクと新潟間には1975年から空の直行便が開設され、漁業、林業分野での合弁企業も作られ、ハバロフスクには日本総領事館が、また新潟にはロシア総領事館が設けられることにつながった。

    お答えします 201X年X月X日木曜日(ロシアの結婚式について)

    お答えします 201X年X月X日木曜日

    A.お題
    ロシアの結婚式について
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/svadba

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年5月25日21時台/22時台
    2014年7月1日21時台/22時台
    2014年8月2日21時台
    2014年8月28日21時台
    2014年8月29日22時台
    2014年11月20日21時台


    B.選曲

    1曲目
    Муслим Магомаев - Свадьба
    ムスリム・マゴマエフ - 結婚

    2曲目
    Анна Герман - Эхо Любви
    アンナ・ゲルマン - 愛のこだま


    C.本文

    2808
    前置

    2940
    世界の多くの国と同じようにロシアでも結婚は人生の大事な節目であり、また鮮やかで大々的なお祝い事です。
    結婚を行うには前もって入念な準備が行われますが、決まったシナリオがあるわけではありません。
    おそらくロシア人の結婚式が日本人の結婚式と異なる点は決まりきった形を持たず、新郎新婦もそれぞれの親たちも呼ばれた人たちもとてもリラックスした雰囲気の中で祝われるということではないでしょうか?
    こんな風にラフな結婚式が行われるロシアですが、それでも何世紀にもわたって作られた結婚の、そして結婚への準備の伝統しきたりはあります。

    例えば求婚の儀式、これは新郎がこれと選んだ花嫁候補の親の元に結婚の許しを請いに行くという儀式ですが、普通これに許しを得に行くのは花嫁の父親そして兄弟で、稀なケースとして母親が行きます。
    かといって親戚しか求婚に行けないというわけではありません。
    この求婚の儀では花嫁をもらいに来たという目的を直接口にしないことが多く、しきたりに似たテキストが語られます。
    例えば「あなた方のところには一輪の花がある、そしてわたしたちには庭がある、その花を我々の庭に植え替えてはどうだろうか?」といった具合に。
    もし同意が得られた場合、花嫁の父は娘の右手をその未来の夫の手に握らせます。
    こんにちではこのしきたりはいささか古風じみてしまい、必ずしも行われるというわけではありません。

    3146
    さて若い2人がより大きな注意をさくのは結婚式の衣装のほうです。
    ロシアでは新郎は白いワイシャツにかっちりとした黒いスーツを着るということが多いです。
    花嫁のドレスは伝統的には白いドレスですが、それも絶対に白でなければならないというわけではありません。
    頭には白のベールをかぶるか、花をきれいに飾ります。
    面白いのは新郎たちは花嫁のドレスを一緒に買ったり、新郎が花嫁にドレスをプレゼントをするということはあっても、新郎は結婚式まで花嫁が着飾る様子を見てはなりません。
    ロシアではドレス姿の花嫁を式の前に見てはならないというジンクスがあるからです。

    3238
    さて求婚は終わりました。
    同意も得られました。
    親同士の顔合わせも済みました。
    結婚の計画も練られました。
    いよいよ若い2人にとって最もにぎにぎしい門出の日がやってきました。

    典型的なロシアの結婚式とは何から始められるのでしょうか?
    結婚の当日、花嫁の親と友人たちは花嫁の買収劇を行います。
    この買収といいましてももちろんおふざけで行われるもので、お楽しみのものでしかありません。
    普通は朝早く花婿を乗せた結婚式用のクルマが花嫁の家へとやってきます。
    式に参加するお客さんたちのクルマは美しいリボン・花・風船で飾られています。
    花嫁の家に近づこうとする車に花嫁側の友人たちが待ったをかけます。
    この人たちは花婿たちに難題を吹っ掛け、あの手この手で花婿が花嫁に簡単に到達できないように邪魔をします。
    愛しい花嫁を買い付けに来るためには、花婿は様々な困難をかいくぐらなければならないというわけです。
    例えば花嫁に美辞麗句を浴びせようという催促がなされます。
    お世辞なら任せて!
    この手のテストなら花嫁は難なく合格点を与えるのが普通です。
    ハードルはだんだん高くなります。
    次は花嫁のことをどれだけよく知っているか冗談交じりの質問があびせられます。
    花嫁の性格は?学業成績は?仕事ぶりは?
    よく聞かれるのは知り合いとなったなれそめのお話、デートの話が取り上げられ調べられます。
    花婿が間違った答えを返した場合、花婿や友人たちは罰金を支払い、ごちそうをふるまい、何とかして売り人の機嫌を取らなければなりません。
    こんな試験を潜り抜け、ようやく最後に花婿は花嫁のもとへたどり着きます。

    ところが昔はこの買収劇にこんなまやかしのおふざけがついてくることがありました。
    花嫁は顔を布で隠したまま渡されます。
    花嫁の代わりに他の女性やときにはどこかのおばあさんが渡されるということがあるので、花婿は細かいディテールに入念に注意を払って貰い受けたのが本当に花嫁なのか、それとも偽物なのかを見極めなければならなかったそうです。
    こんな冗談は今日でもよくやられるそうです。

    3537
    さてもろもろの困難を克服し、花嫁を手に入れた花婿は彼女に美しいブーケを差しだし、結婚の車に乗せると結婚登録宮殿へ連れて行きます。
    人口の少ない居住区では結婚登録宮殿ではなく、ザックスと呼ばれる住民登録所へ連れて行きます。
    ここで新郎新婦は結婚指輪をかわし、婚姻証明をもらいます。
    ザックスへは親戚や友人を伴い、大騒ぎしながら行くのが普通ですが、2人きりでひっそりと行く方がいいというひともいます。
    こうした婚姻登録は結婚の公式的な部分で、このサインを得ますと自分たちは自分たちが住む町の名所や記念碑のある場所をまわります。
    モスクワでは若い2人は赤の広場のわきにある無名戦士の墓を詣で花輪をささげますが、これは今ある平和な暮らしへのシンワライズしています。
    モスクワの街が一望できるスズメヶ丘へと向かうカップルもいます。
    スズメヶ丘はこの素晴らしいビューを楽しもうといつも多くの観光客や地元民でにぎわってますが、結婚式のクルマがひっきりなしに訪れるために背後にモスクワ大学のスターリン洋式の高層建築のいただくこの丘には常に祝祭的なにぎにぎしい雰囲気が漂っています。
    こうした名所以外に最近登場したのは橋に錠前をかけるという伝統です。
    2人の名前を書いた錠前を永遠の硬い愛と家庭生活の証のために橋にしっかりとかけるという光景は今やどこの街にも見られるようになりました。

    夜になりますと新郎新婦は結婚を祝うパーティーの席へ移動につきます。
    ここ近年流行なのは最小限度の人数のお客を呼んでロマンチックなディナーを戴きながら行う華麗な披露宴です。
    こうしたことが流行するのは飲めや歌えやの一夜の宴に多額を費やすよりはハネムーンを豪華にして楽しもうという単純な理由からですが、それでも大半のカップルはやはりこの記念日を忘れがたい思い出のひとときにしようと出費を惜しみません。
    もちろん双方の親たちもこれに協力します。

    3824
    新郎新婦も有名人だと披露宴は王宮並に豪華にダイナミックに行われ、テレビやプレスで国中が見守ることになります。
    そうした例では記憶に新しいのはボリショエ・バレエの元プリマ、Анастасия Волочкова アナスタシヤ・ヴォロチコヴァの結婚式でヴォロチコヴァはみんなをあっと言わせようと気球に乗って結婚式場に現れました。
    (2007?)
    この式は150万ユーロもの巨額の費用をかけて行われたそうです。

    3905
    小さな町ではレストランではなく、自宅で結婚式が行われることが多いです。
    新郎の家でやるか、新婦の家でやるかは前もって決められます。
    こうしたホームパーティの場合は両方の親戚・友達が一緒になって披露宴のごちそうを作ります。
    時には規模が大きすぎてどんな人でも宴に加わることができるように家の中ではなく、中庭で行われるということがあります。
    町の中ではなく、郊外や小さな居住区・村など住んでいる人たちが互いをよく知っている土地での披露宴はよくそんな形で行われます。
    こうした宴にはロシアのアコーディオンやギターが演奏され、みんながわしで歌う光景がよく見られます。

    3958
    さてここで結婚式の厳かな雰囲気を感じていただくためにこの歌を聴いていただきましょう。
    ムスリム・マゴマエフの歌声でСвадьба(結婚)。

    4011
    (1曲目:Муслим Магомаев - Свадьба ムスリム・マゴマエフ - 結婚)

    4327
    ムスリム・マゴマエフの歌声で結婚をお聴きいただきました。
    (中略)

    4349
    さて披露宴の宴の席に再び戻りましょう。
    新郎新婦の席は披露宴の真ん中にしつらえられます。
    新郎側から見ると右側に新郎の両親が、また花嫁の左側には花嫁の両親が座ります。
    披露宴で一番重要な場面はそれぞれの親が若い2人の門出に来る祝辞です。
    今では若い2人が自分たちで何でも決めてしまいますが、それでも2人が新しい生活の第一歩を踏み出すこの日、式の中でもっとも感動を呼ぶ場面は親が子供に贈るあたたかいお祝いのセリフだとされています。
    祝辞が述べられた後、新郎新婦の幸せと健康を祈り、子供の誕生を期待して杯があげられた後は式は自由な形式で展開していきます。
    踊り・歌・冗談を交えた乾杯の席が繰り返され、披露宴は決して悲しみで曇らせてはなりません。
    ロシアの結婚式では乾杯の度にゴーリカ(苦いぞ!)という言葉が繰り返されますが、これは新郎新婦が甘いキスをしないとウオッカの味が苦いぞという意味です。
    人前でキスを交わすのは結婚式では欠かせない光景となっています。

    4519
    さて結婚式で何を贈るかですが、呼ばれた人たちはそれぞれに贈り物を用意します。
    何も式の席で渡さなければいけないというものではありません。
    式の行われているレストランに新居で使う用のテレビや洗濯機をもってこようという人はなく、大抵は頭を悩ませないために封筒にお金を包んで渡すようになりました。
    この日のために特別な詩を書いて贈るという人もいます。
    披露宴の最後は新郎新婦が親たちや式のオーガナイズを助けてくれた人、この日の喜びを分かち合おうとしてくれた人全員に感謝の言葉を添えて宴は終わります。

    結婚式を行う時期については新郎新婦が決めますが5月に行うということは一番少ないのです。
    この5月という月は結婚にはあまり適していない月とされているからです。
    ロシアの村では結婚式は空きに行われることが一番多いです。
    農作業も少なくなり、式のごちそうのための収穫もすでに終わっています。
    もちろん店に行けば1年中ごちそうのための食材はふんだんにあるものの、それでも自分たちの手で育てた作物を使って自分たちの台所で作った御馳走をテーブルに並べるという醍醐味にはかないません。
    何曜日に一番結婚式が多いかといいますと土曜日に行われることが一番多いのです。
    お休みの日で明日の休みかと思うとゆったりと楽しめるかと思うからです。

    4707
    さて(略)、ウエディングドレスはロシアでもかなり発達しています。
    たくさんの会社があり、それぞれが式の衣装から車の手配、ブーケのアレンジ、ミュージシャンの手配、写真撮影・ビデオ撮影、披露宴の準備まで結婚式に必要なありとあらゆるサービスを提供しています。
    よくあるのはこの全部をサービスを依頼するのではなく、その一部だけを頼み、披露宴は自力でオーガナイズするというパターンです。

    4748
    ここまで今日のテキスト担当のタチアナ・フロニさんの結婚についてのお話をお届しましたが、わたしがですね、1年前ですが参加しました1つの結婚式、古くからの友人の結婚式についてここでちょっとだけお話ししたいと思います。
    大体タチアナさんが書いてくれたことは、このパターンを同じなんですけど、うちの友人の場合は2回目の結婚式で、前の奥さんとはダメになったもんですから、1回目の結婚式と2回目の結婚式の話をしますね。
    1回目は新郎の家で郊外に住んでいる両親のもとで友人たちを集めて真冬に行われました。
    その時は非常にアットホームな雰囲気で手書きでカードを用意したりなどして行ったんですけど、残念ながらそれがダメになってしまい、2番目の奥さんは入念に選ばれた結果、2年くらい同棲しましたかね、それでいろんなテストをして、もう相性ピッタンコという段階になって、とうとう式の運びとなりました。
    選ばれた場所はモスクワにある、とあるレストランで、そのレストランの広告を見ますといろんな結婚式のパーティーがよく行われる場所です。
    そしてキレイに着飾られた友人たちが集まり、そしてそれぞれが封筒にお金を入れる人もあり、結婚式で非常に流行っているのはバスケットにワインとか、シャンパンが多いですかね、お花とかいろんなプレゼントをアレンジして渡す、そこに封筒を入れて偲ばせてというパターンなんですけど、お酒が多かったですかね、そういうプレゼントをもって会場に来ます。
    1つのテーブルに7人8人くらい座ったでしょうか、そういったテーブルが8つくらいあったと思います。
    そして日本と違って上座というところではなく、まん中のところに新郎新婦が座るのは、上座のところはミュージシャンたちが演奏する場所になるんですね、そこで空間をきってありまして、とにかくダンスが多い、ちょっとするとダンス、みんなが出て行って踊って、そしてまたゴーリカゴーリカといって席に戻るというのがずっとパターンとして繰り返されます。

    5021
    わたしがびっくりしたのは式の最初の部分で両親たちが自分たちの子供に祝辞を述べるという場面でお母さんは2回目の結婚だからうまくいってほしいと思うと感動的な詩を作って読んでいました。
    そしてそれが終わると司会者がいろんな冗談交じりのゲームをしまして、みんなを盛り上げていくんですね、それまで知らない人同士で遠慮していたんですけど、ゲームをやるとロシア人は燃えあげるものですから、どんどん祭りの雰囲気が盛り上がっていきました。
    とにかくずっとうるさい、ずっとガンガン音楽が鳴って、そして親戚たちも歌い踊り、最後は疲れて寝に帰るという感じのものでした。
    おそらくレストランでの儀式は60何人くらいの人数とはいえ、値が張ったのではないかと私は思います。

    5137
    結婚式はモスクワのいろんな所で花嫁花婿さんが歩いて撮影しているので、こちらにご旅行に来られた人たちは真冬だろうが貼るだろうが夏だろうが一度はご覧になったことがあるのではないかと思いますけど、非常にきれいに着飾った新郎新婦たちのところに友人たちがブーケを持ったりベールを持ったりなどしながら一緒に歩き、それをずっとビデオカメラを撮って後で編集してみんなに配るというパターンが多いです。
    出てきた無名戦士の墓、そしてスズメヶ丘などはいつもいつも結婚式のカップルがいます。
    えー、ここでわたしは本当に人生の一番大事な時期に幸せな気持ちで門出を踏み出すたくさんの人たち、ロシア人でも日本人でも結婚という日を迎えた人たち、そして過去に迎え家庭生活を楽しく、そしていろんな困難を潜り抜けながらも、やはり固い愛の絆に育まれて潜り抜けてこられた人たち全員にこの歌をお届けしたいと思います。
    アンナ・ゲルマンの歌声で愛のこだま。
    こうした愛のこだまはどんな人の人生でも一度は必ず響くものではないでしょうか?

    5305
    (2曲目:Анна Герман - Эхо Любви アンナ・ゲルマン - 愛のこだま)

    5621
    締めくくり

    5728

    お答えします 2014年2月13日木曜日 (露日戦争、現在との絆)

    お答えします 2014年2月13日木曜日

    A.お題
    露日戦争、現在との絆
    http://japanese.ruvr.ru/2014_02_13/128686012/?slide-1
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/sensou-2
    編集改造13分21秒

    露日戦争が芸術に残した影響 
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2014_02_13/128686695/


    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年3月5日22時台

    C.本文

    1904年から1905年の露日戦争から110年が経過したことを振り返る番組の第2弾。
    前回、ロシア北西部、ノヴゴロド州にあるメドヴェージ(クマ)村について、この村が日本とロシアを結び付けていた時代についてお話した。
    これはロシア領内で日本兵捕虜が収容された唯一の場所だった。
    捕虜らは1904年春、戦闘開始から数週間後にこの村に連行され、無人状態にあった地元の兵舎へ入れられた。
    軍事大臣のサハロフ中将の出した捕虜の食事に関する命令書では、昼に出される玉麦のスープを米を使用したものに代え、夕食の引き割り麦の粥を小麦粥に代えること、しかもその支出は軍事基金がまかなうことが記されていた。
    収容所施設の警備は兵士の中隊がこれにあたった。
    日本兵はさしたる問題を起こすこともなく、おとなしかった。

    日本人が、ある程度自由が許されるようになっても、自からすすんで軍事規律を守っていたというのは興味深い。
    しばらくすると日本人らには収容所から表に出て散歩することさえ許されるようになった。
    日本人と地元民の関係はうまくいっていた。
    いさかいがあったとか衝突が起きたという話は聞かれたことがなかった。
    日本人は人形、傘、扇、指輪、キーホルダー、船の小さな模型など地元民にとっては珍しいものをこさえ、売ったり、贈ったりしていたという。
    そのうち扇2本と人形、そして100年前、ロシア人の少女のために日本兵が作った子どもの靴が未だに地元の郷土博物館に納められている。
    しだいに日本人たちは自由に村を歩き回り、村唯一の一杯飲み屋ベロフの店に出入りするようにまでなった。
    とはいっても酔っ払った日本人の姿を見た人は誰もいなかった。
    将校らはよろこんで通りを自転車で走っていたという。
    日曜ごとに日本人のアマチュア・オーケストラが催すコンサートが開かれ、村人たちは日本人の手作り楽器での演奏を聞きに集まった。
    収容所が閉じられると、こうした楽器はすべてサンクト・ペテルブルグへと送られ、演劇音楽博物館に収められた。

    メドヴェージ村にも恋物語があったといわれている。
    若い日本人将校の名はヒガキ・マサカズ、ロシア人乙女はナージャ・カスポヴァといった。
    乙女は当時16歳。
    ペテルブルグに暮らし、メドヴェージ村へは夏の休暇で訪れていた。
    ある日、村の通りで彼女に突然ロシア語で若い日本人将校が話しかけてきた。
    二人が互いに好きあったのは一目瞭然だった。
    ふたりの逢引は夏の間続いた。
    ヒガキが引揚げたあとも、二人はさらに1年間文通を続けた。
    1906年、ナージャはペテルブルグのギムナジウム(中学校)を卒業すると、メドヴェージ村に移り住み、教師としての生活を始める。
    このセンチメンタルなお話がどういった結末を迎えたのかはわかっていない。
    ところが、まさにこの村で端緒が開かれ、有名なロシア人日本学者らを輩出したある家族の話は良く知られている。

