露日交流番組「ドゥルージバ」 12XX回目 2006年11月27日月曜日

    露日交流番組「ドゥルージバ」1248?回目 2006年11月27日月曜日

    A.お題

    1.




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/55
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    シベリア銀河ステーション 132回目 2006年11月27日月曜日

    シベリア銀河ステーション 132回目 2006年11月27日月曜日

    A.お題

    1.










    情報元:
    https://web.archive.org/web/20070223201828/http://www.geocities.jp/matsu6446/

    シベリア銀河ステーション 131回目 2006年11月25日土曜日

    シベリア銀河ステーション 131回目 2006年11月25日土曜日

    A.お題

    1.










    情報元:
    https://web.archive.org/web/20070223201828/http://www.geocities.jp/matsu6446/

    お答えします 2006年11月16日木曜日 (ロシアの考古学について)

    お答えします 2006年11月16日木曜日

    A.お題
    ロシアの考古学について
    http://japanese.ruvr.ru/2006/11/21/417729/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/archeology


    C.本文(一部省略)

    ロシアは広大な領土を有する国です。
    ですからまだまだ手が入っていない、研究のすすんでいない土地はたくさんあります。
    たとえば、行けども行けども果てしないタイガは、ほとんどが未踏の地で、まだまだ多くの謎を秘めています。
    タイガで、ときたま考古学上の大きな発見がなされることがありますが、これはほとんど偶然が幸いして私たちの目に明らかになった、というもので、タイガ全体に眠る秘密の宝庫の、ほんの一片が表にでたものにすぎません。

    その一例としてお話できるのは昨年2005年にハバーロフスク地方のタイガに大きな竜巻が発生したときのことです。
    この竜巻によって樹齢何百年にもなる樹木が地面から根こそぎ引き抜かれてしまいました。
    そしてその引き抜かれた根元の土から地元の人々は古代人が細工をほどこした大きな石の塊が地元住民によって発見され、研究者たちがいっせいに現地に駆けつけました。
    このようにタイガ一帯には、私たちの文明社会とはまったく異なる世界、文化を呼吸していたものの痕跡がいたるところにあります。発見はつぎつぎなされていきますが、それがなにであるのかを物語る資料はあまりありません。

    ところが大発見はこれだけには終わりませんでした。
    この大きな石の塊が発見された場所の近くで、研究者たちは、なんと、地下に隠された謎の都市につながる迷宮の入り口を見つけたのです。
    緩やかな傾斜となっている、この入り口は、地面にぽっかりとあいた大きなじょうごを思わせるものでした。
    このように、考古学者たちは、タイガに眠る秘密が、思わぬタイミングで発見されることを大いに期待しています。
    専門家の話では、こうした発見はエジプトのピラミッドや、シュリーマンのトロイの遺跡に負けずとも劣らない考古学的価値の高いものだそうです。
    エジプトやトロイについては、叙事詩や伝説などの書物が残っていますから、そうした文献を頼りに、どんなものであったか想像することもできますが、タイガにあった文明社会については、資料らしいものがなにもなく、まったく明らかになっていないのです。

    タイガではなく、村であった面白い発見としては、おなじくハバーロフスク地方で、こんな例があります。
    その村では、雨が降ると、地面が洗われて、地中に眠っていた古い時代のものが顔を出すのだそうです。
    ただし、そうしたものを不法に発掘し、持ち去る人がいるため、盗掘を恐れる研究者たちは、いまだに村の名前を公表していません。
    村人からの知らせを受けて駆けつけた考古学者たちは、砂地が傾斜した場所に、いままでにない、変わったビーズを見つけたそうです。
    現在、そうした発掘品については、ハバーロフスクで研究調査がなされており、粘土で作られたものの復元作業が行われています。
    このような陶器は、2500年以上前につくられたことがわかっているそうです。
    また同じ場所で、やはり2500年前のものと見られる人骨が見つかっていますが、アムール川河畔地域の、このような湿った場所では、骨は200年から300年の間にぼろぼろに溶けてしまって、跡形もなくなるのが普通なので、非常に価値の高い発掘品として評価されています。