    当時、メドヴェージ村にアレクサンドラ・オルロヴァという少女が住んでいた。
    この少女にとってはあまりに遠い不思議の国から、戦争の運命でこの村に送られてきた人々が、この子の人生を決めることになったのだ。

    「私はメドヴェージ村にいた日本人捕虜たちを覚えています。
    当時私は幼い子どもでした。
    日本人とロシア人が互いに説明しあうのになんとまぁ苦労しなければならないのかと思うと、子ども心に腹立たしく思っていました。
    互いがなかなか分かり合えない。
    言葉の違いが邪魔してしまう。
    よい人たちがお互いを理解し得ないことが、小さい私なりに残念でなりませんでした。
    私は記憶力がよく、主要な言葉をさっさと覚えました。
    そのときにすでに日本語をしっかり覚えて、みんながお互いを正しく分かり合う助けになれたらと思い始めたのです。
    私のこの夢は叶う運命にありました。
    10月革命の後、私はコムソモール員となって活動していました。
    そしてチャンス到来を逃がさずにモスクワへ勉強しに行ったのです。」


    このアレクサンドラ・ペトローヴナ・オルロヴァが1970年代に行なった講演の録音がメドヴェージ村の郷土博物館に保存されている。

    日本へ抱く関心はアレクサンドラをレニングラード大学東洋学部日本語課へと連れ寄せた。
    アレクサンドルはそこからモスクワへと移り、1931年から日本語を教え始め、ソ連の日本専門家を数世代にわたって養成し続けた。
    日本への愛情をアレクサンドラは娘のタチヤナ・グリゴーリエヴナにも伝えた。
    タチヤナはロシアにおいて日本文化に最も精通した有名人の間で成長したのだ。
    現在タチヤナさんは年金生活をおくっておられるが、退職するまではロシア科学アカデミー東洋学研究所の学術員として働いていた。
    タチヤナさんは日本の芸術、文学に関する大きな研究を幾冊もの書物に著している。

    タチヤナ・グリゴーリエヴァさんは母、アレクサンドラさんの思い出について、VORからのインタビューに答えて次のように語ってくださった。

    「おそらく母には生まれつき言語を習得する才能があったと思います。
    なぜなら彼女はとても耳が良かったからです。
    彼女は自分の母親や祖母と同じように、子どもの頃から教会の合唱団で歌っていました。
    メドヴェージ村の住人の中で初めて日本語の単語を覚えたのは母なのです。
    母は村人と日本人捕虜の間の会話をとりもとうとさえしたそうです。
    だって彼らの間の会話といったら、最初はジェスチャーだけに限られていたんですよ。

    母はそんなにしょっちゅう日本人のことを思い出すことはありませんでした。
    というのも当時母はとても小さかったからです。
    それでも遠い昔にメドヴェージ村で日本人捕虜と出会ったことが、まさに彼女の運命の決め手となったのです。
    母は生涯通じて大学の生徒らに日本語を教えていました。
    そして病気に罹り、大学に通えなくなると、今度は学生のほうがうちに通うようになりました。
    母は最期の日、すでに起き上がる力もなくなるまで日本語の本を読み、ふいに漢字が思い出せなくなると、とても気落ちしていました。」


    アレクサンドラ・オルロヴァさんは1982年12月23日深夜に息を引き取った。
    アレクサンドラさんが自分の生まれ故郷のメドヴェージ村に里帰りすることはとうとう叶わなかった。
    なぜならアレクサンドラさんの生まれ育った家も第2次世界大戦のさなか、ナチスドイツ軍に破壊されてしまったからだ。
    アレクサンドラさんの家だけではない。
    戦後、村のあった場所はほぼ廃墟と化してしまっていた。
    ところがあの露日戦争当時、日本人捕虜らが収容されていた兵舎はかなりの損傷を受けたものの焼け落ちずに残った。

    日本人捕虜の墓地についてはもう誰も知る人はいない。
    あれからあまりに多くの歳月が流れ、1960年代初め、漢字が刻まれた墓石が数個発見され、これがセンセーションを呼んだ。
    1965年11月、日本語で発行されていた雑誌「今日のソ連邦」にイラスト付きでメドヴェージ村についての記事が掲載され、住民らによって漢字を刻んだ墓石が見つかったことが書かれた。

    この記事が発表された後、メドヴェージ村をある日本の新聞社の通信員が訪れる。
    この人物は村の話を入念に報道し、地元の博物館に収められていた数枚の写真を掲載した。
    この記事は日本の社会を震撼させた。
    この新聞社あてに、そして直接メドヴェージ村あてに、村民に日本人の記憶をとどめてくれたこと、死者を弔ってくれたことへの感謝をつづった手紙が寄せられるようになった。
    そのなかには当時すでに数少なくなった、生き残った元捕虜やその親類からの手紙も数通あったという。

    2008年9月28日、日本兵の遺骨里帰りからちょうど100年が経過した日、メドヴェージ村ではこのことを記憶するため、記念碑が建てられた。
    発見された石は、亡くなった日本人捕虜全員の名がロシア語と日本語の両方で刻まれた石碑の側に置かれた。
    そしてこのメドヴェージ村をほぼ毎年のように日本人代表団が訪れるようになっている。
    この話がどんなに昔のことであっても、異国の地で日本人捕虜がどんなに「快適」な暮らしをしていたとしても、捕虜たちがやはり、祖国から切り離された人々のつらい気持ちを味わっていたのはどうしようもない事実だからだ。
    そしてこの歴史は忘れ去られてはならない。

    ロシアの声、日本語課はこの資料を準備するにあたって惜しまずご協力くださった東京ロシア語学院の藻利佳彦主事およびメドヴェージ村のマリヤ・グーセヴァ村長、タチヤナ・グリゴーリエヴァ文学博士に対し心から感謝申し上げます。
    ご協力くださった方々のお写真およびメドヴェージ村郷土博物館収蔵の写真資料はVORのサイト上でごらんいただけます。

    (一旦終了後、下記記事が放送)

    ----

    補足追加

    A.お題
    露日戦争が芸術に残した影響
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2014_02_13/128686695/

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    B.選曲

    1曲目
    Пётр Киричек - На сопках Маньчжурии
    ピョートル・キリチョーク - 満州の丘に立ちて

    2曲目
    Хор Красной Армии - Варяг
    赤軍合唱団 - ヴァリャーグ

    C.本文

    露日戦争は芸術の様々なジャンルに影響を及ぼさないわけにはいかなかった。
    文学作品がロシア語でも日本語でも少なからず書かれている。
    ロシア語による作品の中で最も大きな関心を呼んでいるのは、作家ノヴィコフ=プリボイの『ツシマ』、ステパーノフの『アルトゥール港』、ピクーリの『流刑』、『オキニさんの3つの年齢』、ボリス・アクーニンの『金剛石の2輪馬車』。
    また日本語による作品では1906年に戦争のメモワールとして出された櫻井忠温(さくらい・ただよし)の『肉弾』が注目に値する。
    『肉弾』は出版1年目で4万部を売り上げ人気を博した。
    『肉弾』は後に英語、ドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語に訳されている。
    『肉弾』を発表して7年後、櫻井はその続編作品『銃後』を出した。
    櫻井は最後まで戦争をテーマにした長編を書き続けている。

    露日戦争はロシア人戦争画家として有名なヴェルシャギンにも絵筆を取らせた。
    絵の構想をヴェルシャギンは日本を滞在した折に汲み取ったという。
    ヴェルシャギンは1903年に日本を訪れた。
    この国に自然に、古いオリジナリティーに溢れた建築に、民族固有の習慣に感銘をうけた様子は一連の写生から伺える。
    1904年ヴェルシャギンは仕事をいったんおいて極東へと赴いた。
    この目で戦闘場面を見て、その本質を自分の作品の上に映すために。

    「平和の思想を他を夢中にさせる、力強い言葉で広めようとするものがいる。
    その思想を守ろうとして、宗教、経済など様々な論拠を出してくるものがいる。
    私は戦争反対を絵の具という表現で訴えているのだ。」


    1904年3月31日、ヴェルシャギンは戦艦ペトロパヴロフスクに乗船していた折、アルトゥール港付近で奇襲にあい、機雷を受けて提督とともに戦死した。
    暗い運命のいたずらだろうか、見事な習作「日本人女性」は1904年の初め、ヴェルシャギンの死のたった数ヶ月前に描き上げられたばかりだった。

    ここで音楽についてもご紹介しよう。
    人の一生で多少なりとも意義のある出来事が起きた場合、それは音楽、歌、バラード、詩に表現される。
    露日戦争の時代も後に大きな跡を残す有名なワルツ、「満州の丘に立ちて」が誕生した。
    これは満州の丘で命を落とした第214モクシャ連隊の兵士らを讃えてつくられたものだ。
    作曲はこの連隊の軍楽隊長をつとめていたイリヤ・シャトロフが行った。

    1905年2月、予備隊だった第214モクシャ連隊は日本軍に取り囲まれた。
    武器弾薬も尽き、絶体絶命の瞬間が訪れたとき、連隊長の出した命令は「旗を掲げ、軍楽隊だ。前進!」 
    シャトロフの指揮する軍楽隊は連隊の前にたち、軍楽マーチを演奏し、旗を掲げて進んだ。
    連隊は軍楽隊に鼓舞されて突破した。
    軍楽隊で演奏していたのはたったの7人だった。
    軍楽隊はこの勇ましい働きが讃えられ、軍人に授与される章としては最高のゲオルギー勲章を受けた。
    露日戦争が終わったあともモクシャ連隊はさらに1年満州にとどまり、ここでシャトロフはワルツを作曲した。
    それが有名なワルツ、「満州の丘に立ちて」である。
    それではピョートル・キリチェクの歌声で「満州の丘に立ちて」をお聞きいただきたい。

    http://static.ruvr.ru/download/2014/02/13/1312664178/NA SOPKAH.mp3

    もちろん日本でもこの戦争にインスピレーションを受けた音楽作品が生み出されている。
    たとえば1905年9月、戦争終了とともに発表された「戦友」という歌がそうだ。
    作詞を行った真下飛泉(マシタ・ヒセン)は京都の小学校の教師だった。
    歌に真下は親戚の一人が語った戦争の体験をこめた。
    作曲を担当した三善和気(ミヨシ・カズオキ)は真下と同じ小学校で音楽の教師をしていた。
    歌「戦友」は当初、兵士が歌うものとしてではなく、小学生が口ずさむために書かれ、関西一円で子どもたちの間で歌われた。
    だが1910年ごろにはもう全国レベルに知れ渡り、大きな人気を博していたという。

    番組の終わりにもう1曲、露日戦争当時に歌われた歌をご紹介したい。
    「ヴァリャーグ」という歌。
    歌詞はオーストリア人の詩人、ルドリフ・グレインツが巡洋艦「ヴァリャーグ」と砲艦「コレーエツ」の勇ましい戦いぶりを讃えて書き、これにロシア人作曲家のアレクセイ・トゥリシェフが曲をつけた。
    この歌が初めて歌われたのは、ニコライ2世がヴャリャーグとコレーエツの将校、水兵を讃えて催した豪華なレセプションの席でのことだ。この歌はロシアで大変流行った。
    特に軍隊の水兵の間で愛された。
    第1次大戦時には、「ヴァリャーグ」からは日本と戦うことを歌った3番の歌詞が削除された。
    というのもこの戦争においては日本はロシアの同盟国だったからだ。

    「ヴャリャーグ」をアレクサンドロフ記念ロシア軍歌唱舞踊アンサンブル(赤軍合唱団)の歌声でどうぞ。

    http://static.ruvr.ru/download/2014/02/13/1312664094/VARYAG.mp3

    お答えします 2014年2月6日木曜日 (日本人と熊(メドヴェージ)、露日戦争開始から110年)

    お答えします 2014年2月6日木曜日

    A.お題
    日本人と熊(メドヴェージ)、露日戦争開始から110年
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2014_02_06/128372720/?slide-1
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/sensou
    編集改造27分40秒

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    C.本文

    2014年2月で、露日戦争(1904~1905)の開始から110年となる。
    これはロシアと日本という2つの帝国間で初めて行われた戦争であると同時に、20世紀で初めて遠距離砲、装甲車、水雷艇など、最新の武器が用いられた戦いだった。
    そしてどんな戦争でもそうだが、露日戦争も苦しい戦い、勝利、敗退を経験し、多くの兵士が戦死し、捕虜にとられた。
    「お答えします」では2週間にわたり、露日戦争についてとりあげるが、ここに記すのは過去の話でもあり今の話でもある。

    歴史というのは私たちのまわりを取り囲んでいるものだが、昔の戦争の痕跡もしかり。
    まだ地球の表面から消え去ってはいない。
    歴史の糸はロシア北西部ノヴゴロド州のうっそうとした森のなかに埋もれたメドヴェージ(熊)村と日本とをつないでいる。
    この戦争の結果、7万人を超えるロシア人兵士、将校が日本の捕虜になった。
    四国の松山市には合計で6000人のロシア人捕虜が収容されたが、このほかに姫路、福岡、熊本、広島、仙台、長崎、大阪、名古屋などにもロシア人捕虜の収容施設が設けられていた。
    捕虜の生活条件はかなり気楽なものだった。
    位の低い者には集団で観光が組織され、仕事についてお金を稼ぐこともできた。
    将校は祖国から妻を呼び寄せ、護送隊もつけずに散歩を楽しみ、温泉旅行にもいけたという。
    ロシア人将校と日本人女性の間に数々の熱い恋愛が成立していたことも良く知られている。
    それを裏付けるひとつの証拠が、数年前、松山で見つかった10ルーブルの金貨だ。
    この金貨には陸軍准尉ミハイル・コステンコと彼を慕った看護婦のタケバ・ナカさんのふたりの名前が刻まれていた。
    この話をもとにした戯曲が劇団「坊ちゃん」でかけられている。
    2013年松山市ではこの二人の人物と愛し合う恋人たちを記念した像が建てられた。

    1905年、ポーツマス条約が締結されると、捕虜たちの本国送還が始まった。
    ところがこれで全員が祖国へ帰ったわけではなかった。
    当時の軍事歴史委員会の調査によると、日本にいたロシア人捕虜のうち負傷や病気で亡くなった人は1600人を超える。
    異国で息を引き取ったロシア人捕虜の墓地は地元の日本人、学生、ロシア正教の信者たちが手入れをしている。

    ロシア人も、ロシアで亡くなった日本人の記念碑に対して、これを大事に保存している。
    メドヴェージ村でも日本人捕虜を受け入れていたが、ここでの生活条件はなかなか悪いものではなかった。
    だが戦いで受けた傷や厳しい気候条件、祖国を懐かしむ気持ちはわが身のかこう状況を思わせた。
    ここでは19人の日本兵が病気で亡くなり、地元の墓地に埋葬されている。
    1908年兵士らの遺体は祖国へ戻されたが、地元民には判読不明な漢字が彫られた墓碑はそのままに残された。
    メドヴェージ居住区会議のマリヤ・グセーヴァ議長は次のように語っている。

    「まさにメドヴェージ村が、おおきな意味でロシアと日本の直接的な接触の場となっていた。
    というのも日本人捕虜は特別にここ、ロシア北西部まで連れてこられてきたからだ。
    それはロシア全土をつっきり、これがなんと大きな国土を有しているかを知らしめ、この先、こんな国を攻めようという気を起こさせないようにするためだった。
    地元民は日本人捕虜にとても温かく接しており、敵に向かうような感情は微塵もなかった。
    互いの関係はかなりの部分、好奇心によるものだったらしい。日本人は兵舎に暮らしていたが、村を自由に歩き回り、住民と付き合い、紙の扇を作ってあげたり、おもちゃなどを作ってあげていた。
    捕虜らは樽の底を使って楽器を作り、コンサートを開いてみんなを招待していた。
    地元民は日本人が黒パンを食べないことを知ると、特別に白いパンを焼いてあげていたという。
    そしてとうとう本国に帰されるときがくると、村中が総出で橋まで出て、遠い旅に出る日本人を見送ったそうだ。
    ただ帰ったのは全員ではなかった。
    数人はここで亡くなったからだ。
    その遺骨はその後日本に移されている。
    死去した兵士が葬られた墓地は、今は記憶の場所と呼ばれ、墓碑だけが残されている。
    そして御影石の石碑が建てられ、「ロシアと日本の友好を記念して」と刻まれ、ロシア語と日本語の両方で、ここでほとんどが病気が原因で亡くなった19人の捕虜全員の名前が記された。
    村の市民は子どもも含めこの歴史を知っており、たくさんの資料、写真、展示物を収めた博物館も作られている。
    あるときからここを日本人代表団が訪れるようになった。
    日本人らは追悼セレモニーを行い、我々も一緒になって記念の『石庭』をこしらえようとしている。
    こうした活動にはロシア語を教える藻利佳彦教授が長年にわたって取り組んでおられる。われわれ、村民全員とも藻利さんに非常に感謝している。」

    東京ロシア語学院の藻利佳彦主事は、長年にわたり、メドヴェージ村日本人捕虜についての文書収集センターの所長を務めている。その藻利さんにお話をうかがってみた。

    http://static.ruvr.ru/download/2014/02/06/1311823877/MORI YOSHIHIKO.mp3
    15:43

    メドヴェージ村にも松山のロシア人捕虜収容施設と同様に歴史があり、地元民と日本人捕虜の間にも愛のドラマがあった。
    だがその話の信憑性はあまり高くない。
    だがメドヴェージ村に住んだ日本人と接触したロシア人の日本研究者のたどった運命についてははっきりわかっている。
    これについては次の番組でお話しようと思う。

    藻利佳彦氏からは捕虜が作った楽器について、以下の追加資料をいただいた。

    日露戦争時に、日本人捕虜がメドヴェージ村で作った三味線と月琴、ロシア人捕虜が京都の捕虜収容施設であった東福寺塔頭霊雲院に残していったバラライカとバイオリンが、愛媛県松山市の坂の上の雲ミュージアムに現在並んで展示されている。
    どの楽器も長年大切に保存されてきたもので、こうした両国の捕虜の残したものが一緒に展示されることは、おそらく世界でも初めてのことと思われる。
    三味線と月琴は、主にメドヴェージ村の白樺を使って作られているが、月琴の底は、食料品を運んだ樽の底板を使っている。霊雲院のバラライカは主に松の木を使って作られているが、ペグやフレットなど楽器の重要な部分には竹が使われている。
    バイオリンの裏には、製作者の書き込みがある。
    それによると、「プスコフ県オストロフ郡リシン郷マカロヴァ村、イヴァン・ドミートリエヴィチ・ドミートリエフが作成した」とある。
    このドミートリエフ氏の住所プスコフ州は、日本人捕虜のいたノヴゴロド州の隣の州で、現在車で行けば5-6時間の位置にある。
    広大なロシアのなかで、偶然にもバイオリンの製作者はメドヴェージ村に極めて近い土地の出身者であったことがわかる。

    三味線と月琴を保存管理してきたサンクトペテルブルグ国立シェレメチェフ宮殿音楽博物館のコーシェレフ楽器保存主任は、「日ロ両国の捕虜が作り、それぞれの故郷や肉親を想い奏でた楽器が同じ場所で展示されることは大変すばらしい。
    この展示が、両国の平和友好を深める機縁となってほしい」と語った。
    また、日本の楽器を調査した結果修復が必要であることを指摘し、「修復ののち、今度はこれらの楽器が実際に音を出し、ともに美しいハーモニーを奏でる日が来ることを希望する」と述べ、ロシアでの楽器の修復を提案している。
    (藻利佳彦)

    お答えします 2014年スケジュール

    お答えします 2014年スケジュール

    01月02日:臨時企画休止
    01月09日:
    01月16日:臨時企画休止
    01月23日:(再)ロシア側から見た日露戦争 (2006年以前)
    01月30日:

    02月06日:日露戦争110周年前半
    02月13日:日露戦争110周年後半
    02月20日:
    02月27日:

    お答えします 2013年12月5日木曜日 (作家・作曲家アレクサンドル・グリボエードフについて)

    お答えします 2013年12月5日木曜日

    A.お題
    作家・作曲家アレクサンドル・グリボエードフについて
    http://japanese.ruvr.ru/2013_12_10/125503140/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/kssgpmbkz1zz


    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3


    B.選曲

    1曲目
    Алекса́ндр Грибое́дов - Вальс №1
    アレクサンドル・グリボエードフ - ワルツ1番 ハ短調のワルツ


    再放送日時
    2014年6月4日22時台
    2014年7月18日21時台/22時台
    2014年8月7日22時台
    2014年10月30日21時台
    2014年11月2日22時台


    C.本文

    アレクサンドル・グリボエードフは、著名な作家であり外交官だった人物で、ロシアの学校に通う子で彼の名前を知らない子どもはないほど。
    グリボエードフの人生はあまりに多くの謎に満ちている。
    その生まれた年でさえ、実は未だに正確にはわかっていない。
    1790年説、1794年説、1795年説と分かれている。
    グリボエードフの名を広く知らしめたのは事実上たった1冊の著書だった。
    『知恵の悲しみ』。
    これがいかに天才的な小説であったかということは、ここに書かれた問題が未だにあまりにも身にせまる論議を呼ぶものであるというところだろう。
    今日でも多くの劇場で喜劇「知恵の悲しみ」が舞台にかけられているのもそこに理由がある。

    グリボエードフはモスクワの親衛隊の将校の家庭に生を受けた。
    彼の家は裕福な名家だった。
    親族たちの証言では幼少時代のアレクサンドルは多面的な天賦の才と音楽の並外れた才能で抜きん出ていた。
    ピアノを見事に演奏し、3ヶ国語ではつらつとしゃべることができた。
    グリボエードフは同年の子どもよりも先にモスクワ大学の言語学科に入学し、その後、法科と物理数学科も卒業した。
    1812年の冬、ナポレオン率いるフランス軍がロシアの領土に進軍してきた際にはグリボエードフは義勇兵としてモスクワ騎兵隊に入隊する。
    だがこの騎兵隊は予備隊として戦争の終わりまで残されたため、若きグリボエードフ青年には戦場で一旗上げることは叶わなかった。

    そのかわりに自分の名を文学の才能で知らしめた。
    1814年「ヨーロッパ報知」誌にグリボエードフが初めて書いた2つの通信が掲載される。
    翌年の1815年、グリボエードフの筆からは喜劇「若い夫婦」が生まれる。
    これは当時ロシアの劇場によくかけられていたフランスの喜劇をパロディー化したものだった。
    1817年、グリボエードフは外務省に入り外交リストに仲間入りするが、この年もうひとつ、喜劇「学生」を発表し、ロシア人作家サークルと親交を持ちはじめた。

    1818年初め、グリボエードフは2人の将校のいさかいに巻き込まれ、彼らの決闘で時間のカウント役をするはめになった。
    当時決闘は貴族らの間では論争やいざこざの解決手段としてはもっとも普及していた方法だった。
    このいさかいは思わぬ展開をみせ、カウントをとるだけの係だった彼もなぜか決闘をすることになってしまった。
    その結果グリボエードフは左手の甲に傷を受けた。
    まさにこの傷が、後にテヘランのロシア大使館が狂信的な集団に襲われた際、彼の死体を見分ける鍵になった。
    この不運な決闘はグリボエードフのその先に人生に大きく影響した。
    まず彼は米国におけるロシア人使節団の役人としての地位を逸し、ペルシャの外交使節団の書記官に命ぜられてしまう。
    この辞令は本質的には流刑であり、その原因になったのがあの決闘だった。
    次にか細い神経と傷つけられやすい心の持ち主であった詩人グリボエードフは、自分の罪とその報いの思いに常に苛まされた。
    良心の呵責と決闘を断りきれない状況。
    これをグリボエードフと同時代を生きた多くの人が経験している。

    テヘランに赴任する前にグリボエードフはもうひとつ文学作品を仕上げた。
    それが『幕間の稽古』だった。
    さらにテヘランまでの途上でグリボエードフは乗り継ぎの様子を詳しくつづった日記をつけた。
    1821年秋、体調が優れなかったために多少祖国に近い、グルジアの首都チフリスに移され、そこで戯曲「1812年」を仕上げている。
    これはナポレオン率いるフランス軍にロシアが勝利し10年を記念して書かれたものだった。
    グリボエードフはさらにコーカサスで書き始めた喜劇『知恵の悲しみ』の執筆を続けた。
    この時期グリボエードフはロシアの歴史、地理、の論議を呼ぶ問題について、フォークロア「デジデラータ」について覚書を付け始めている。
    またこのときグリボエードフ作曲の「ワルツ変イ長調」またの名を「ワルツ1番」が世に初めて出される。

    1826年、グリボエードフはペルシャとの間にロシアに利益をもたらすトルコマーンチャーイ条約を締結すべく、積極的な働きを行っていた。
    この後すぐ1828年にグリボエードフは駐ペルシャ・ロシア大使に任命される。
    だが赴任する前にグリボエードフは若いグルジア人のニーナ・チャヴチャヴァゼ公女と結婚する。
    ただしグリボエードフが花嫁と過ごすことが出来たのはたった数週間とわずかな時間だった。
    ペルシャに向けてたった1週間後、グリボエードフは花嫁にこんな手紙をしたためる。

    「大事な私の友よ。
    かわいそうなお前。
    お前なしで私は悲しい。
    今、心の底から愛するとはどういうことかを感じている。
    もう少し我慢しよう、私の天使よ。
    この先、決して別れることのないようふたりで神に祈ろう。」


    ロシアの使節団はペルシャに着くやいなや、ファトフ・アリ・シャーの元へ挨拶に出向く。
    そしてこの訪問の最中にグリボエードフは殉死したのだった。
    事件が起きたのは1829年1月30日。
    怒りたけったイスラム教の狂信者の群れがロシア大使館に当時いた人々全員を皆殺しにした。
    生き残ったのは書記官1人だけ。
    書記官は奇跡的に生き残り、この大虐殺のほとんど唯一の目撃者となった。
    だがその彼も他の建物にいたため、これが幸いして助かったのであり、虐殺は耳で聞いただけで見たものはすべて、それが終わったあとの残骸だった。

    血みどろの虐殺が起きた状況については様々な記述があるものの、未だになぜそれが起きたのかについては全貌は明らかにされていない。
    襲撃の理由についていくつかの説があるが、どれひとつとして確証を得られるような説明は見つけられていない。
    一つ予想できることがある。
    グリボエードフの遺体はあまりにも損傷が大きかったため、彼のものと断定する決め手となったのは、あの決闘で傷ついた左手の甲の裂傷だけだったという。
    ロシア人使節団の多くの資料は焼かれ、またどこかに紛失してしまった。
    そのなかにはグリボエードフの日記も覚書も含まれていた。

    グリボエードフの遺体を収めた棺はグルジアの首都チフリスに運ばれ、ムタツミンダ山にある聖ダヴィデ教会の洞窟の中に葬られた。
    その墓に未亡人となってしまったニーナ・チャヴチャヴァゼはグリボエードフの銅像をたてこう記した。

    「お前の知恵と仕事は永遠にロシアに記憶されるだろう。
    だがお前亡きあと、何のために私の愛は生きながらえよう。」


    大国ロシアの外交官の殺害事件は状況を深刻に複雑化させた。
    外交上のこのスキャンダルをなだめるため、ペルシャのシャーは自らの孫、ホスレフ・ミルザをペテルブルグへと送る。
    この残忍な事件を償うため、ミルザがニコライ1世に贈ったものは目を見張るほどの高価な贈り物だった。
    そのなかにあの有名なダイヤモンドの「シャー」があった。
    このダイヤモンド「シャー」は世界でも名高い7つのダイヤモンドのひとつにあたる。
    かつて「シャー」はおびただしい数のルビーやエメラルドとともにムガール帝国の王座を飾っていたものだった。
    現在この「シャー」はモスクワのクレムリン内にある武器庫博物館のダイヤモンド庫に展示されている。

    グリボエードフの運命と彼の永遠の喜劇「知恵の悲しみ」は21世紀のこんにちも人々の心を騒がせ続けている。
    モスクワから250キロほど離れたヴャージマという町にグリボエードフの所有していた館があり、現在はグリボエードフ博物館となっているが、
    そこで11月13-14日国際会議「グリボエードフ、その時代、人物像、作品、運命」が開かれた。
    この会議にはロシア人研究者のほか、米国、ドイツ、グルジアなど多くの国から歴史家、文学研究者らが参加している。
    特に注意が向けられたのは文学研究者の卵で現在ケンブリッジ大学に勤務しているフェイルザ・メルヴィルさんの報告だった。
    メルヴィルさんはグリボエードフのペルシャの文書にあたっているが、今までロシアの研究者には入館が閉ざされてきたイランの古文書を手にとって調べる権利を獲得しそうだというのだ。

    ここでなぜ19世紀のはじめに書かれ、一見古びたかのように思えるグリボエードフの喜劇「知恵の悲しみ」が今でも私たちの頭を悩ませ、心をつかんではなさないのか、そのわけを考えてみたい。
    このテーマについてたずねたVORのインタビューにヴャージマのグリボエードフ博物館、学術部のアーラ・フィリーポヴナ副部長が答えてくれた。
    フィリーポヴナ副部長は、時代は変わり、環境もかわり、政治のしくみ、社会の技術的レベルが変わっても、人間の本質には事実上、なんの変化もないままだからだろうとして、次のように語っている。

    「創作活動がたったひとつの、しかし偉大な作品に集約されてしまう天才がいます。
    それがダンテであり、セルバンテスでありグリボエードフです。
    グリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』が現代に十分通用しているということは、おそらく時代がかわり、環境や政治の仕組みがかわっても、人間の本質はほとんど変わらないままであり、人と人との関係もほとんど変わりなく、大多数の保守的な人々と孤高のなかで闘う現実も変わりないということに起因しているのではないでしょうか。
    私はグリボエードフは『知恵の悲しみ』のなかで彼の時代のモスクワの社会をあざ笑い、その時代の特徴を指摘しながら、どんな時代も変わることのない、どんな人間にも共通する欠点をもあざ笑うことができたからではないかと思います。
    嘘、のらくらと無為の生活を送ること、おべっか、追従、打算、無学。
    これは人間の尊厳を貶め、道徳的な理想を頭から軽蔑するものです。

    グリボエードフのこの作品は様々な人間のタイプを示す図鑑です。
    登場人物の名前は普遍名詞となり、『知恵の悲しみ』で使われるせりふの多くは今でも日常の中で引用されています。
    これらの描写がどんなにずばり、正確に、端的に言い当てていることでしょう。
    喜劇は詩の表現で書かれていますでしょう。
    その詩の見事なことといったら!」


    文学作品以外にグリボエードフは音楽にもその足跡を残した。
    グリボエードフの作曲作品は少ないが、そのハーモニーと端正さ、端的さは驚嘆を誘う。
    彼の書いたピアノの小曲のうち、最も有名なのは2つのワルツで、もうひとつはハ短調のワルツ(ワルツ第2番)だが、このほかピアノ・ソナタなども書いている。
    ところが残念なことに楽譜は散逸してしまい、私たちは耳にすることはできない。

    お答えします 2013年10月31日木曜日 (日本における東方正教会、最初の侍からドストエフスキーまで)

    お答えします 2013年10月31日木曜日

    A.お題
    日本における東方正教会、最初の侍からドストエフスキーまで
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_10_31/123708828/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/nikolay-yaponskiy


    B.選曲

    1曲目
    聖ニコライにささげる歌

    2曲目
    天司教

    3曲目
    常に幸いして

    4曲目
    第3アンティフォン


    再放送日時
    2015年4月9日22時台


    C.本文

    「日本人は深い信仰心を持つことの出来る民族である。
    これは尊敬する多くの日本人キリスト教徒の顔つきにはっきりとうかがえる。」

    日本に正教を「植えつける」ことに成功した初めての主教、ニコライ神父は日本滞在30年がたったときにこう書き付けている。
    正教には日本人の心に近い物が多くある。
    キリストの教える愛、自己犠牲、死者へ捧げる祈りがそうだ。

    日本における東方正教会の「初穂(最初の信者)」が現れたのは1868年。
    日本に渡ったニコライ修道司祭(ニコライ・カサートキン)が正教に入信したいと希望する3人の日本人に対して極秘に洗礼を施したときだった。

    極秘というのは1869年まで日本は他の宗教を伝道することも、それを信仰することも固く禁じられており、それを侵した場合、死刑に処せられる恐れがあったからだった。
    だがこうしたご法度も若い修道士に現れた最初の教え子たちをとどめはしなかった。
    3人のうちの1人は函館の神社に神官として仕えていた沢辺琢磨だった。
    パーヴェルという洗礼名を授かった沢辺は後に正教の司祭となる。
    沢辺は実はニコライを殺そうとやってきたのだが、ニコライの説教にすっかり驚いてしまい、その忠実な使徒となり、後継者となったのだった。

    日本で初めて東方正教会の信者になった侍たちは東北出身者らだった。
    明治維新で古い時代を代表してきたこうした侍たちは路傍に捨てられたかのような生活を囲い、内面的には深刻な危機状態にあった。
    改革から逃れるため、侍たちは東北部に分け入っていったが、それでも祖国に仕えたいという真摯な気持ちを変えることはなかった。
    彼らはこの苦しい時代に自分を支えることのできる、なんらかの教えや理想を必要としていた。
    そこにこの若いニコライ修道士が現れたのだ。
    キリストの愛についてニコライの語る教えは傷ついた侍たちの心を励ました。
    もちろん侍たちが感心したのはニコライの人柄や人間愛、豪胆さもそうだった。
    正教は侍たちの間で急速に広まっていき、侍らは新たな教えやロシア人の聖職者について口々に語り始めた。
    そしてそうした侍らは次第に自分の出身地へと戻っていき、今度はその親類縁者らも正教の教えに帰依していった。

    日本で最初の正教徒が出現し、東京ではロシア公使館付属地という条件で伝道が公式的に始まった頃にはニコライの日本滞在も8年に及んでおり、函館のロシア総領事館付属教会で主任司祭として働いていた。
    この間ニコライは日本語の学習を続けており、自分が半世紀にわたって生涯最後の日までとどまることになる国の歴史、文化、伝統を深く掘り下げていた。
    その国の言語、文化を深く知ることなしに、ニコライ大主教は正教の本質を日本人に伝えきることはできなかっただろう。
    ニコライのおかげで教会日本語が作られている。

    ニコライは信者らと共に福音書を訳し、教会の礼拝や祈祷文、そして多くの神学書も日本語になおしていった。
    日本人にはまったく馴染みのない非常に複雑な宗教的概念を伝えるために、正確な言葉を見つける作業は本当に大変な労働を要した。
    モスクワ大学、アジアアフリカ語大学のヴィクトル・マズリク教授はこれについて、次のように語っている。

    「ニコライ・ヤポンスキーは体系的に日本を研究したロシア人としては最初の人です。
    他のキリスト教の宣教師らとは異なり、ニコライは仏教、神道、儒教を研究しました。
    それはその民の精神的な生活を知らずにキリスト教を布教しても、何の結果も得られないことを知っていたからです。
    カトリックやプロテスタントの宣教者らは多額の資金を投じましたが、ニコライが投じたのは心でした。
    これは彼という人格のなした大きな功績です。
    ニコライは病院、孤児院、学校を建てていますが、そうした施設から後に有名なロシア文学の翻訳者らが育っていきました。
    半世紀の間にニコライは、他の宣教師ら全員を束ね、彼らが数世紀をかけて行ったことあわせても、それ以上のことを成し遂げ、これによって日本中のキリスト教信者全員の尊敬を集めました。
    日本人は聖ニコライを偉大な日本国民だととらえています。
    ニコライは宣教師や研究者のみならず、腕のいい外交官でもありました。
    なぜならばニコライは日本とロシアが最も複雑な関係にあった時期に1905年に日本に残ることのできた唯一のロシア人です。
    これを可能にしたことで彼は第1の権威者となったのです。」


    露日戦争の時代の聖ニコライの行いは特筆すべき大きな勲といえる。
    ニコライは祖国を愛していた。
    だが日本の敗北は望まなかった。
    平和のために祈りなさいと信者を祝福し、ロシア人捕虜らへの支援に自分の努力を集中した。
    終戦後、戦った二つの国の間の友好関係はあまりに迅速に回復されたが、これにはニコライの功績が大きい。
    露日戦争後、ニコライ堂の名で有名な東京復活大聖堂が、そして全国各地に約200もの正教会寺院が建立された。
    ニコライ堂は歴史的建築物となっている。
    また正教会の共同体も260を越え、およそ34000人の信者、43人の聖職者、116人の布教者を集め、神学校、学校6校が開校されていたほか、通訳者協会も2つの出版社も抱えていた。

    ニコライ大主教が1912年に死没すると、彼に代わって日本における東方正教会、日本ハリストス正教会を率いたのはセルゲイ・チホミロフ府主教だった。
    セルゲイ府主教の率いた日本ハリストス正教会は苦しい試練の時代を味わった。
    1917年に社会主義革命が起こる。
    これは本国からの宣教へのあらゆる金融支援を損ねただけでなく、正教を信仰する大国、ロシアという手本を台無しにした。
    ロシアに登場した新たな政権によってロシアのあらゆる宗教組織を代表する人々は苦しんだ。
    日本の正教会は自活の道を踏み出し、宣教活動、啓蒙活動も著しく縮小された。
    このため1920年代、多くの教会が閉鎖されてしまった。