    さて、シベリアではなく、今度はモスクワから西へ目を転じて見ましょう。
    ロシアのヨーロッパ地域の北西にあるノヴゴロドは、モスクワよりも歴史が古く、ロシア古代文化の揺籃の地として有名な場所です。
    年代記にその名が初めて登場するのは、859年という古い町、ノヴゴロドでは、もう何年にもわたって遺跡の発掘作業が行われています。
    古い地層からは金属などではなく、多くの有機物が発見され、そのおかげで昔この土地に暮らしていた人々の生活の様子がかなりわかっています。
    たとえば、白樺文書といわれる、白樺の樹皮に刻まれた手紙からは、年代記などに記されている当時の人々の姿がよみがえり、今まで、「古代ルーシの人々は読み書きができない」と考えられてきた認識がくつがえされています。
    こうした遺跡からは、生活の中で使われてきた道具がたくさん見つかりました。
    このノヴゴロドに、程近い場所で、あっと驚く発見がありました。
    今から3年前の2003年のこと、北アフリカに生息するキヌザルの頭蓋骨が見つかったのです。
    北西ロシアにとっては、あまりにも珍しい、こうした動物が12世紀のノヴゴロドに運ばれたのは、きっと当時、一番重要な交易の道「ヴァリャーグ(今のスウェーデン)からギリシャへ」つづく川のルートをとおってきたのだろうと、考古学者たちは推測しています。このキヌザルは、ノヴゴロドの公の家族たちのために、なぐさみものとして連れてこられたに違いありません。
    また、その一年後の2004年、今度は1000年前に、土地の人が食べていたギリシャくるみの殻が見つかりました。こうしたくるみはロシアでは育たない食物です。
    そして昨年2005年、今度はかわった言葉が書き付けてある3つの白樺文書が発見されました。
    こうした言葉は、「タタールの頚木」を受ける前のロシアで使われていた「ののしり言葉」です。
    これにより、今までは、「ロシア語における罵り言葉は、タタール=モンゴルの支配をうけた時代にロシア語にはいったものだ」とされていた学説が、くつがえされました。

    このように、過去半世紀の間に、950以上の白樺文書が見つかったおかげで、年代記や、教会の文献にはかかれていない庶民の暮らしについて、多くのことがわかりました。
    白樺文書にかきつけられた手紙は、いわゆる「書き言葉」ではなく、当時の人々が普段の生活のなかで使っていた言葉だったからです。
    人々の生活のようすを鮮やかに伝えてくれる白樺文書は、まだまだたくさん、ノヴゴロドの地面の中に眠っており、一説によりますと、その数は2万を越すとされています。
    学者たちは、ノヴゴロドの地層のなかで、いわゆる「文化層」といわれる、生活のようすが残されている層について、まだその全体の1・8%しか調査されていないと語っています。
    今現在、考古学が手にしているメソッドで研究を続けた場合、ノヴゴロドの発掘、調査が完了するには、あと2800年かかるのだそうです。
    ノヴゴロド近郊では今年2006年になってからも夏に大きな発見がありました。
    紀元前1世紀に使われていたとされる粘土製の器が2つ見つかったのです。
    文様が刻まれたそのうちひとつの器はどこもかけることなく、完全な形で掘り出され、学者たちの間でセンセーションを巻き起こしました。
    この容器が発見されたことでノヴゴロド付近には先史時代にすでに人間が暮らしていたことがわかったからです。

    さて、今度は東の端に目を転じましょう。
    ロシア極東の沿海地方、中央部では1878年に古代の都市のあとが発見されています。
    町の地層を研究した結果、5つの時代の地層が見つかり、そのうち3つが鉄器時代のもの、あとの2つが中世のものだとわかりました。
    この地層から発見されたものは、沿海地方、中央部において、時代がどのように移り変わっていくかを伝える、具体的な資料となるもので実に多くのことを伝えてくれる貴重な遺跡です。
    南北の長さが230メートル、東西、190メートルの広さのなかにおさまったこの町は、5角形のかたちをしており、物見の塔を配置した、2メートルの土塁の上に築かれています。
    またおもしろいことに、人工的に作られた、24段の段丘が東西に横切っています。段丘の幅は5メートルから15メートル。丘の上にむかって、大きな階段が続くように作られています。
    この町の構図は、13世紀初頭に山の上に作られた、チジュルチジェンスク城砦のものとまったく同じで、それより後の時代に建設されたものとされています。