    1923年日本の正教会をもう一つの試練が襲う。
    関東大震災が起こり、東京復活大聖堂、ニコライ堂が大きな損壊を受けたのだ。
    図書館や宣教のための建物は全壊した。
    セルゲイ府主教は大聖堂再建のために資金を集めようと、日本全土を、そして近隣諸国を束ね、心血を注いだ。

    1920年代の日本正教会は独立独歩で生きぬく力を発揮したが、そんななかにあってもモスクワ総主教座とのつながりを絶ったわけではなかった。
    これはロシア正教会が1917年の革命以降、ロシアをあとにした亡命者らによって設立されたロシア正教在外教会と袂を分かったときでさえも同じだった。
    分裂の原因は在外教会の高位聖職者らの立場だった。
    在外教会の高位聖職者らはモスクワ総主教座が反宗教的なソビエト政権の圧力に屈していると捉え、総主教座に非好意的な態度を示していた。
    ところが日本正教会はモスクワ総主教座はソ連のなかで勇猛果敢に生き残りを図っていると考え、これを支持しつづけていた。
    日本の正教会にとってはロシアの正教会はつねに母体教会だったからだ。

    日本における正教会の歴史に詳しい横浜国立大学のエレオノラ・サブリナ教授は次のように語っている。

    「日本正教会は正教の源であるロシアの正教会、そしてその聖職者らを信じ続けています。
    なぜなら正教の教えはロシアから伝えられたからです。
    日本では教会の分裂のことも、1917年の革命後、ロシアをあとにした亡命者らに在外ロシア正教会が出来たことも知られていました。
    日本人は在外教会の立場を理解せず、ソ連に残った正教会が迫害される様子に胸を痛めていました。
    日本でも19世紀には日本人司祭らも投獄の憂き目を味わっていたからです。
    聖ニコライの直弟子であったパーヴェル沢辺でさえ監獄暮らしを経験しましたし、1870年代に布教の許可が出たあとも迫害は続いていたのです。」


    第2次世界大戦中の日本の法律では外国人は宗教団体の代表を務めてはならなかった。
    このためセルゲイ府主教は日本正教会を管轄する権利を失い、引退を余儀なくされた。
    終戦の年1945年、セルゲイは諜報行為を疑われ、特別高等警察(特高)に逮捕され拷問を受けた。
    40日に及ぶ拘留を解かれ出獄したセルゲイの健康状態はあまりにも衰弱していた。
    その数ヵ月後、セルゲイは永眠する。
    セルゲイに代わってニコライ小野帰一掌院が信徒を束ねることになった。
    ところが小野司祭が同胞であるにもかかわらず、信徒らは新たな主管者となった小野司祭の存在をすぐには認めようとしなかった。
    だが時がたつにつれ、ニコライ小野司祭は信徒らの尊敬を集めるようになる。

    平和なときが訪れた。
    だが日本正教会にとっては平和なときではなかった。
    それは日本正教会が日本における米国の国益の人質的な存在になってしまったからだった。
    1946年ニコライ小野主教と日本の主教管区監督局はモスクワ総主教座のアレクシー1世に対し、日本の正教会と母体教会との合一を要請する。
    この問題はほぼ解決されたかに思われたが、ニコライ小野主教が突然要職を解かれ、合一の話は取りやめになってしまった。
    これが起きたのはマッカーサー元帥を頂点とする米国のGHQの圧力が原因だった。
    マッカーサーは日本正教会に自分の腹心の米国のヴェニアミン主教を押し付けた。
    ヴェニアミン主教はロシア正教会によって作られた、いわゆる米国府主教座を代表していたが、この府主教座は後に母体であったロシア正教会とは分離してしまう。
    こうした米国の影響がなくても、日本の正教徒はそのほとんどがヴェニアミン主教を頂点とする米国府主教座に入った。
    ただニコライ小野主教とアントン高井司祭の率いる少人数のグループのみがモスクワ総主教座に忠実な立場をとり続けた。
    これは大体が北海道と東京の信者たちだった。

    サブリナ教授はさらに次のように語っている。

    「ニコライ堂が建つ丘のふもとにはプーシキン学校がありました。
    このプーシキン学校には外交官の子息らが学んでいたのですが、学校の建物のなかに北米の管轄に入ることを拒み、モスクワ総主教座ととどまろうとした信徒らのための礼拝の場がしつらえられました。」


    日本正教会の2つの流れは米国占領政府がモスクワ総主教座とのやりとりを様々に妨害しようとしてきたにもかかわらず、長い間、和解しようと試みてきた。
    だが母体教会との合一はやはり実現しなかった。
    1969年、米国府主教座とモスクワ総主教座の間に完全な和解が成立し、これに続いて日本の正教会を「自治教会」(アフトノモス)とすることが決まった。
    このとき以来、日本正教会は日本人の聖職者らが率いており、現在は東京の大主教、全国の府主教のダニイル主代郁夫が日本正教会を代表する府主教となっている。
    こういった経緯があったものの、文書には日本正教会とモスクワ総主教座の関係は今日でも保たれており…と書かれている。

    さて日本正教会は現在どうなっているのだろうか?
    現在日本の正教徒はずいぶん増え、3万人を越す信者と2人の主教、22人の聖職者がいる。
    教会の数は72軒、そして神学校が1校あるほか、正教徒の団体、正教青年団体が活動しており、「正教時報」という雑誌が出版されている。
    礼拝は日本語で行われているが、用いられる言葉は耳で聞くだけではかなり理解に難しい。
    というのも聖ニコライとその使徒たちが礼拝と聖書を翻訳したのはまだ19世紀のことで、文法的にも、語彙自体も古典的な表現があまりに多いからだ。
    付け加えるとロシア語で行われる礼拝も全く今の言葉からはかけ離れている。
    普通のロシア人でも子どもの頃から祈祷や礼拝のテキストと馴染んでいなければ、それを理解するのはとても難しい。

    日本人の正教徒らは独自の運営を行っている。
    運営予算もきちんとたてられており、日本の正教徒らの持ち寄る資金を集め、それによって成り立っている。
    これはロシアの現状とは異なる。
    ロシアの教会も信者の持ち寄るお金で運営されているが、会計は不明瞭でいくらお金があって翌月はどうなるか、翌年はどのくらいあるかも把握されていない。
    今日は裕福なスポンサーが来るかもしれないが、明日は蝋燭を買うのにやっと足りるだけのお金しか集まらないかもしれない。
    ロシアの現状は日本のそれとは全く異なる。

    函館のハリストス復活教会のニコライ・ドミトリエフ司祭はこれについて次のように説明している。

    「信者ひとりひとりが来年の寄付額をあらかじめ明らかにするので、教会はこれを元にして予算を立てます。
    日本人正教徒は決して裕福ではありませんが、きちんと定期的に寄付を行ってくれます。
    年に一度慈善バザーが行われ新品の物品から要らなくなったものを売った収益金は困っている人たちや障害者リハビリセンター、老人ホームなどの社会施設に送られます。」


    正教会の一員となるためには洗礼を受けねばならない。
    洗礼を受けるためには福音書を学び、正教の信仰の基礎を知って礼拝に来なければならない。
    これは親が正教徒であり、子どものときに洗礼を受けた人には当てはまらない。
    日本の正教会の場合、信仰は親から子へと140年間継承されてきたというケースが多いのだ。
    それでも信仰にいたるというのは、一人一人の人間の心の秘密であり、独自の歴史といえる。
    現在の日本人正教徒は聖ニコライ・ヤポンスキーの洗礼を受けた侍の子孫らだけではない。
    これについて函館ハリストス正教会のニコライ・ドミトリエフ司祭はさらに次のように語っている。

    「日本の信者は、まず昔からの信徒で、最初に入信した者たちの子孫がいます。
    日本人は誠実な民で、忠実な姿勢を保ち、それを他にも伝えていきます。

    次に信者となった人たちは、いわゆる「頭で考えて」きた人たちで、ロシア語を学び、ドストエフスキーと衝撃的な出会いを経験し、正教会に通うようになって信者となったケースです。
    セルゲイ・ラフマニノフの教会音楽を聴いて、またロシアの宗教絵画を目にして、それから信仰にいたったという人もいます。

    次のグループは「偶然」に信者になった人たちで、散歩していたら教会の灯りがともっているのが見えたので入ったら気に入ってしまい、そのまま信仰の道に入ってしまったというケース。
    こういう人たちにどうして正教を選んだんですかとたずねると、説明はできないんですけど、ここにはなにか本物のものがある、ここには神様がいるって感じるんです、と答えますよ。」


    日本人には入信の理由に正教会にくるとひとつの家族のなかにいるように感じるからと答える人もいる。
    これがまさに互いを兄弟姉妹と呼び合う正教会の魅力なのだ。

    (東京復活大聖堂教会の水の輪混声合唱団と函館ハリストス正教会の聖歌隊に、番組内での日本語翻訳の聖歌の音声使用許可を頂きました。
    末筆ながら感謝申し上げます。)

    お答えします 2013年10月17日木曜日 (ロシアの自然災害について)

    お答えします 2013年10月17日木曜日

    A.お題
    ロシアの自然災害について
    http://japanese.ruvr.ru/2013_10_17/123009626/

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年6月8日21時台/22時台
    2014年7月5日21時台/22時台
    2014年8月4日22時台


    C.本文

    自然災害の発生件数はここ10年ごとに2倍ずつ増えており、ますます憂慮すべき事態になっている。
    地震、暴風、洪水に見舞われるケースが多くなってきた。
    自然災害が破壊力の大きい技術災害を呼ぶ例も少なくない。
    2011年の福島第1原発の事故がそのいい例だろう。
    21世紀の初頭から数えてこの13年で自然災害による被災者の数は27億人に及んだ。
    この数は地球上の人口の3人に1人を上回る。
    2001年国連総会によって10月の第2水曜を国際防災の日とすることが定められた。

    今回、滝さんによいテーマをいただきましたこと感謝いたします。

    実際、自然現象は世界中でますます予見不可能になりつつある。
    ロシアは自然、気候条件が多岐に渡るため、様々な規模の自然災害が発生する脅威に常にさらされているといってもよい。
    森林火災、洪水、地震、津波、台風、雪崩、流氷の堆積など、こうした自然現象が定期的に市民生活に降りかかってきており、経済にも損失を与え、環境にも害をもたらしている。

    だが最も危険性の高い自然災害はやはり地震だろう。
    毎年、世界には震度の違いはあれ100万回を超える地震が発生しているが、ロシアにも地殻プレートが重なり合い、潜在的に地震の多発するゾーンが存在している。
    カムチャッカ、サハリン、アルタイ、東シベリア、北カフカス地方がそうした危険ゾーンに属している。
    昨今、研究者らが特に憂慮しているのはカムチャッカ半島の東側海岸地域で、すでに数年にわたって、大地震の発生する危険度が高まっていることが取りざたされている。
    カムチャッカ半島やクリル諸島で発生する地震のほとんどが日本の地震と同様、時に津波を伴うことから状況はさらに深刻化している。
    たとえばカムチャッカ半島の太平洋岸で1952年に起きた地震では、あまりにも高波の津波が発生し、セヴェロ・クリリスクの町が完全に破壊されている。

    ここ百年でロシアで最も被害の大きかった地震は1995年サハリンで起きたものだった。
    サハリンの揺れは大陸部でも感じられたほど大きく、ネフチェゴルスクは震度10の揺れで大きな破壊をこうむった。
    ネフチェゴルスクの地震は予期せぬ恐ろしいものだった。
    ヘリコプターから現地の様子を目撃者した人々は非常に深い亀裂がいたるところに入り、地球が破裂したかのような印象を受けたと語っている。
    ネフチェゴルスクの市民のほとんどはアパートの自宅で死亡した。
    地震が起きたのは深夜1時で、みなが就寝していた時間帯だったからだ。
    ロシア非常事態の救助作業では初めて「5分間の静寂」メソッドが用いられた。
    これは1時間毎に5分間作業機械のスイッチを止めるというもの。
    どこかに埋まった被災者のうめき声を聞き漏らさないため、5分間作業も会話もストップさせる。
    瓦礫の下から救出された人の数は2000人を超えた。
    ネフチェゴルスクの町はあまりのすさまじい損壊のために復興が行われないことが決まり、町のあった場所には記念碑と礼拝堂が建てられた。
    研究者らの観測では1995年は太平洋地域で前代未聞の活発な地震活動があった年だった。
    1995年の冬、神戸の震災では6300人の人命が失われている。

    現在ロシアで地震活動の活発な地域は7つある。
    地震活動を監視するうえで最も重要な機関はオブニンスクの地質物理学庁だ。
    現在ロシアには300近くの地震観測ステーションがあり、地震の予測のためのデーターベースを準備している。

    災害予測で主要な役割を演じているのはロシア気象庁。
    気象庁の職員らはロシアで危険な気象現象が起きる確率は夏のほうが高いと指摘している。
    夏はロシアでは気流の流れが垂直方向に起こり、これが強まると雷や強風などの危険な自然現象がおきやすくなる。
    09年夏、モスクワ州はこの地域にはあまりにも珍しい現象を目にした。
    クラスノザヴォツク市で竜巻が起きたのだ。
    竜巻は石造りの住居が立ち並ぶ中を通過し、樹木だけでなく2トンもの重さの自動車までも横倒しにし、町の市場を完全に破壊した。
    気象庁によると竜巻の風圧は1平方メートルあたり250キロにも達している。
    モスクワでは1998年に暴風が吹き荒れたが、これも夏で、ロシアのヨーロッパ地域ではこの地域には似つかない30度を超える酷暑が続いていた。
    98年の暴風では11人が死亡している。
    トロリーバス、路面電車に被害がでて、都市の公共交通機関は大きく乱れた。
    突風はボリショイ劇場、クレムリン大宮殿の屋根を破壊した。
    飛ばされた樹木があたって、クレムリンの城砦の壁のぎざぎざが12箇所で壊された。
    ノヴォデーヴィチ修道院の十字架も風で飛ばされた。
    専門家らの調べでは98年の暴風は1904年に起きた竜巻以降、モスクワが味わった自然災害で最大級の破壊力を有するものだった。

    もうひとつモスクワが経験した異常気象はスモッグだった。
    2010年の夏、モスクワとモスクワ郊外は異常な暑さと郊外の泥炭の発火によって起きた森林火災の煙で、文字通り息も絶え絶えになってしまった。
    この異常な天災のため、首都は濃いスモッグで覆われてしまった。
    スモッグは地下鉄構内にまでもぐりこみ、空港の作業を麻痺させ、クレムリンの有名な閲兵の交代式まで取りやめになる始末だった。
    モスクワ動物園でもモスクワ郊外の森でもたくさんの動物たちが死んでいる。
    スモッグを吸い込まないようにと市民がこぞってガーゼ、ガスマスクを求めたため、品が不足し、ありえないほどの高値がつけられた。

    だが最も深刻な損害を与えるのは洪水ではないだろうか。
    ロシアでは大都市も小規模な居住区も洪水に見舞われている。
    たとえばサンクト・ペテルブルグは文字通り水の上に建てられており、外国人観光客らはこれを「ロシアのヴェネツィア」と称えるが、この町が1824年に経験した洪水は市の歴史のなかで最も大きな破壊をもたらした。
    この跡は今日でも明らかで、建物の壁には1824年の洪水でどこまで浸水したかを示すプレートが掲げられている。
    当時ネヴァ川やたくさんの水路の水位は4メートル以上も上がり、600人もが溺れ死に、多くの人が行方不明になった。
    また最近では2012年、クラスノダールで豪雨と強風の結果、起きた洪水も大きな被害をもたらした。
    2日間で降雨量は月平均の降水量の5倍を記録した。

    2013年、最多の洪水の数を記録したのはシベリアと極東だった。
    極東の洪水は過去100年で最も大きなものとなり、7月末に始まり約3ヶ月にわたって収拾していない。
    アムール川の水位は通常より10メートルも上昇し、これによって何千ヘクタールもの陸地が浸水した。
    コムソモリスク・ナ・アムーレ市だけを例にとっても約900軒の家屋が浸水し、12000人を超す被災民が出ている。
    町のほぼ半分が道路も含め浸水した。
    コムソモリスク・ナ・アムーレの町を災害から救うため、3000人を越す兵士とレスキュー隊員が昼夜を問わずダムを建設し、特製の鉄の盾を設置し、この作業を数百人のボランティアが手伝ったほか、ダムが決壊しないよう新技術を用いて様々な方策が採られた。
    連邦政府の決定で、この地域の被災者らには一時的な住居があてがわれ、住居の修復のため、または新居を購入するための見舞金が支払われている。

    深刻な被害をもたらすのは路面凍結、吹雪、雹や氷雨など、大気圏の現象もそうだ。
    こうした自然現象を予測するためにはロシアでは「非常事態の予測、処理庁」という統一国家システムが機能している。

    それでもどうしても予測できない稀有な現象もある。
    その良い例が2013年2月にチェリャービンスクに落ちた隕石だ。
    隕石はチェリャービンスク郊外の地上25キロの地点で爆発し、これによって1600人を越す市民が被害を受けた。
    その多くが割れたガラスの破片が当たって怪我をしている。
    米国航空宇宙局(NASA)の試算では、隕石は直径17メートル、大気圏に侵入してきたときの重さは約10000トンで、それが秒速18
    キロという速さで飛んできたとされている。
    隕石は大気圏に入って数秒後爆発した。
    ロシア科学アカデミーの試算では爆発時に放たれたエネルギーは100キロトンから200キロトンとされている。
    これは1908年におきたツングースカ大爆発事件以来、地球に落下した最大の天球だった。
    チェリャービンスク隕石落下事件以降、ロシアでは宇宙からの脅威を予測するシステムの構築の必要性が唱えられ始めている。

    国連の専門家らが21世紀の初頭から自然災害が世界経済にもたらした損害額を算出したところ、2.5兆ドルに上ることがわかった。
    事態の深刻さは国際世論に徐々に浸透し始めている。
    地球冷却化に向かって気候変動が起きる可能性を口にする者、逆に温暖化の警鐘を鳴らす者とさまざまだが、これはまだ仮説の段階で、研究者のなかには気象の予測を立てることは基本的に不可能だと語るものも少なくない。
    それでも21世紀、人類は最新技術に大きく支えられている。
    たとえば以前は沿岸まで打ち寄せてこなければわからなかった津波も、人工衛星のおかげで発生すると同時にわかるようになった。
    このため津波が押し寄せてくる前に、ある程度それに備えることが可能となり、犠牲者の数やリスクを最大限縮小されるようになっている。

    お答えします 2013年10月3日木曜日(吟遊詩人 ブラート・オクジャワについて)

    お答えします 2013年10月3日木曜日

    A.お題
    吟遊詩人 ブラート・オクジャワについて
    http://japanese.ruvr.ru/2013_10_03/122282317/
    http://japanese.ruvr.ru/2009/05/19/419620/(過去放送分)