    さいわいなことに、アムール川付近に暮らした古代人、チジュルチジェンスキイ人については、中国の古い文献に多く記載されており、この歴史資料のおかげで、考古学者たちは、チジュルチジェンスキイ人の生活の様子については、確証的な帰結をむすぶことが可能です。
    ですから、今日のこの番組では、この研究結果にもとづいて、極東地方に暮らした古代の人々について、みなさんにご紹介したいと思います。
    チジュルチジェンスキイ人たちは、はじめ、スンガリ川(松花江)とアムール川(黒竜江)の2つの河の流域に集落を形成していました。
    チジュルチジェンスキイ人は、半地下型、地上型と、2つの異なるタイプの住居をたてて暮らしていました。
    半地下型の住居は4角形の木造で、地面を数センチ分掘り下げた上に建てられています。
    暖を取るには、「カン」と呼ばれる一種の床暖房が用いられています。
    この「カン」は、極東地方に住んだ古代人が用いていた暖房で、中国の文献には、
    「部屋の周りに土を盛り、その下に火を焚いている。この盛り土の上で眠り、食事を取り、暮らしている」
    と、このように記述されています。
    チジュルチジェンスキイ人は、じつに多面的な経済を営んでいました。豚をかい、馬、牛、犬を飼育し、畑も耕していたほか、こうした畜産業、農業のほかに、狩猟生活も行っていました。狩の対象となったのは、アオシカ、ヘラジカ、ヤギ、熊、トラ、いのしし、狼にキジです。
    また、骨や陶器で作られた釣り針などが発見されており、このことから漁業も営んでいたことがわかっています。
    それだけではありません。蜂蜜を集め、金の採集をおこない、川から淡水パール、真珠をとっていました。また、鉄や非鉄金属、貴金属を加工することに関しても、わりあい高い技術を誇っていたのです。

    チジュルチジェンスキイ人は、居住していた地域のあちこちで、近隣の民と戦いを繰り広げていました。
    中国の文献には、「生死をかけて戦う」人々だと記述されていることから、その戦いの激しさがうかがえます。
    チジュルチジェンスキイ人の戦法は、主に馬に乗って戦う騎馬戦法でした。
    兵士たちは、薄い鉄の破片をうろこのように加工し、重ねた鎧(よろい)をつけ、長い剣を用いて戦いました。
    またときには、突き刺す戦法用の刀や、ナイフ、斧、槍を使うこともありました
    それでもチジュルチジェンスキイ人の用いた武器で、特に注目すべきなのは、弓矢の先のやじり部分が回転するものでしょう。
    こうした矢は一度からだに突き刺さると、引き抜くことはできないという恐ろしいものでした。
    戦いで死んだ兵士たちを、チジュルチジェンスキイ人は埋葬しました。
    こうした埋葬場所は、古墳型のものと、地面を掘って埋めるタイプとふたつに分類されています。
    そうした埋葬場所のひとつで、考古学者たちは青銅の重い鋳物に金箔の貼られた、立ち姿の仏像を発見されました。
    このことから、チジュルチジェンスキイ人は仏教と出会っていたことがわかっています。
    また仏教のほかにも、チジュルチジェンスキイ人の間では自然を信仰の対象として崇拝するシャーマニズムも盛んだったです。それは、動物を表現したものや、動物が人格化された飾りなどが発見されていることからわかっています。

    チジュルチジェンスキイ人は11世紀から国家を形成し始めました。
    まさにこの時期から、大きな領土を占め、多民族国家として有名になった「金」国が勃興を開始しています。
    この金国は、1234年にモンゴル軍によって倒されています。
    この金のあとの、中世の時代については、アムール川沿岸地方の歴史は、明らかにされていません。
    この時期だけが空白状態なのは、この地域一帯に暮らした民族たちが姿を消したり、凋落の時代を迎えたからとされています。
    12世紀まで、アムール川沿岸地域一帯にあんなに封建軍事大国として名声を誇った、あのチジュルチジェンスキイ人の国家でさえ、まったく跡形もなく滅亡してしまいました。
    いったい何が起きたのでしょうか? 
    大きな自然災害があったのでしょうか? 
    この問いに対する答えはまだ解明されていません。

    このようにロシアの広大な大地は全体に大きな謎を秘めたままです。
    そして時に大掛かりな建設工事が行われたときだけ、隠されたなぞの一部が地中からひょっこり顔を現すことがあるのです。
    たとえば1987年夏、南ウラルのアルカイムで大きな貯水池を作るため、大きく土地を削った時がそうでした。
    このときも、考古学者たちは、いつものように、建設工事が開始されるまでに短い時間のなかで、大急ぎで遺跡の調査を行っていました。
    こうした建設が行われれば、遺跡は二度と再び日の目を見ることはないため、後世の人々に資料を残すため、最初で最後の発掘チャンスを逃さないよう、学者たちは精力的に調査を行っていたのです。
    その遺跡のなかに、変わった土塁が見つかり、研究者たちの注目を集めていました。
    土塁は珍しいタイプの集落を囲んでおり、こうした土塁がステップ地帯で見つかった例はいまだなかったのです。
    話題を呼んでいたのは、直径150メートルになる円形の土塁で、そのなかには、半地下型の何十もの住居跡があり、それぞれには囲炉裏や鉄製の炉がきってあり、地下室、井戸がありました。
    そして調査のなかで、この集落跡自体が紀元前17世紀から16世紀のものであることがわかったのです。
    それからいくらもたたないうちに、考古学者たちは、チェリャービンスク州、オレンブルグ州、そしてバシコルトスタンや北カフカスでも、同じように円形または四角形のかたちをした集落を20以上見つけました。
    こうしたすべてが、紀元前18世紀から16世紀に形成されたもので、現在、これらは「都市国家」と呼ばれています。

    こうした驚くべき発見がなされたために、アルカイムでは貯水池の建設工事が中止されることになりました。
    現在この場所は、史跡・景観自然保護区博物館に指定され、気候や環境の変化の歴史を研究したり、何万年もの間に南ウラルに住む人々の経済活動がどのように変わっていったかを学ぶ学術センターになっています。
    この地域に住む人々に主な経済活動は、放牧による畜産と農業です。
    また、発掘物によって、鉄や金属の加工についても、大変高度な技術を要していたことがわかりました。
    このほか、陶器でもおもしろい発見があり、表面には現在のピクトグラムのように、象形文字のはじまりが見つかっています。
    アルカイムは祈りの場であり、城砦でもあり、また工芸の中心でありながら、集落でもありました。
    またこのほかにも、場所全体が、星や惑星など、天体の動きをはかる、ひとつの大きな観測装置とみなすこともできます。
    アルカイムはストーンヘンジに似た、古代の天文台のひとつに数えられる存在なのです。

    さて、こんにち、建設ラッシュに沸くモスクワでも、考古学上の発見は、ほぼ毎日のように行われています。
    今のモスクワで建物を建てる場合、比較的時代の若い、18世紀、19世紀、20世紀に建てられた建築物を壊したり、建て直したりして、新たな建物を建てるわけですが、そうした若い建築物を取り除いたあとに、それよりずっと前の時代の、建物の跡が顔を出してくるのです。
    地面に眠るそういった古い建物を建て直すことはできませんが、それでも単に埋めなおすには、あまりに価値の高いものが発見されることはよくあります。
    というより、正確に言えば、モスクワの中心部は、たいていどこを掘っても、考古学上の大きなセンセーションを呼ぶほどの大発見があるといえるでしょう。
    たとえば、私たちの放送局の真向かいにある、オフチーニコフスキイ横丁からは、ロマノフ王朝、最初のツァーリ、ミハイル帝の時代、つまり17世紀初頭の銀貨が、なんと9700枚も発見され、大きな話題を呼びました。
    また放送局のある、このピャートニツカヤ通りでは今度は金貨が見つかっています。
    それと、リスナーの多くの方々が、現在ボリショイ劇場で修復工事が行われているのをご存知でしょうが、その工事の過程で地面を掘ったとき、18世紀のものと見られる、非常に凝った彫刻をほどこした、チェスの大様の駒がでてきています。