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3


    B.選曲

    1曲目
    Булат Окуджава – До Свидания, Мальчики
    ブラート・オクジャワ - さようなら少年たち

    2曲目
    Булат Окуджава – Надежды Маленький Оркестрик
    ブラート・オクジャワ - 希望の小さなオーケストラ

    3曲目
    Булат Окуджава – Грузинская Песня
    ブラート・オクジャワ - グルジアの歌
    注意:歌ってるのは山之内重美さんです。

    4曲目
    Булат Окуджава – Былое Нельзя Воротить
    ブラート・オクジャワ - 過去は繰り返すことができない


    再放送日時
    2014年5月09日22時台
    2014年6月09日21時台/22時台
    2014年8月10日21時台
    2014年8月28日22時台
    2014年8月29日21時台
    2015年4月18日21時台
    2015年5月07日21時台


    C.本文

    ブラート・オクジャワはひとつのエポックを象徴する名前となりました。
    そのエポックとは「大祖国戦争」後、みんなが大きな希望を抱いていた時代です。
    オクジャワの運命は稀有なものであると同時に典型的なもので、このエポックを映す鏡ともいえるものでした。

    1924年5月9日、モスクワである一人の男の子が生まれます。
    この子の両親は父はグルジア出身の若き共産党員シャルヴァ・オクジャワ、母はアルメニア人のアシュヘン・ナルバンヂャン。
    ふたりはそのたった2年前、大学に入るためにモスクワに出てきたばかりでした。
    お父さんは21歳、お母さんは19歳と本当に若かったのですが、ふたりは党員としての経歴をすでに有しており、共産党のロマン思想に満ち溢れ、誠実で確信に満ちた、そしてナイーブで不屈の精神の持ち主でした。
    最初の息子につけた名前も普通のものではありません。ブラートというのは「鋼鉄」を意味します。

    新たな生活を形作ろうと必死で働く親たちとブラートが一緒に過ごすことはあまりありませんでしたが、それでもこの不足分をあまりあまって補ってくれたのは大好きなおばあちゃんでした。
    グルジアではおびただしい数の親戚がいつもブラートのことを首を長くして待っていてくれました。
    そんな幸せな子ども時代はあまりに早く終わりを告げました。
    ブラートが12歳のときです。

    当時、一家はニージニー・タギール市に住んでいました。
    ブラートの父はタギール市の共産党市委員会の第1書記を務めていました。
    1937年2月の初め、突然父が逮捕されます。
    当時、大量粛清はいたるところで行われており、高いポストについた役人でさえもこれを間逃れる方策はなかったのです。
    逮捕の翌日、朝刊には新たな人民の敵を暴露する記事が載りました。
    でもブラートは新聞を読まず、いつもどおり学校へと向かったのです。
    学校につくとブラートは、父が共産党員ではなく、人民の敵であったと聞かされました。
    目に涙を浮かべて家に戻ったブラートは母親に、学校には金輪際行かないと宣言したのです。
    タギール市で父を失った一家は急いで荷物をまとめ、モスクワへと旅立ちます。
    旅立つ一家には見送りのものもなく、誰も温かい言葉をかけてはくれませんでした。
    ブラートのお父さんはついこのあいだまで、委員会の職員に慕われ、存命中にこの町に記念の銅像を建てなければといわれるほどだったのに。

    オクジャワの母は人民の敵の妻として党を追われ、職も失いました。
    友達も顔を背け、知り合いではない振りをしました。
    ある日、真夜中にドアがノックされました。
    この瞬間が来ることを母親はもう前から覚悟していました。
    彼女の夫を襲ったのと同じ運命がやってきたのです。
    虚偽の告発で彼女は鉱山での強制労働に送られてしまいました。

    ブラートは両親の逮捕を嘆き悲しみました。
    父が逮捕されたとき、親戚はみな、これは何かの間違いだ、すぐに疑惑が晴れて、お父さんはうちにもどってくるよ、とブラートに言っていたのです。
    ところがこんどはお母さんが…。
    こんなにも革命に忠実な、誠実な党員たちがなぜ突然卑劣な裏切り者扱いされたのか、ブラートにはどうしてもわかりません。
    彼のママとパパは本当に「人民の敵」になってしまうのでしょうか?

    結局この事態がどう収まったのかはわかりません。
    おばあさんには急に大人になった孫を相手にする力はありませんでした。
    学校卒業後、ブラートは砲兵学校に入学書類を出しましたが、保健委員会の書類審査で落ちました。
    ブラートはグルジアの、母の妹の元にいくことになりました。この叔母はブラートに、彼の両親は逮捕されたのではない、外国に特務課題を負って派遣されたのだが、非合法活動のために二人は人民の敵として非難を受けたのだと説明しました。
    これでブラートは胸をなでおろしましたが、心に刻まれた傷は深く、生涯癒えることはありませんでした。

    子ども時代にブラートが負ってしまったこの傷は一番深手のものでしたが、これにとどまることはありませんでした。
    新たな傷をブラートはそれからまもなくして受けてしまいます。
    これは彼がその後展開した創作活動のみならず、全生涯に大きな刻印を残すものとなります。
    それは戦争でした。
    1941年から45年、ナチス・ドイツを相手に戦われた戦争。
    1942年、ブラートは歳を何年か偽って志願兵として戦場へ赴き、負傷します。
    前線で彼が目にしたものは非常に自然に反するものでした。
    ブラートはこれ以来、生涯戦争を憎むようになります。
    人間の自然現象に全く矛盾するものとして戦争を憎む気持ちはオクジャワの多くの歌に歌われています。

    1曲目
    Булат Окуджава – До Свидания, Мальчики
    ブラート・オクジャワ - さようなら少年たち


    戦争の前線から復員し、1945年ブラートはトビリシ大学文学部に入学します。
    そして卒業後の1950年、妻を伴いカルーガ州に学校の教員として赴任しました。
    1954年、30代を迎えたブラートは教員を辞め、地元の新聞社に就職します。
    このとき、ブラートの初めての詩集が世に出版されます。
    この年はブラートにとって本当の意味で記念すべき年となりました。
    それはまず、ブラート・オクジャワは田舎の新聞にその詩が時々掲載される、単なる詩の愛好家から、カルーガ州の詩人のひとりとしてその専門性を認められるようになったからでした。

    1954年、オクジャワに長男が誕生します。
    この年、母親は釈放されました。
    彼女は名誉回復され、謝罪を受け、没収されたモスクワの中心部のアルバート通りのアパートの代わりを受け取ります。
    恐怖はすべて過去に去ったかに思われました。
    これでブラートも何年も夢に見、恋しがったモスクワに戻ることが出来るのです。

    モスクワにくると、オクジャワは出版社で編集を担当し、その後「文学新聞」の詩歌部の部長となります。
    オクジャワ自身も詩を書き続け、歌を作り続けました。
    ところが母親との関係だけはなんともなりませんでした。
    収容所で暮らした歳月は、彼女の分別に大きな影を落としてしまったのです。

    1956年からオクジャワは自作の詩に曲をつけて歌い始めます。
    人気はしだいにあがりました。
    オクジャワはみんなの心を本当の意味でつかむためには素晴らしい歌声や美しい容姿がかならずしも必要ではないことを証明したのです。
    背の低い男が、決して広くはない音域の声で歌う歌がみんなの心をわしづかみにしました。
    オクジャワがこんなにも人をひきつけたのはなぜだったのでしょうか? 
    おそらく、あまりにも誠実で高貴な人柄と思想の、作品のイデーの高邁さにその秘密があるように思われます。

    2曲目
    Булат Окуджава – Надежды Маленький Оркестрик
    ブラート・オクジャワ - 希望の小さなオーケストラ


    正直いえば、オクジャワの歌は社会全体の気運と非常にかけ離れていました。
    1960年代初めはエポックだけでなく、人々もまったく別の様相を呈していました。
    ずっと明るく、喜びにあふれた時代となっていたのです。
    戦後の大々的な建設、地球の周りを飛ぶ人工衛星の打ち上げ、ガガーリンの成し遂げた初の有人宇宙飛行に社会全体はたくさんの幸せを味わっていました。
    この時代に歌われた歌もそれに呼応する、人生の喜びにあふれ、勇ましく行進し、光り輝く未来に響くものでした。
    ところがオクジャワの歌は戦争や平和を、愛や裏切りを、名誉、誠実さを考えさせるものだったのです。
    たとえば、彼の有名な「ブドウの種」という歌。
    「ぶどうの種を地面に埋めました」というフレーズで始まるこの歌。
    主人公の私は大きなものを要求はしない。
    少しだけを手に取る。
    ひとつぶのブドウの種をとり、ぶどうのツルを育て、友達を呼んで、心を愛で満たそう… 
    少しだけを取り、たくさんのものを与えようというのは、これこそ高貴な魂ではないでしょうか。
    これがオクジャワの歌うどんな歌にも現れているのです。

    3曲目
    Булат Окуджава – Грузинская Песня
    ブラート・オクジャワ - グルジアの歌
    注意:歌ってるのは山之内重美さんです。


    オクジャワの歌に全く注意を払わない人は事実上誰もいませんでした。
    文句なしにすぐに気に入ってしまう人もいれば、その歌にも作詞家にも激しく異議を唱える人も出てきました。
    音楽がなっていない、ギターの演奏が下手だ、歌声がなっていないという批判が飛びました。
    それでもカセットテープレコーダーの登場でオクジャワの歌は目覚しい勢いで広まっていったのです。
    ホールの入り口付近で歌うオクジャワを聞こうとサッカーの試合の観客ほどの数の人が集まってきたため、騎馬警察が用意されたほどです。
    テープレコーダーに録音されたオクジャワの歌はソ連各地に伝わっていきました。

    オクジャワは詩や歌を書き続け、長編小説、中編小説を執筆し、人民の心をつかみ、栄光を勝ち取ってゆきます。
    オクジャワは800以上の詩を書いていますが、多くが音楽とともに生まれでたものです。
    オクジャワの歌はいまだに映画で芝居でコンサートのプログラムで、テレビでラジオで流され、歌われています。
    初めて正規の形で出されたレコードは1968年パリ。
    ソ連政権の大きな反対にもかかわらずリリースされました。
    ところがそのあとのレコードはすべて後にソ連で出されています。
    現在、国立文学博物館にあるテープによるオクジャワの音源は280を超えています。

    オクジャワは1997年6月12日、コンサートに出演しに出かけたパリで客死します。
    死亡診断書に書かれた死因は流行性感冒。
    それでも人々の心に植えつけられたオクジャワへの愛は消えることはありません。
    毎年、オクジャワの誕生日である5月9日にはモスクワで詩人、吟遊詩人であったオクジャワを偲んで音楽フェスティバルが開かれています。

    ブラートは本当に強い鋼鉄です。
    この名前をオクジャワ自身も見事に体現しました。
    ブラートを幾多の困難が襲いましたが、ブラート・オクジャワはこれを素晴らしい詩に鋳直し、その詩が今日、人々を助け、痛みに打ち勝ち、心の平安を取り戻してくれているのです。

    4曲目
    Булат Окуджава – Былое Нельзя Воротить
    ブラート・オクジャワ - 過去は繰り返すことができない


    お答えします 2013年8月15日木曜日(ソ連のアンドロポフ書記長について)

    お答えします 2013年8月15日木曜日

    A.お題
    ソ連のアンドロポフ書記長について
    http://japanese.ruvr.ru/2013_08_15/119673974/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/andropov


    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年6月25日21時台/22時台
    2014年7月21日21時台/22時台
    2014年8月21日21時台


    C.本文

    ユーリー・アンドロポフはロシア史のソ連時代のなかでは、最も謎に満ちた興味深い人物といえる。
    ある意味ではアンドロポフのたどったキャリアはこの時代には多くの面で典型的なものだったが、アンドロポフは独創的な政治家であり、その人間性は多くの歴史家にとってはいまだに謎に包まれている。

    アンドロポフは1914年に鉄道員と音楽教師の両親の元に生を受けた。
    出生は非常につつましいものだった。
    家庭が貧しかったためアンドロポフは早くから働き始めた。
    電信所で、映画館の映写係補佐として、河川をゆく汽船の船員として務めたあと、こんどは河川技術学校に入学し、卒業後ヴォルガ川沿いにある町の造船所で働き始めた。

    アンドロポフの職歴は最初はあまりにも慎ましやかなものだが社会的な活動は活発だった。
    ソ連共産党の青年向けの組織「コムサモール」で、若きユーリー青年は16歳から熱心に活動を開始した。
    その活動振りはほかのものの目を引いたため、8年でアンドロポフはこの組織のピラミッドの階段を上に向かって着々と上っていく。24歳でアンドロポフはヤロスラーヴリ州のコムサモール州委員会の第1書記長となる。

    歴史家のアレクサンドル・ルカシン氏はアンドロポフのこの昇進は彼の目覚しい才能と状況の一致に追うところが大きいとして、つぎのように語っている。

    「こうしたうなぎのぼりの昇進の第1の理由はアンドロポフが生き生きと演説を行なえたこと、注目を集め、新たな考えをひきつけるのがうまかったことでしょう。
    第2の理由は政治体制自体にある。
    1936年の末から37年初頭にかけては『大テロル』の嵐が最も激しく吹き荒れていた頃で、党でコムサモールで人事上の粛清が行われ、そしてその後、大量粛清が始まりました。
    こうして空いたポストに収まったのがコムサモールで活躍していた人々で、そんな中にユーリー・アンドロポフの姿もありました。
    ある研究者は当時の様子について『キャリアアップはこの時代非常に速く行われた。ただし、そのキャリア志向の者がポストに留まり続けることができた場合に限られるが』と書いていますが、アンドロポフはラッキーだった。
    彼は慎重に行動していたからです。」


    大祖国戦争時代、アンドロポフは健康上の理由から前線には送られなかったが、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に派遣された。
    これはソ連の北西の端にあり、フィンランドと国境を接する土地だ。
    当時27歳だったアンドロポフは共産党の動きを組織し、確保する部署のトップを務めていたが、戦後は戦争で崩壊した経済を復興する仕事についた。
    この仕事のあらゆる面でアンドロポフは非常に効率的に自分を活かした。
    これが功を奏し、1951年アンドロポフは正真正銘の目覚しい昇進を遂げる。
    アンドロポフは首都モスクワへと連れて行かれ、ソビエト共産党中央委員会に引き抜かれたのだった。

    党中央委員会から外務省へとさらに昇進したアンドロポフは、今度は大使としてハンガリーに赴く。
    この時代はアンドロポフのキャリアのなかでも謎のひとつとされている。
    しかもアンドロポフはこの要職にふさわしい特殊な教育をうけてはおらず、大学の卒業証書すらもっていなかったからだ。
    確かに2つの大学で学んだ経験はあるにはあったが。

    それでもアンドロポフが常に独学で学んでいたことは、同時代の人々の証言で明らかにされており、党の指導部のなかでも最も博学で知的な人物だといわれていた。

    こんなわけでハンガリー語も、目的に向かって猪突猛進するアンドロポフは独学でさっさとものにしてしまう。
    当時の外務大臣を務めたヴャチェスラフ・モロトフについては、彼は大使や参事官を任命する際に、東欧諸国で共産党のイデアをプロパガンダできる人物を選んだという説がある。
    モロトフはまさにこうした人間だとしてアンドロポフを買ったのだろう。

    ハンガリーはアンドロポフにとっては、キャリアアップの大きな弾みとなったが、当時ハンガリーで展開されていた出来事はあまりにも悲劇的なものだった。
    1950年代の半ば、ハンガリーでは当時の共産党指導部に反対する市民の動きが大きなうねりとなって高まっていた。
    ハンガリー動乱である。
    アンドロポフはハンガリー共産党の指導者であったヤノシュ・カダルとともに市民蜂起を武力鎮圧することを強要した。
    結果ハンガリーにはソ連軍が動員され、戦闘のなかで反乱者2500人以上、ソ連兵2000人が命を落とした。
    最終的にはハンガリーにはかなり自由主義的な社会主義体制が出来上がったが、アンドロポフにはこの出来事すべてはあまりにも深い刻印を残すことになった。
    こうした現象を多くの歴史家は「ハンガリー症候群」と呼ぶ。

    歴史家のアレクサンドル・ルカシン氏はさらに次のように語っている。

    「ハンガリーでアンドロポフが目にしたものは無秩序でした。
    何十万人もの市民が統制を失い、通りにあふれ、たくさんの死者が出ていました。
    ハンガリー動乱でアンドロポフが得た最大の教訓は、こうした事態を絶対に自国で起こしてはならないということでした。
    これはアンドロポフの政治理解に、この先の彼の行動に紛れも無い刻印を残すことになります。
    アンドロポフは動乱を恐れました。
    『下から』の改革を恐れ、改革が行われるときは必ず『上から』行われることを支持したのです。」


    ハンガリーから帰るとアンドロポフは再び共産党中央委員会で働いた。
    1967年、アンドロポフは国家安全保障委員会(KGB)のトップに就任する。
    KGBのトップがこのシステムの出身ではまったくなく、この環境にいた者でもなかったというのは驚きに値する。

    当時KGBを代表してアンドロポフの補佐官をつとめていた、元KGB少将のヴィクトル・シャラポフ氏は次のように語っている。

    「私たち、つまり自分の補佐官らとの話の中ではアンドロポフは自分にとってはこの辞令は予想外だったことを認めていました。
    こうした任命の原因はいくつかあります。
    指導者のレオニード・ブレジネフは内政、外交政策と国家の問題を討議する際に自分には手ごわい反対者が存在することを知っていました。
    ユーリー・アンドロポフもその一人でした。
    アンドロポフをKGBに追いやることでブレジネフはライバルを脇に追いやったのです。」


    アンドロポフがKGBの職に任命されたもろもろの理由のひとつにとして、彼の同僚らが挙げている事実がある。
    それはブレジネフは側近のなかに自分の生活様式に好感を持たない人物を置きたくなかったというものだ。
    勤勉家のアンドロポフはブレジネフとは異なっていた。
    ブレジネフは豪華な食事、ハンティング、贈り物を好んでいた。

    アンドロポフがKGBを率いた15年の間にこの国、社会の生活のあらゆる分野に対する統制は強化され拡大された。
    目覚しい諜報活動、防諜活動が行われ、産業スパイ、学術技術スパイによって多くの成果がもたらされた。
    KGBのトップとしてのアンドロポフは巨大な金融の策動を解き明かしながら、闇の経済、汚職と闘った戦士としてよく知られている。