    ロシアでは、まさにその18世紀のはじめに、考古学がひとつの学問として誕生しています。
    当時、西シベリアのイルトゥィシ川沿岸や、カザフスタンのルードヌィ、モンゴルとの国境のアルタイでは、古い時代の古墳の発掘がすすんでおり、その埋蔵品をみて大いに感激したピョートル1世は、ロシアで初めての博物館となる、発掘物の保管・陳列庫を創設しようと決めました。
    そうした上で、ピョートル大帝は、遺跡から発見された古代の発掘物を収集し、シベリアに学術調査団を派遣する勅令を出したのです。このシベリア探検における、課題のひとつは、「珍しいお宝」を集め、その研究を行うことにありました。
    その後、19世紀半ばから20世紀の1930年代までは、考古学団体が誕生し、さまざまな地方博物館が開設され、学術文献が発行されてゆきます。
    黄金の環で知られる古い町の、ウラジーミルからスーズダリにかけての土地では、初めて大掛かりな発掘調査が行われ、あわせて7729箇所もの古墳が発見されました。
    ここからは旧石器時代、新石器時代、青銅器時代のものが多く見つかっています。

    そして、こんにちのロシアの考古学では、新たなメソッド上の問題が生じるとともに、自然科学のメソッドを応用して、実験的考古学が誕生しています。
    また歴史研究の方法論も徐々に変わりつつあって、これが考古学の分野にも影響を与えています。
    考古学というのは、他の、じつにさまざまな学問と密接なかかわりをもつ科学です。人類学、民族学、古生物学、言語学、地質学、物理、化学、植物学、動物学、土壌学などと交差し、広い分野を網羅するため、それぞれの変化や発達がお互いに影響しあうのです。

    その一方、考古学を学問として打ち立てたピョートル大帝の時代、つまり18世紀初頭に存在していた問題は、皮肉なことに、今もなお健在です。
    それは「盗掘」の問題です。
    法律では盗掘を行った者には55万ルーブルの罰金が科せられるか、2年の禁固刑に処せられると定めてあるのですが、この罰則にもかかわらず、盗掘行為も跡を絶ちませんし、古物商、骨董品店もいくら罰せられても、古い時代の盗品と疑わしいものを受け付けています。
    というのも、考古学上にいくら大きな価値があっても、こうして違法に墓を暴き、盗品を売り買いするのは、非常に「おいしい」ビジネスだからです。
    20世紀は、盗掘行為が行われたのは、南ロシアやウクライナ地方に限定されていました。
    古いお金、スキタイ人の美しい装飾品、騎馬民族の甲冑など、古物商のブラックマーケットでは高い値がついたものです。
    たとえば、スキタイ人の女性が身に着けた、金の下げ飾りなどは、1万ドルもの値がついて、売り買いされていました。
    こうしたブラックマーケットの存在は、残念ながら今も健在です。

    さて番組のしめくくりとして最後に考古学上の発見の最高峰に位置するといえる、シベリアのマルタ遺跡についてお話したいと思います。
    マルタ遺跡はイルクーツクから西に85キロメートルの場所に位置しています。
    ベーラヤ川が流れる川岸の、小高い段丘の上にあり、1928年に発見されました。
    遺跡は、約2万3000年前の集落で、半地下型、地上型、またパオのような略式型など、さまざまな住居からなりたっています。
    そしてこうした住居の骨組みとして主に使われていたのが、マルタの住人たちが狩でしとめたマンモスの骨や、サイの頭蓋骨、トナカイの角でした。
    この遺跡で、考古学者たちは石器の武器や、骨から作られた道具、装飾品を見つけたほか、おびただしい数の女性の像、鴨やアヒル、白鳥、サイ、マンモス、へびなどの動物などをかたどった、一種の芸術品を発見しています。
    そんななかでも、ユニークなのは、フードのついた、毛皮のつなぎズボンのようなものをはいた女性の像でしょう。
    また、死んだ小さな子どもを埋葬した場所からは、たくさんの副葬品が発見されました。
    また古生物学的に価値のある、石や骨などから作られた道具のほかに、サイ、マンモス、トナカイ、絶滅した野生の牛、ズーブル、そして氷河期以前にこの土地に生息していた動物たちの骨が見つかっています。
    このマルタ遺跡の発掘は今も続けられています。
    マルタは何層にもなる幅広い時代の層を内包した遺跡です。
    ですから考古学者たちはさらなる発見を期待して、熱い視線を注ぎ、発掘を見守っています。
    このように、発掘が行われるたびに、今まで分からなかった時代のことが明るみにでます。これにより従来の解釈が覆されることもしばしばあります。
    ですから、このテーマに関しては、お話してもつきることがありません。
    まだまだ発掘がすすんでいない場所は多く、世間を揺るがすような発見はこれから先も出てくるに違いないからです。
    そうした発掘がなされたときには、またこの番組の続きとして、みなさまにご紹介いたしましょう。