    一方でアンドロポフといえば何よりも社会の気運に対する統制を強化した人物の印象のほうが強い。
    まさにこの目的のためにKGBはほぼすべての組織、そして企業にKGBの特殊な部署をおいた。
    こうした体系はアンドロポフ以前にはなかったことだった。
    どんな人でも外国人と接触したり自由主義的な視点を持っているというだけで、スパイ扱いされ、ひどいときは祖国を裏切ったという刻印を押されうるという事態は恐ろしいものだった。
    これは大量粛清ではない。
    アンドロポフの政治は政権に反対するものは統制下においておかねばならないというものだった。
    時には職を解かれたり、作家のソルジェニーツィン、音楽家のガリーナ・ヴィシネツカヤやロストロポーヴィチのように祖国を追われることもあった。
    アンドロポフにとってはこれは国の秩序を守り、国家の安全を保障するためだった。
    ハンガリー動乱は警戒の念を呼び起こすように幾度も記憶によみがえってきたからだ。

    インテリゲンチャ、つまり反体制派となりうる人々と行うKGBの作業は特殊なものだった。
    芸術、学術分野の活動家に警告するため話し合いの場が設けるられこともよくあり、これをKGBの長官としてアンドロポフはしばしば自ら行った。
    しかしながら、時にはより厳格な措置を講じざるを得ないこともよくあった。
    歴史家のアレクサンドル・ルカシン氏は次のように語っている。

    「まるで機械のようにアンドロポフは具体的目標の達成のために様々な手段を使っていました。
    もし相手の考えを変えさせる方法がある場合は、それを使おうとしました。
    アンドロポフは詩人のエヴゲーニー・エフトゥシェンコやタガンカ劇場の主任演出家であったユーリー・リュビーモフと差し向かいで話したことがありましたが、そのなかでアンドロポフは、こうした人々が自らの創造活動のなかで、彼の考えるところの危険な歩みをとらぬよう、なんとか説得しようと試みたものです。
    それでも相手が頑として受け付けない場合はアンドロポフはより強硬な措置をとることもありました。
    国家と党の利益のほうが彼にはより重要だったからです。」


    アンドロポフの人物評価がこのように分かれる理由はインテリ層自体がある時期まで彼をソ連の政治家としてはかなり自由思想的な人間だととらえていたためだろう。
    自由思想的と見られたのは、この人物が博学であり広い視野を持ち、劇場の演目、展覧会に通じ、リベラル思想の人たちに取り巻かれていたせいだろう。
    しかしアンドロポフのなかには自由主義的なところもあったが、本人が自由主義者だったとしても政策の上でそれが反映されたかというと、全くそんなことはなかった。

    1982年11月12日にブレジネフが死去すると、アンドロポフは彼に代わり国の最高のポストを占める。
    この地位にアンドロポフが就いていたのはたった15ヶ月間だけのことだった。
    だがいまだに研究者らはソ連史の中でも最も短いこの期間を最も興味深い時期として注目している。
    アンドロポフは政治家として社会経済改革路線に乗り出す。
    彼が狙ったのは経済のメカニズムを変え、経済効率を引き上げることだった。
    アンドロポフは計画経済から企業の独自経営へと徐々に移行する必要性を理解していた。
    そのためには科学の達成を生産へ導入するよう刺激を加える必要があった。

    当時アンドロポフの補佐官をつとめていたヴィクトル・シャラポフ氏は次のように語っている。

    「アンドロポフはソ連経済を強くし、市民の高まる消費を満足させることのできるものにしたかったのです。
    浪費に反対し資源を考えもなしに大量に無駄にすることに反対しました。
    これは規律にあらゆる分野の社会に直接的に関係しました。
    アンドロポフは工場、コルホーズの労働集団に大きな権利を与えなければならないと考えており、これを実現させました。
    人々がどうやったらよりよく働くだろうかというふうに、労働に対する報酬を与えるよりも市民の関心に訴えたのです。」


    アンドロポフの行った第1歩の成果が出始めたのは1年後だった。
    生産規律が高まり、労働への刺激が行われたおかげで食物の生産性が向上したのだ。
    より深い変化を起こすためには、時間と根本的な改革が必要だった。
    アンドロポフのまわりでは変革プロジェクトを用意する学者グループができてきた。
    だがこのプランが日の目を見ることはなかった。
    1984年2月アンドロポフは急に病状が悪化し、亡くなる前の数ヶ月は病床から政治を執り行う状態にまでなったからだ。

    アンドロポフが政権についていたソ連時代を研究する人の多くは、アンドロポフをロシア版の鄧小平と呼ぶ。
    これは国家統制の元に市場的な関係を導入し、やがては政治制度を民主化することができただろうという意味でのことだが、当時、アンドロポフの補佐官をつとめていたヴィクトル・シャラポフ氏は次のように語っている。

    「アンドロポフから私は幾度となく、中国の経験を学ぼうとしたことを聞いています。
    ハンガリーもアンドロポフの興味をひいていました。
    これは社会主義体制でありながら、初めて市場的要素が出現した国です。
    農民らは生産物の一部を国家に納め、残りを小売価格でさばいていました。
    また手工業的企業も民営化していたのです。
    このように次第に市場的要素へ移行してゆけば、われわれも成長を速め、よりよい生活へと移ることができたでしょう。
    しかしながらアンドロポフは死去し、こうした発案を支持できるような継承者は見つからなかったのです。」


    アンドロポフの伝記を書いたジャーナリストのレオニード・ムレチン氏は、その政治を評して、次のような一文を記している。

    「彼には多大な期待が寄せられた。
    だが実はこの人物は化粧直し的な措置しか取れなかった。
    これはこの国にとってはさらに失われた一年であった」


    アンドロポフの死後、改革については一切話題に上ることはなかった。
    それが再び語られるようになったのはミハイル・ゴルバチョフ氏が政権についてからのことだった。

    この話を締めくくるにあたって、アンドロポフの人となりに少し触れておきたい。
    アンドロポフとともに働いた人の多くはアンドロポフは非常に勤勉で広い分野に精通し、どんな新しいことに遭遇しても、すべてに通じようとまい進する人だったと語る。

    ここで再び、かつてアンドロポフの補佐官をつとめていたヴィクトル・シャラポフ氏にマイクを向けてみよう。

    「あの方はいかなる分野にも通じていましたが、最も得意とするものは内政、外交政治でした。
    アンドロポフは大量に読んでいましたが、私たち補佐官らを非常に驚かせたことがあります。
    それはアンドロポフは読むときに一行ごとに読むのではなく、段落を読んですごい勢いで読み飛ばしていくのです。
    あの記憶力は普通ではありませんでした。
    毎日膨大な量の紙を読みこなしていかねばならないのですが、これをアンドロポフは自分ひとりでやっていました。
    病院に入院して、片方の目しか使えない状態にあっても1日に400枚もの報告書を読みこなしていたんですよ!
    アンドロポフはよく政治の人間だ、ホモ・ポリティクスだといわれていました。
    日常生活は非常に慎ましやかで、大きなマンションを提供されたのに、それを拒み、子どもは大きくなって巣立っていったのだから、妻とふたりの生活にこんな大きな部屋はいらないと言っておられました。」


    アンドロポフを良く思わず、あまりにも厳格なその態度を激しく批判する人たちでさえ、アンドロポフが広い見識を持っていることは認めていた。
    ソ連でかつてイデオロギー上、受け入れがたいとされていたロック、ディスコ、シンセポップ。
    西側のミュージシャンが演奏するそういったジャンルの音楽の正規のレコードが大量に生産されるようになったのは、まさにアンドロポフの時代だった。
    アンドロポフ自身がことに好んだのは反体制的詩人のヴィソツキーの歌だったという。
    それでいながらアンドロポフはイデオロギー的統制や異分子への弾圧を弱めることは決してなかった。
    本当に一様には語れない人物だった。

    アンドロポフはモスクワの赤の広場のクレムリンの壁の脇に葬られた。
    葬儀には各国の政府代表者が参列し、そうしたなかには英国のマーガレット・サッチャー首相、米国のジョージ・ブッシュ・シニア大統領の姿もあった。

    お答えします 2013年X月X日木曜日 (女優タチアナ・サモイロヴァについて)

    お答えします 2013年X月X日木曜日
    (放送日未確認=2013年5月9日-2013年12月26日)28回

    05=09/16/23/30
    06=06/13/20/27
    07=04/11/18/25
    08=08/22/29
    09=05/12/19/26
    10=10/24
    11=07/14/21/28
    12=12/19/26


    A.お題
    ロシア人の女優、タチアナ・サモイロヴァについて

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年5月6日22時台
    2014年5月7日21時台


    C.本文

    3521
    前置

    3634
    前置

    3648
    昨年2012年はロシアの誇る2本の傑作映画が記念すべき年を迎えたときでした。
    ミハイル・カラトフズ監督の「鶴は飛んでいく」は55周年を迎え、そしてもう1つのアレクサンドル・ザルヒ監督の「アンナ・カレーニナ」も45周年を迎えています。
    その両方の映画で同じ女性が主演を務めています。
    タチアナ・サモイロヴァ。
    この名前は2つの映画に撮影された女優として永遠の記憶に刻まれています。
    冷戦がもっとも頂点に達した時代、サモイロヴァはその才能で西側世界を魅了し、ロシアそのものを炎のごとく燃え、変わりゆく謎めいた国として体現する存在でした。

    3752
    タチアナは1934年5月4日に今のサンクトペテルブルグ、当時のレニングラードで生まれました。
    父はソ連の国民的俳優のエフゲニー・サモイロフ、少女は体が弱く病気がちであったため、両親は娘の体を鍛えようと舞踊学校に入学させています。
    舞踊学校の学芸会に出席したタチアナに当時すでに名声を手にしていたバレリーナ、マイア・プリセツカヤが目をとめました。
    プリセツカヤはボリショイ劇場付属のバレエ学校に移るようタチアナに助言します。

    ところがタチアナをより魅了したのがバレエではなく映画でした。
    これは父親の影響でしょう。
    このとき父のエフゲニー・サモイロフはすでに多くの映画に出演し有名になっていました。
    学校を卒業するとタチアナはシュウキン付属演劇大学に入学します。
    そして2年生に進学したとき、デビュー作となる映画「メキシコ人」に初出演を果たしています。
    映画に出演したことでタチアナはシュウキン付属演劇大学での学業を断念せざるを得なくなります。
    というのも演劇大学で学ぶ学生は映画に出演することを禁じられていたからでした。
    映画「メキシコ人」ではバレエ学校で得た経験が功を奏しました。
    シナリオでは踊る場面が多かったからです。

    この映画は大当たりはしなかったものの、タチアナが当時没頭したいたのは私生活のほうでした。
    演劇大学きっての畏怖堂々とした男性で後に有名な俳優となるヴァシーリ・ラノイヴォフとタチアナはめくるめくる大恋愛を展開していました。
    2人は結婚し、幸せな月日を送った後、破局に至ります。
    ところが運命の糸は2人を再び撮影の場で結ぶことになります。
    ただしこれについてはもう少し後でお話ししましょう。

    4011
    1957年タチアナはモスフィルム、モスクワ映画会社から「鶴は飛んでいく」に出演しないかと依頼を受けました。
    映画はヴィクトル・ローゾフの戯曲「永遠に生きる」をモチーフにしていました。
    映画の舞台は大祖国戦争当時のモスクワ、若いヴェロニカとボリスは互いに愛し合い、そろそろ結婚を考えています。
    2人はモスクワの街を歩きながら空を見上げると鶴が楔形に群れを成して飛んでいくのに気が付きます。
    そのときクレムリンのスパスカヤ塔の時計が朝の4時を打ちました。
    まさにこの日の朝、戦争が始まったのです。
    ボリスは前線に召集されます。
    ヴェロニカのほうにはにっちもさっちもいかない状況に追い込まれ、ボリスの弟の元に嫁ぐことになってしまいます。
    ところが愛する人を裏切ったという両親の呵責は一時たりともヴェロニカの心を去りません。
    戦争が終わりヴェロニカはボリスが戦死したことを知ります。
    戦争に勝利した喜びもヴェロニカの心の中ではボリスを失った激しい悲しみとないまぜになってしまいます。

    4140
    監督のミハイル・カラトゾフは絶えず揺れ動く人物像を追い求めていました。
    それは憂いを知らぬ、そしてエゴイスティクさをもちあわせている少女が苦しみを負う女性へと変貌していく姿でなければなりません。
    タチアナ・サモイロヴァの均整のとれた容姿と激しい気性にカラトゾフ監督は感動を覚えました。
    こうした感動は後にサモイロヴァとカラトゾフ自身も全世界に与えることになります。
    ところがタチアナのほうはほとんどパニック同然の状態でした。
    歳も若く経験も少ない自分が画面でヒロインの5年もの人生を表現しなくてはなりません。
    しかもそれはこの国が最も苦しい時代を生きていたときの話でした。
    タチアナは肉体的にも精神的にも瀬戸際の状態で演じます。
    しかしその演技と言ったらどうでしょうか。
    自由奔放でインスピレーションに満ち、夢中で情感たっぷりに映画の悲劇性を若さの未熟さではなく、深く全神経を通してタチアナは見事に表現したのです。

    4257
    映画は見る者を震撼させましたが、ソ連の批評家たちはこれを完全に無視しました。
    「鶴は飛んでいく」は寸前のところで闇に葬り去られて棚の上でホコリを被るところだったのですが、そのときにはすでにカンヌ国際映画祭の公式プログラムに入っていました。
    フランスに着いた撮影班が待っていたのはクラクラするような驚くべき事態でした。
    上演ホールはソ連映画に割れるような拍手喝采が起こり、普段は意見の分かれる観客と批評家たちが一体となって賛辞を惜しみませんでした。
    「鶴は飛んでいく」はカンヌ映画祭の最優秀賞、金のヤジ賞を獲得します。
    「ロシア人の女神の瞳におぼれてしまいそうだ」
    と有名な画家、ハブロピカソは映画の観賞の後、主演女優のタチアナ・サモイロヴァのことをこのように評しています。

    4403
    カンヌ国際映画祭の大成功の後、タチアナ・サモイロヴァをハリウッドがハンティングしようとします。
    アンナ・カレーニナの主役を演じないかという誘いでした。
    ところがソ連国家映画局は首を縦に振りません。
    当時の文化省大臣を務めていたエカテリーナ・フルセヴァは
    「アメリカがなんですって?サモイロヴァはソ連の財産です。わが国には我が国のアンナ・カレーニナが撮影されるのですから」
    と叫びましたが、当時ソ連の映画監督の中からはアンナ・カレーニナを撮影しようとする者は出ませんでした。
    カンヌ映画祭であれだけの成功を収めた後にはタチアナ・サモイロヴァはさぞや引手あまたになるであろうだとの期待とは裏腹にたった数本の映画に出演しただけで、その後サモイロヴァの姿はスクリーンからぷっつりと消えてしまいました。

    4512
    タチアナ・サモイロヴァに返り咲きの時が訪れたのは1967年、アレクサンドル・ザルヒ監督がアンナ・カレーニナの役を提示したときでした。
    当時世界では16本のアンナ・カレーニナの映画が撮られていました。
    ザルヒ監督がアンナ・カレーニナの役にサモイロヴァを抜擢したことは多くの人たちには青天の霹靂でした。
    というのも監督には主演女優にとソ連映画界きっての美人女優たちが提示されていたからです。
    ところがザルヒ監督が探していたのはそれとは別のものでした。
    タチアナのなかに監督は19世紀の貴族の混乱しきった魂を見てとります。
    そしてその勘は間違っていませんでした。
    サモイロヴァはトルストイの描いたヒロインをスクリーンの上で見事に演じきったのです。

    4614
    サモイロヴァの主演する映画が世界中で大ヒットを飛ばしているさなか、フランスのウイークエンド誌は
    「タチアナ・サモイロヴァは一時の中断期間を経て再びスクリーンに登場した。
    女王のような振る舞い、あたたかな褐色のヒトミのきらめくまなざしが見事に調和した彼女のアンナ・カレーニナはあらゆる面で見る者を虜にする」
    と書きたてました。

    4644
    面白いのはこの映画でアンナの相手役であるボロンスキーを演じたのが、かつてのサモイロヴァの夫、ヴァシーリ・ラノイヴォフであったことです。
    撮影の場で2人は離婚以来10年の歳月を経て再開しました。
    タチアナ・サモイロヴァは再開の時点で昔の感情はもう残っていなかったと語っていますが、ラノイヴォフのほうは回想禄でこんな風に語っています。

    「わたしたちはボロンスキーとカレーニナを苦も無く演じることができた。
    なぜなら共に暮らした日々がわたしたちにはあったからだ。
    現実の中で培われたものがあったことで、この映画はスパイを効かせたものになると思う。」


    4734
    ザルヒ監督のアンナ・カレーニナではベトサ役をマイヤ・プリセツカヤが演じましたが、プリセツカヤはそれから7年後、今度はバレエ版のアンナ・カレーニナでアンナの役を演じるようになりました。
    この物語にはいくつかの運命が錯綜しています。
    アンナ・カレーニナの映画化作品はザルヒ監督がメガホンをとる前もその後も少なからず誕生しており、アンナの役は様々な国の有名無名の女優たちが演じてきてきましたが、ロシア人たちにとってはタチアナ・サモイロヴァの演じたアンナ・カレーニナこそがトルストイの小説のヒロインを表すまがいもない定型となっています。

    4826
    当たり役に自信を得たサモイロヴァは他の監督らから出演の依頼がくるものと当てにしていましたが、そうしたものは続きませんでした。
    映画スタジオへお百堂空のごとく疲れたサモイロヴァは映画俳優劇場の舞台で演じるようになりましたが、それから得られる満足はありませんでした。
    1990年代の到来とともにロシアの映画産業は完全に衰退します。
    サモイロヴァは若さをすっかり失っていました。
    そしてこう決断します。

    映画は若いうちに撮るほうがいい。
    力もあり限界を超えて鼓動するエネルギーのあるうちに。
    でも気力を失い、精力をそがれ、自分に対する自信を失った俳優は見る者にはもう面白くないのよ。


    4924
    2000年、タチアナ・サモイロヴァには映画「24時間」への出演依頼が舞い込みます。
    この時点ではサモイロヴァは10年以上もカメラの前に立っていませんでした。
    出番の少ない母親役にはサモイロヴァは即座に応じました。
    その時以来、サモイロヴァはさらに数本の映画に出演していますが、いずれも端役に終わっています。
    「鶴は飛んでいく」のВероника(ヴェロニカ)、そしてАнна Каренина(アンナ・カレーニナ)はロシア映画芸術の粋として永遠の記憶に刻まれ続けています。

    5003
    サモイロヴァ自身はそんな運命を望んだでしょうか?
    この問いの答えとしてはアンナ・カレーニナのセリフが妙を得ているでしょう。
    このアンナのセリフはタチアナ自身の世界観と一致しています。

    5033
    絶望からわたしを救っているのはただ愛だけです。
    後悔しているかですって?
    いいえ。
    もしすべてを最初からやり直すとしてもわたしは全く同じことを選んだでしょう。


    5108
    2013年5月、タチアナ・サモイロヴァは79歳の誕生日を迎えました。
    サモイロワは現在モスクワで1人で暮らしています。
    時折テレビのトークショーに出演し、プレスからのインタビューに答えることもあります。
    入院生活を送ることもしばしばとなってきました。
    息子のドミトリーは20年前、医学校に通う学生の身分でアメリカ人女性と結婚し渡米します。
    夫婦には娘が生まれましたが、ドミトリーは母の名前をとってその娘をタチアナと名付けました。

    5148
    さて(質問者)がご指摘していますようにクラムスコイの筆による見知らぬ人とアンナ・カレーニナとの関係ですけど、これは噂の域を出るものではないと思われます。
    アンナ・カレーニナ像についてはレフ・トルストイはアレクサンドル・プーシキンの長女マリアになぞらえて書いたという根拠の強い説があります。
    トルストイはマリアが美しさと幸福の絶頂があるときにこのマリアと会う機会がありました。
    トゥーラ郡のある機会のことです。
    その晩トルストイとマリアは長い語らいの時をもち、文学について芸術についてそれぞれの印象を交換しました。
    トルストイを感動させたのはマリアのエレガントな身振りだけではありません。
    その大胆さ、独創的なものの見方にトルストイは大きな感銘を受けています。
    それでもアンナ・カレニーナ像の元となったのはマリア・プーシキナだけではありません。
    トルストイと同世代の複数の女性の性格がこのヒロインのなかに現れていると言われています。

    5325
    締め

    5621
    (完)

    お答えします 2013年X月X日木曜日 (作家ガルシンについて)

    お答えします 2013年X月X日木曜日 (放送日未確認)

    A.お題
    作家ガルシンについて
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/19-1

    翻訳アナウンス:真野・和田
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年3月13日21時台
    2014年3月16日22時台
    2014年6月6日21時台
    2014年7月4日21時台/22時台
    2014年7月27日21時台/22時台
    2014年8月14日21時台
    2014年9月25日21時台
    2014年9月28日22時台
    2015年2月19日21時台

    お答えします 2013年X月X日木曜日 (今スターリンおよびセンスターリン主義はどのように評価されているのか?)

    お答えします 2013年X月X日木曜日

    A.お題
    これがロシア人! 今スターリンおよびセンスターリン主義はどのように評価されているのか?
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/stalin

    翻訳アナウンス:和田
    メロディ=2


    C.本文




    お答えします 2013年3月14日木曜日 (KGB(カーゲーベー)ソ連国家保安委員会、ひとつのコインの表と裏)

    お答えします 2013年3月14日木曜日

    A.お題
    KGB(カーゲーベー)ソ連国家保安委員会、ひとつのコインの表と裏
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_03_14/107943129/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/kgb

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=2

    再放送日時
    2015年11月15日21時台


    B.選曲

    1曲目
    Иосиф Кобзон - Мгновения
    ヨシフ・カブゾン - 瞬間
    (映画:Семнадцать мгновений весны 「春の17の瞬間」挿入歌)


    C.本文

    KGB(ロシア語でКГБ、カーゲーベー)はその歴史の中で幾度も名称を変えている。
    ベーチェカー(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)、ОГПУ(統一国家政治局)、НКВД(内務人民委員部)と様々な名称をたどったものの、多くの外国人の脳裏にはKGBという名称が最も強い刻印を残している。
    KGBは諜報活動にも外国の諜報活動を封じることにも従事したが、最も大きな位置を占める活動は「内部の敵」を封じることに集約されていた。
    KGBはソ連の全共和国、全州、委員会や部署の網を張り巡らせ、研究機関、学校、一般の施設にさえ職員を派遣していた。
    この安全保障機関の前には普の労働者から高官までみなが震撼したものだった。

    このテキストのなかでは国家安全保障機関の名称をKGBに統一してお話する。
    KGBに対する恐怖感を人々が抱くようになったのはずいぶん昔にさかのぼる。
    1917年の社会主義革命の後、政権にはボリシェビキがつき、国内には内乱の嵐が吹き荒れた。
    この内乱の時代とその後、秘密機関の活動は大々的に展開されるようになった。秘密機関の抱えるたくさんの職員は政治的な追跡活動に従事した。
    作家、音楽家、時計工場の労働者からコルホーズの搾乳夫まであらゆる分野の人のなかからソ連政権に敵対する者を探しだし、暴いていった。
    先日、スターリンについての番組をお届けしたなかで弾圧についてお話したが、今回もこのテーマは続く。
    捜査対象になる、逮捕されるというためにはそれこそなんでも理由は見つけられた。
    話の中でたまたま指導者の名前を挙げたとか、外国人と話しているところを見られたとか。
    粛清の時代、実は外国で働いた経験のある諜報員もその対象にされ、命を落とした人も少なくない。
    スターリンの死とともに大量の逮捕、銃殺、捜査の時代は終わったが、国家は依然として国民を掌握し、油断なく管理し続けた。

    ただしKGBの成し遂げた達成に目を向けないのも正しくないだろう。
    特に戦時中の、それも第2次世界大戦中の諜報活動は特別な意味を持つものだった。
    1941年、KGBはナチスドイツ軍がソ連に仕掛けようとする攻撃情報を100件以上も送った。
    ただしスターリンは戦争開始当初、ソ連軍は手痛い負けを何度も経験していたために、誰も信じようとはしなかった。

    それでも戦時中、そして戦後の数年間はソ連の対外諜報活動の黄金期と呼ぶことは出来るだろう。
    活躍した一人の例として日本で諜報活動に従事したリヒャルト・ゾルゲを挙げたいと思う。
    ゾルゲは第2次大戦時の枢軸国の計画に関する機密情報をいくつも暴き、つたえた。
    KGBの元職員で歴史家のゲンナージー・ザイツェフ氏は次のように語っている。

    「ゾルゲは日本においてドイツ大使、および数カ国の大使館付武官らと目覚しくコンタクトをとっていた。
    通信員としてドイツ大使館にいつも入り浸ることで、本当に重要な情報のみを手にすることができたのだ。
    ゾルゲは誰よりも早く、ドイツが1941年6月にソ連に攻撃を仕掛けることを通知した。
    ところがこの情報をスターリンは信じなかった。
    日本政府はゾルゲ逮捕に成功し、彼は1944年に死刑に処せられた。」


    もうひとり、日本で活躍して死んだソ連のスパイがいる。
    ただしこの人物はソ連のスパイ活動の歴史では「反英雄」または「裏切り者」として名を残した。
    彼の名はゲンリッヒ・リュシコフ。
    1937年リュシコフは内務人民委員部の極東代表部、代表に任命された。
    しばらくして日本の中国侵略が開始されるとリュシコフは自らの意思で日本側に寝返り、東京と大連にある日本の諜報機関で働くようになった。
    歴史家のニコライ・ドルゴポロフ氏にリシュコフについて伺ってみた。

    「リシュコフはスターリン暗殺計画を日本にもちかけた。
    しかもこれはただの計画ではなく現実的な大真面目なものだった。
    彼は友人らを通してスターリンのボディーガードがどう組織され、どんな人物が働いているかを知っていた。」


    リュシコフが日本に渡した情報には、ソ連軍の内実や部隊配置、施設の建設、要塞、防衛線など本当に重要なものが多かった。
    リュシコフは軍部のコードを解読し、極東における最重要なエージェントを日本人に暴露した。
    ソ連はリュシコフに死刑を宣告したが、最終的に彼は日本で命を落とした。
    関東軍が降伏したあと、日本の諜報機関のために自ら得た情報とともにこの世を去るよう、リュシコフには自殺を促された、
    原子力爆弾の歴史もソ連諜報部の成功と密接な関係がある。
    1945年7月、ポツダム会談の席で米国のトルーマン大統領はスターリンに対し、自国で原爆実験が成功したことを高らかに告げた。
    ところが予想に反してスターリンは驚きも見せず、落ち着き払ってそのニュースを伝えられたことへの謝意を表した。
    米国指導部はマンハッタン計画についての情報が米国の機密ラボラトリーから同様に機密状態にあるソ連のラボラトリーに少なくとも3年半にわたって伝えられていたことを知らなかったのだ。
    これについてボリス・ゴルベツ教授は次のように語っている。

    「機密機関のデーターによれば、ソ連の研究者らが何を言っても、
    どんな手紙を書いてもスターリンは原爆製造作業を早めようとはしなかった。
    ソ連の原爆製造作業を率いていたイーゴリ・クルチャトフ氏のもとには毎月、諜報情報が書かれた分厚いファイルが届けられていた。
    クルチャトフ氏は絶海の孤独の状態でその手紙に目を通していた。
    クルチャトフは誰とも相談してはならず、誰にも手紙を見せてはならず、全て一人で分析し、結論を出さねばならなかった。」


    ソ連の原爆製造は偉大な研究者とそれに追随者の行なった達成であることは間違いない。
    だが、科学技術諜報活動員がソ連側に送ったデーターも決して過小評価してはならない。
    1949年ソ連が初の原爆実験を行ったとき、米国指導部は自国が謳歌できると思っていた原爆の独占は終わりを告げたことを悟った。
    目撃者の証言によると、ソ連の原爆製造計画参加者らに政府の報償が贈られた際、スターリンは「もしこれがあと1年、1年半遅れていたら、自分たちの身の上に人体実験を行なうはめになっていたかもしれない」と語ったという。

    米国の原爆製造計画についての情報をソ連のスパイに渡していたのは米国人らだった。
    情報をリークしていた科学者とそれに近い立場にあった人たちは、世界に原爆の独占があってはならないと理解していたのだ。
    ソ連軍第1諜報課の元課長、フョードル・ラドゥイギン大将は次のように語っている。

    「こうした人たちは自発的に私たちとの作業に当たった。
    彼らはもし原爆が一国の手に握られることになったら、ヒットラーが勝利し、世界征服に成功するよりももっとひどい事態になりかねないと理解していたのだ。」


    ソ連の伝説的なスパイと英国人数名の共同作業が成立したのも、同じような考えがあってのことだった。
    この数名は「ケンブリッジ・ファイブ」の名で知られる。
    この5人はケンブリッジ大学付属トリニティカレッジの卒業者で、30年代からソ連諜報部と自発的に協力関係を結んでいた。
    米国中央情報部(CIA)のアレン・ダレス元長官は「ケンブリッジ・ファイブ」を「第2次世界大戦中に最もパワフルなスパイ活動を行なった一団」と呼んだ。
    祖国英国は、イギリスの名家出身で「金賞」の受賞者らを社会主義国家の側に渡らせた要因は何だったのか、未だに理解に苦しんでいる。
    おそらくナチスドイツがヨーロッパを占領するという現実的な脅威があった時代、ソ連は唯一ドイツのファシズムに対抗できる国に思えたのだろう。

    「ケンブリッジ・ファイブ」のなかで最も有名なキム・フィルビーは第2次大戦中モスクワに900を越える貴重な資料を渡していた。
    しかもこの間フィルビーは祖国、英国の諜報機関M16で目覚しい昇進を遂げている。

    「ケンブリッジ・ファイブ」のなかでもジョージ・ブレイクの存在はひときわ際立っている。
    ブレイクは50年代からソ連特務機関との協力を開始した。
    第2次大戦に勝利し、冷戦の中でほぼ全世界を敵に回してたち続けるソ連はブレイクには全ての人の権利を求めて闘う者のように思えた。
    ある意味でブレイクの行なった仕事は単なるミッションではなく、友情だったといえなくもない。
    ブレイクの流した情報はソ連や共産国に対抗する企てについてのみ限定されており、これに対する報酬は一切受け取らなかった。

    ジョージ・ブレイクは実は現在、ロシアに暮らしていて健在だ。
    2012年ブレイクは90歳をむかえたが、今でも強い信念に貫かれた共産主義者でありつづけている。

    これについては何冊もの本が著されている。
    冷戦時代、ソ連と西側のスパイ対立におけるヒーローらは長編小説のページを飾っている。
    ジェイムス・ボンドのシリーズにも、英国スパイとソ連のスパイの闘いを描いたものがあるが、その話が64年ション・コネリー主演で撮られたあの有名な映画「ロシアより愛を込めて」だ。

    1967年、KGBの指導部にユーリー・アンドロポフが就任した。
    日本語課に届いたお便りのなかでアンドロポフについて、取り上げるよう希望も寄せられているが、これは近いうちに別の番組で詳しくご説明申し上げるとして、ここではアンドロポフがKGBの指導部に入った際、KGBの威信を引き上げようと努力したことだけお伝えしようと思う。
    アンドロポフの発案でソ連のスパイや外国のスパイを封じる防諜職員の活躍を描いた映画や本がたくさん世に送り出された。
    その中で未だにロシア人に愛されているシリーズが「春の17の瞬間」という映画だ。
    これはソ連のスパイがナチスドイツ領内で活躍する姿を描いたもので、その撮影のチェックにはKGB指導者自らが入念にあたったという。

    アンドロポフは大量粛清を支持しなかったが、秩序を維持するためには政権にはむかう者、厳しい管理に疑問を呈する者らを拘束せねばならないと考えていた。
    アンドロポフのKGB時代は権力に逆らうものには身体的懲罰は与えられず、裁判や検証を行なうことなく投獄されることも少なかったが、そのかわり心理的抑圧、追跡、マスコミを通じた信用失墜キャンペーン、専門活動の禁止、煽動、おどしといった手段が用いられた。
    中でも最も残忍なやり方は精神病院に強制的に連れ込まれることだった。

    アンドロポフ時代、ソ連時代初期のように体制に不満を抱く人間は、特にインテリ層はシベリア送りではなく、西側に送られた。
    ソルジェニーツィンもこれに属し、西側世界で粛清をテーマとした『収容所群島』『煉獄のなかで』といった作品を発表したかどでソ連の市民権を剥奪され、ソ連の外に追い出された。

    水素爆弾の考案者のひとりで、物理学者、人権擁護家、ノーベル平和賞受賞者として有名なアカデミー学者アンドレイ・サハロフ氏はKGBの圧力を撥ね退け続けた。
    公平さを期すためにコメントすると、サハロフ氏に一目置かれたのは、彼の論文や国に反対する演説は西側に活発に利用され、プロパガンダ目的に使われたためである。
    アンドロポフは、この闘争は考えの異なる者との間に繰り広げるものではなく、ソ連の政治的安全が脅かされることとの闘いであると考えていた。

    現在のロシア人の間ではKGBの活動への評価は様々に分かれる。
    最近、「レヴァダ」センターの行なった世論調査では、同じ人間が粛清をネガティブにとらえながらも、国家の利益を守ることにはポジティブな反応を見せていることがわかった。
    しかも多くの人がKGBの高い専門性とその職員の教養の高さを認めていた。
    これに関連して付け加えたいのは、プーチン大統領も、またミハイル・フラドコフ元首相、エヴゲーニー・プリマコフ元首相も同じくKGB出身であるという事実だ。

    ソ連崩壊と冷戦終了とともにKGBの本部はかなり縮小され、対外諜報機能は他の機関へと移った。
    現在、諜報活動に従事しているのはロシア対外情報庁であり、国の安全保障には連邦保安庁が当たっている。
    その主要な活動は現在対テロ、テロ集団対策に集約されている。

    お答えします 2013年X月X日木曜日 (バイカル湖について)

    お答えします 2013年X月X日木曜日
    (01.17-08.08)

    A.お題
    バイカル湖について

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=2

    再放送日時
    2014年5月10日22時台
    2014年5月11日22時台
    2014年7月10日


    B.選曲

    1曲目
    Славное море - священный Байкал!
    聖なる湖バイカル

    C.本文

    0041
    開始(冒頭では各地の話題とアナウンス)

    0144
    前置

    0218
    まず最初にバイカル湖についての統計上の数値をご紹介しましょう。
    バイカル湖はシベリアの南東部に自然が作り上げた湖で、淡水塩辛くない水をたたえた貯水池としては世界最大の水量を誇ります。
    形は北東から南西に伸びた半月型で、もっとも長い長さが635キロメートル、これは私が調べましたところ、東京と広島の間が680キロメートルですので、そのちょっと手前までがおおよそこのバイカル湖の長さとなります。
    すごいですね。
    横浜も名古屋も京都も大阪も全部水につかってしまいます。
    それから深さですが、一番深いところで1637メートル、平均で730メートルです。
    これも比較のため数値を探しますと、東北は秋田の田沢湖高原の秋田駒ヶ岳の標高がちょうど1673メートルです。
    秋田駒ヶ岳がすっぽり入る深さということになります。

    0335
    研究者の間では未だにバイカル湖の成り立ちについて一致した意見が得られていません。
    大半の研究者たちはバイカル湖は地表に出来た亀裂から生じたものと推測しており、その亀裂は地下深く潜ってユーラシア大陸を南西から北東に走る大きな地球の溝に達していると考えています。
    もちろん他の説も存在しています。
    ただしいずれもバイカル湖は未だに変容し続けている、どんどん変化しているということは確かなようです。
    なぜならば湖の周辺部では絶えず地震が起きており、それが湖に大きな影響を与えているからです。
    一番最近に起きた地震は2008年の8月、バイカル湖の南で震度はマグニチュード6.4でした。

    0434
    湖の年齢に関しては2億5000年前から3億5000年前に出来たものと推定されていますが、この年齢も実は珍しいものです。
    なぜならば氷河期に出来た湖の大半は平均10000年から15000年で、これを過ぎると湖は沼と化してしまうのが普通だからです。

    バイカル湖には30の島があります。
    ですがそのうち人が住んでいるのはただ1島だけ、最も大きいオリホン島です。
    オリホン島はバイカル湖の中心部から少し西側沿岸部に近い地点にあります。
    バイカル湖にそって全長73キロ、東西の幅は15キロです。
    オリホン島は充分な広さを有しており、そのなかになんと4つもの湖をたたえています。
    そのうちの1つの湖の水は淡水ではなく、海のように塩分を含んでいます。

    0540
    オリホン島へ人間が住みはじめたのはかなり昔で、島には今から13000年前の古代人たちが暮らした跡が残されています。
    現在島の人口は1500人、主に少数民族のブリヤート人で、漁業と畜産業を生業としています。
    オリホン島最大の居住区には1200人が暮らし、バイカル湖最大の水産工場があります。
    夏、5月から10月はオリホン島と大陸の間にフェリーが就航します。
    また冬、湖面が凍結すると氷の上を移動する交通手段が用いられます。
    島に最も近い大都市はイルクーツクで、ここから島まではバスで5時間から6時間で到達することができます。

    0635
    オリホン島の先住民族、ブリヤート人に伝わる伝説、そして神話によりますとオリホン島はバイカル湖の猛々しい精霊たちの住家でした。
    伝説に出てくる神様からシャーマンとしての力を授けられた白頭イヌワシのハンブフーはまさにこのオリホン島に住んでいます。
    オリホン島は北方シャーマン世界の中心とされてきました。
    ある伝説ではこの島にはチンギス・ハンの墓があるとされています。

    0712
    (質問者)さんはバイカル湖には漁業と観光以外の産業があるかとお尋ねですが、バイカル湖には南東部に製紙コンビナートがあります。
    製紙コンビナートは1960年代の半ばに建設されました。
    繊維・紙・段ボールを生産する目的で建てられたこの工場は皮肉なことにバイカル湖の水質汚染の元となってしまいました。
    2008年からコンビナートでは水の完全リサイクルが開始されており、浄化処理された水でさえ湖に流すことは全くありません。
    現在工場内では環境保護技術の刷新プログラムが行われており、今年2013年までにその実現が終わる計画です。

    0801
    バイカル湖には58種類の魚が生息しています。
    夏、盛んに獲られるのはカワヒメマス、カマス、ヨーロピアンパーチ、コイ科のローチです。
    ですが、こうした魚は地元民の関心の対象には全く上がりません。
    地元の人たちが魚といえば、それはオムリ以外の何物でもありません。
    オムリは白サケ科の魚で、通常1キロから1.5キロの重さがありますが、稀に7キロの大物が獲れることがあります。
    オムリはとろけるほどおいしいと珍重されていますが、これはバイカル湖のキレイでミネラルの富んだ水と関係あります。
    オムリは塩漬け、スモークの他、新鮮な魚肉を凍らせて2-3ミリの厚さに削るルイベにされます。
    それでもやっぱり一番簡単で観光客にも地元民にも好まれる調理法は塩焼きです。
    長い串をさし、頭を下にして焚火のそばで焼いたオムリは最高の味です。
    火加減が強くないので熱が魚に徐々に浸透し、これに焚火のいいニオイが移り、味は最高、焚火で焼いたオムリを食べた人はこの味を一生忘れないと言われています。

    0928
    さて(質問者)さんはバイカル湖の岸辺に住む民族たちは様々な文化習慣を持っているのでしょうかとお尋ねですが、湖の周りには昔から実に様々な民族が住んでいます。
    最も多いのがエヴェンキ族とブリヤート人です。
    ロシア人がここに住みはじめたのは17世紀のことです。
    エヴェンキ族の主な生業はヘラジカ、そしてシカ科のノロ・クマ、毛皮用の動物のハンティングです。
    畜産業は馬、ラクダ、羊、このほか漁業とバイカルアザラシの捕獲も行います。
    ブリヤート人は主に遊牧畜産業に従事し、羊、牛、ヤギを育てます。
    このため生活習慣・伝統も遊牧生活と密接にかかわっています。

    1028
    バイカル湖周辺を旅する観光客に人気なのは自然の美しさ・雄大さだけではありません。
    立ち入りが制限される保護区でゆっくりとくつろぎ、魚釣りに興じるツアーも設けられています。
    こうしたツアーでは民族博物館で様々な少数民族の習慣に触れたり、シャーマンの儀式に参加することができます。
    お望みならばバイカル湖にはエスニックツアーもあり、より深く民族ツアーに触れ、儀式を知ることもできます。

    バイカル湖は驚くべき場所だ、シベリアの人がこれを湖と呼ばず海だというのもうなずける

    1880年、サハリンへの道筋でバイカル湖を通過した作家アントン・チェーホフはこのように書いています。

    湖は驚くほど透明で、空気を通すように水の中が見える、その色は優しいトルコ色で目に心地よい、沿岸は切り取っており、こんもりと森に覆われ、一寸先も見えない、光もとおらない、クマ、テン、野生のヤギなどあらゆる野生動物がおびただしい。


    100年ほど前、チェーホフにこのように描写された風景は今もそう変わることはありません。

    1152
    さて(質問者)さんのご質問にはバイカル湖の沿岸に直接入る空の便についてもありましたが、湖の沿岸に降り立つ便はありません。
    ですが周辺には2つの空港があります。
    バイカル湖の西66キロの地点にあるイルクーツク空港か、東側のウラン・ウデのどちらかをご利用ください。
    両方の空港からバイカル湖まではバスの便があり、イルクーツクからは汽船に乗ってアンガル川を下る短い旅を味わうこともできます。
    ただしこの汽船は6月の半ばから8月までと非常に短い期間しか運行していません。

    1239
    さてこのバイカルの雄大な景色を思い浮かべていただきながら、ここで最後にバイカルを歌った曲・歌を1曲お届けしたいと思います。
    「偉大なる海よ、聖なるバイカルよ」という歌です。
    これはロシアの民謡です。
    どうぞお聴きください。

    1301
    曲:Славное море - священный Байкал!
    聖なる湖バイカル(偉大なる海よ聖なるバイカルよ)

    1726
    最後に「偉大なる海よ、聖なるバイカルよ」というロシア民謡をお聴きいただきながら、今日の「お答えします」、バイカル湖についてのテーマを終わりにしたいと思います。
    このテーマはいろんな方々からいただきました。
    どうもありがとうございました。
    (締め省略)

    1917

    お答えします 2013年スケジュール

    お答えします 2013年スケジュール

    0103:臨時企画休止
    0110:
    0117:
    0124:
    0131:臨時企画休止

    0207:
    0214:
    0221:
    0228:

    0307:臨時企画休止
    0314:KGB(カーゲーベー)ソ連国家保安委員会、ひとつのコインの表と裏
    0321:
    0328:

    0404:
    0411:
    0418:(再)ことわざ (2009年11月26日)
    0425:

    0502:
    0509:
    0516:
    0523:
    0530:

    0606:
    0613:
    0620:
    0627:

    0704:
    0711:
    0718:
    0725:

    0801:臨時企画休止
    0808:
    0815:ソ連のアンドロポフ書記長について
    0822:
    0829:

    0905:
    0912:
    0919:
    0926:

    1003:吟遊詩人 ブラート・オクジャワについて
    1010:http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/452
    1017:ロシアの自然災害について
    1024:
    1031:日本における東方正教会、最初の侍からドストエフスキーまで

    1107:
    1114:
    1121:
    1128:

    1205:作家・作曲家アレクサンドル・グリボエードフについて
    1212:
    1219:
    1226:

    お答えします 2012年12月13日木曜日 (SF作家ストルガツキーについて)

    お答えします 2012年12月13日木曜日

    A.お題
    SF作家ストルガツキー兄弟について
    Братья Стругацкие
    http://japanese.ruvr.ru/2012_12_12/97847996/
    http://static.ruvr.ru/download/2012/12/13/1279300778/МИЯКАДЗЭ.mp3

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=2

    再放送日時
    2014年5月8日22時台
    2014年8月20日21時台/22時台

    お答えします 2012年5月10日木曜日 (ロシア・バレエについて:赤尾雄人さんインタビュー)

    お答えします 2012年5月10日木曜日

    A.お題
    ロシア・バレエについて:赤尾雄人さんインタビュー
    http://japanese.ruvr.ru/2012_05_10/74337388/
    http://cdn.ruvr.ru/download/2012/05/10/1308118718/Россия-Япония-Балет.mp3

    アナウンス:田中千晶
    メロディ=2


    B.選曲

    1曲目
    -
    - 白鳥の湖第2幕

    お答えします 2012年5月3日木曜日

    お答えします 2012年5月3日木曜日

    A.お題
    アレクサンドル・ポポフの偉業
    (本・再?未確認)
    関連:


    情報元:
    国際短波放送情報
    http://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/31520603.html

    お答えします 200X年X月XX日木曜日 (映画監督アンドレイ・タルコフスキーについて)

    お答えします 200X年X月XX日木曜日

    A.お題
    映画監督アンドレイ・タルコフスキーについて
    http://japanese.ruvr.ru/2012_04_05/70742797/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/tarkovsky

    翻訳アナウンス:山上
    メロディ:0

    再放送日時
    2014年3月23日22時台
    2014年8月2日21時台/22時台
    2014年8月9日21時台/22時台

    お答えします 2011年12月8日木曜日 (ウラル核施設キシュテムの悲劇)

    お答えします 2011年12月8日木曜日

    A.お題
    ウラル核施設キシュテムの悲劇
    http://japanese.ruvr.ru/2011/12/13/62143105/
    http://cdn.ruvr.ru/download/2011/12/14/1243756627/110630.mp3
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/pqhgvullvwhd

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=2

    再放送日時
    2014年5月29日21時台
    2014年6月1日21時台/22時台

    補足
    福島原発レベル7公表=11年4月12日
    https://ja.wikipedia.org/wiki/ウラル核惨事
    https://ru.wikipedia.org/wiki/Славский,_Ефим_Павлович
    https://ja.wikipedia.org/wiki/オジョルスク
    https://ru.wikipedia.org/wiki/Кыштым
    一般財団法人高度情報科学技術研究機構
    http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_No=09-03-02-07


    C.本文

    0000
    開始

    0102
    前置

    0350
    1957年の9月29日、ソ連中型機械製作省の大臣を務めていた Ефим Славский (エフィム・スラフスキー) の机の上には暗号を解かれた1本の電報が置かれていました。
    中型機械製作省というのは開始されてから日の浅い原子力産業を扱う省のことで、カモフラージュのためこうした名称で呼ばれたものです。
    電報の内容は次のようなものでした。

    「本日16時25分、総合生産施設マヤークの地下にある核兵器用プルトニウム施設からの放射性固形廃棄物の保存庫で燃料爆発が起き、大気中に1000万から1500万キュリーの放射性物質が放出された。
    爆発の結果、保存庫の1つから160トンの重さのセメント製のパネルが吹き飛んだ。
    煙と塵が1キロメートルの高さまで柱状に舞い上がった。
    建物、設備、機械、輸送機関の損壊が半径3キロメートルの範囲で出ている。
    事故処理と施設の警備にはマヤークの職員以外にも国内用の軍部隊とソ連内務省の火災警備特別班の特別対策班が当たっている。」


    事故の結果、施設の外に出た放射性物質については、かなり後になってから明らかにされたところによりますと、当時爆発のあった貯蔵庫には2000万キュリー分の放射性物質が保管されており、そのうち1800万キュリーが工場の敷地内に降り、後の200万キュリーが空気中に舞い上がり、南西の方向に吹いていた強風に運ばれていました。
    放射性物質を含んだ雲は2万平方キロメートルの範囲を覆ったとされています。

    0602
    この電報が届けられた日、日曜の夜、スラフスキー大臣は直ちに共産党および政府の主導部に核施設で事故が発生した旨の報告を行い、その結果、事故の原因究明を極秘で行うという命令を受けました。
    その解明結果は他の省庁の指導部にも内務省の大臣にさえ断じて知られてはならなかったのです。
    当時アメリカとソ連の間の核開発競争はすでに運用の段階を迎えており、どんな情報でもそれが原子力産業と関連したものであれば、ましてはそれが核兵器の製造についてのものであれば7つの封印をして保存されるほどの機密とされていました。

    0652
    この超機密事故が将来どんな新たな悲劇な展開していくかについては研究者らが調査を行うことを執拗に求めていたにもかかわらず、当時のソ連の指導部は考えようともしませんでした。
    クシュテインの事故と結果についての資料は超機密文書として30年もの間、封印されてきました。
    そしてその封印が解かれたときには全世界はすでにチェルノブイリの事故に震撼していたのです。

    0737
    1940年代の終わり、南ウラルの北緯55度42分45秒、東経60度50分53秒の地点でソ連で初めての原子力産業施設が作られました。
    それが化学コンビナートのマヤークです。
    これはプルトニウムを製造するための生産施設でした。
    ここでは産業用原子炉で得られた濃縮ウランからプルトニウムが分けられ、それを精製し、原子爆弾用の核物質が作られていました。
    というのもソ連製の原子爆弾はアメリカのそれと同じくプルトニウムを使っていたからです。
    マヤークのそばには原子力を専門とする研究者、エンジニアたちが暮らすチェリャービンスク40という小さな街が形成されていました。
    この街は今や名前を変えてオジョルスクと呼ばれています。
    この生産は秘密裏に行われており、危険を伴うものであったので、施設のわきには軍部隊と消防署が置かれていました。
    残念なことに事故があったとき、兵士も消防士らも放射性物質から身を守るために必要な手段を持っていなかったどころか、着替えるための服も靴もない状態でした。

    0908
    さて爆発を起こした保存庫のある建物はセメントでできており、正方形で地面を掘った中に建てられていました。
    そこに300立方メートルの容積を持つステンレス製の保存庫が12個あったのです。
    保存庫のカベは流水で冷却される仕組みでした。
    原子炉の作業や放射線化学物質、化学冶金生産については厳しい監視体制が敷かれていましたが、液化した放射線化学物質を保存する倉庫に関してはそこまでは注意が行き届いてはいなかったのです。
    もちろん容器にはすべて監視測定機器が取り付けられてはいましたが、放射線化学生産の特性に配慮していなかったため、機械はすぐに腐食してしまい、使い物にならない状態になってしまっていました。

    1010
    ところがこれを修理しようにも保存庫のある場所の放射性汚染のレベルがあまりにも高いため、手が付けられない状態でした。
    それと同時に放射性廃棄物が爆発を起こしうると考えてる人は本当に少なかったのです。
    1976年、クシュテムの爆発事故の時のことが西側のプレスによって報道された時でさえ、イギリスの原子力開発プログラムを進めていたジョン・ヒル長官は公の場でこの爆発事故を取るに足りないものとして一笑に付し、記者団からのインタビューに答えて、核廃棄物が爆発を起こしえることはないと、これはあらゆる物理の法則に照らしてもあり得ないと答えたほどでした。

    1106
    ところがマヤーク生産施設の保存庫ナンバー14の容器は1957年に爆発を起こしたのです。
    原因は冷却水の不足によって化学反応が活発な硝酸アセテートセシウムとプルトニウムがあまりにも高温となったためでした。
    放射性物質を含んだ雲は強風にあおられ、まっしぐらに東に流され、非常に広範囲にわたって移動してしまい、結果的に27万人の市民の頭上を流れました。
    暖かい日曜日で、その市民の大半が屋外にいて黄色のおかしな雲と異常な霧を目撃していました。
    地方の新聞はすでに翌日、市民の不安をなだめに走り、これは非常に稀有な一種の自然現象だと報じていました。
    それから1週間後、またある場所では2週間もたった時点でやっと放射性物質のばらまかれた中心に近い居住区の住民たちの避難が開始されたのです。

    機密のこの施設を管理していた軍部隊の兵士たちは誰よりも幸運でした。
    その日曜、当直を勤めていた将校は部隊の化学班の班長でした。
    この将校は直ちに兵士たちを集め、兵舎に戻って爆発で壊れた窓をふさぐよう直ちに命令しています。
    床には放射性物質の塵が巻き上がらないように水を撒かれました。
    そしてその日の夕方、兵士たちは避難したのです。
    その後のチェルノブイリの事故でもそうだったように事故の処理には消防士たちが当たりました。

    1305
    マヤークの爆発事故で放射能に汚染されたテリトリーは東ウラル放射能汚染地という名称で呼ばれるようになりました。
    その範囲は縦におよそ300キロメートル、横に5キロから10キロメートルで放射能の汚染度は1平方キロメートルあたり100キュリーから2キュリーです。
    1キュリーは37ギガベクレルにあたります。
    1959年、ソ連政府は放射能の拡大を阻止するため、このテリトリーに衛生保護ゾーンを作り、特別態勢を敷くという決定を下しました。
    23の居住区の住民には避難が命じられ、家畜も家も畑の収穫もすべて抹殺されました。
    こうして人も建物もなくなった土地は長い間経済活動に用いられることを禁じられてきたのです。

    1409
    事故から11年経った1967年からこの土地には東ウラル国立自然保護区が出来ています。
    ところがマヤークで働いていた学術職員たちは事故後半年が経過した時点で自然保護区のテリトリーの中に学術調査実験ステーションを作っていました。
    それにこれにレニングラード放射線衛生学術調査研究所、医学アカデミー生物物理学研究所、南ウラル生物物理学研究所が加わっています。
    ただし研究者たちは調査結果を公にする権利を持っていませんでした。
    というのも研究者たちは皆、職業上の情報を公表しないという署名を行っていたからです。

    1503
    ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノチの時代の1989年になってようやく Кышты́м (クシュティム) の爆発の原因と結果に関する機密資料がソ連最高会議の大会で全面的に公開され、その後国際原子力エネルギー機関のシンポジウムでも発表されました。
    爆発事故の基礎報告を行ったのは化学コンビナートマヤークの専門家、研究者たちです。
    彼らは何年にもわたって事故の結果が環境に及ぼす影響を観察し続けてきました。
    確かに遅すぎたことではあったのですが、それでもチェルノブイリの事故の際は、その処理対策にその経験が生かされました。
    マヤークの事故の処理にあたった消防隊員たちは、その後チェルノブイリの第4エネルギーブロックでも消火活動にあたっており、マヤークの悲しい経験はちゃんとその当時隠蔽されていなければチェルノブイリのみならず、たくさんの人命をも救うことができたのにと語っています。

    1612
    もう1つ30年もの間、1957年の放射性物質の事故が封印されたことによってひき起こされた最も恐ろしい結果は、これが超機密超極秘機密であったことが原因で、爆発事故の処理にあたった軍人や民間人たちが必要な手当てを受けることができなかったということでしょう。
    なぜならば放射線による病にかかっていることを明かすことは、つまり被ばくの事実を明らすことになったからです。
    これこそソ連共産党の指導部が隠し続けようとしていたことでした。

    1656
    こんにち Кышты́м (クシュティム) の爆発事故から得られた教訓は生かされております。
    まず放射性核廃棄物ですが、今や特製の大きな保管容器に入れられ、コンクリートでしっかりと固められております。
    化学コンビナートの建設当初、工場からの放射能に汚染された水や液体状の廃棄物が垂れ流されていた川や海の水はキレイに浄化されました。
    汚染状態が回復された土地は次第にまた利用されるようになってきました。
    東ウラルの自然保護区全体では放射能汚染状態と食料品の汚染度を調べるモニタリングが常に行われています。
    ロシア国営原子力企業ロスアトムは2005年からマヤークの事故後の状況を管理する立場にあり、それによりますと以前は人の出入りを禁じられていた場所の8割が今日経済活動を行えうる土地へと回復しているそうです。
    オジョルスクには世界最大の原子炉ルスランとリュドミラがありますが、そのオジョルスクの放射能レベルは現在のモスクワやチェリャービンスクよりも低く、毎時0.08マイクロシーベルトから0.1マイクロシーベルトを上回りません。
    それにオジョルスクの平均寿命はロシア全土の平均寿命と変わりなく、男性は59歳、女性は69歳となっています。

    1836
    この Кышты́м (クシュティム) の爆発事故が教えてくれたもっとも大事な教訓とはコロジウム問題を話し合い、容易ではない問題の解決を図ろうとするとき、これを閉じられた指導部のデスクで行ってはならず、社会とともに解決を図ろうとするべきだということでしょう。
    これがこんにちあるべきアプローチであり、過去の過ちを正すための新しい道なのだと思います。

    1905
    締め

    2101

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