    お答えします 2006年11月9日木曜日 (ロシアにおける数学の教育について)

    お答えします 2006年11月9日木曜日

    A.お題
    ロシアにおける数学の教育について
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/mathematics
    編集改造22分53秒

    翻訳アナウンス:真野・菅
    メロディ:1-2

    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/42



    お答えします 2006年11月2日木曜日 (ロシアの年金生活者の生活について)

    お答えします 2006年11月2日木曜日

    A.お題
    ロシアの年金生活者の生活について
    http://japanese.ruvr.ru/2006/11/21/417717/

    翻訳アナウンス:
    菅・真野

    C.本文(一部省略)

    人口の老齢化は世界の多くの国々で今逼迫した問題となっており、ロシアもまた例外ではありません。
    老齢化の問題と少子化問題はここにおいても顕著に現れています。
    人口の5分の1が60歳以上のお年寄りです。
    そして予測では10年後の2016年までにはこの年金生活者の数はますます増加し、国民の4分の1をしめるといわれています。
    最新の統計によりますとロシアの勤労人口は6676万9000人で、そのうち年金生活者の数は、年金基金の数えでは3831万1000人であり、さらにそのうちの2120万人が年金受給年齢に達して年金生活に入った人たちです。

    (ロシアの年金は老齢年金だけではありません。
    このほかにバレリーナ、宇宙飛行士など、職業に居っては早い時期から年金の受給が開始される人々がいます。)


    つまり勤労年齢の国民2人が1人の年金生活者の面倒をみていることになります。
    それでもこの比率はいい方向に向かいつつあります。

    ロシアでの年金の受給開始年齢は世界でももっとも早い部類に数えられます。
    女性で55歳から、男性は60歳から年金を受け取ることができるのです。
    ソ連時代は年金受給年齢に達した人のほぼ大半が仕事をやめずに現役で働きつづけていました。
    たとえば共産党の政府指導者たちは平均年齢が80歳で、実際のところ50歳からようやく指導者としてのキャリアを開始するというのが普通だったのです。

    今は時代がかわりました。
    それでも年金受給者の10人に7人が年金生活に突入すると、それを「まわりの状況からしかたなく年金生活を開始せざるをえなくなった」と語り、本心ではもっと働きたいと考えています。
    そして現在ロシアでは700万人以上の年金者が年金を受け取りながら、なお働きつづけています。

    ロシアでは年金受給年齢を引き上げることについて、ロシアでは議論が行われていますが、それでもこの引き上げが近い将来行われるとは思えません。
    矛盾しているようですが年金生活者のほとんどが受給開始後も働き続けることを望んでいる一方、受給開始年齢を引き上げることに関しては国民全体の賛同を得るには程遠い状態だからです。
    ですから年金基金のゲンナージイ・バターノフ管理局長は「最初のうちは柔軟な方法をとらざるを得ないだろう」と述べ、「例外的に受給開始を遅くした人はそのぶん年金額をかなり上乗せして受け取ることができる」というヴァリアントを示しています。
    こうなると年金開始年齢を遅くすればするほどより多くの額を受け取ることができるようになるわけです。
    同時にバターノフ局長は遅かれ早かれロシアが受給年齢を引き上げざるを得なくなることは目に見えており、これは年金基金が資金を増やしたいと願っているだけでなく、時代の要請なのだと説明しています。
    バターノフ局長はまたロシアでは年金生活者の数が勤労者の人口を上回っている地域がすでに存在していることを指摘しています。

    「俺はようやく人生をはじめるってところなんだ。
    なんてったって年金生活に入るんだからな」


    これはロシアで人気のアニメの主人公、郵便局員ペーチキンのせりふです。
    しかしながらいままでたくさん働いてきたペーチキンがその働いたぶんだけ趣味を謳歌する生活ができたかというとそうはいかないのが現実なのですが。
    1995年ロシア連邦社会保険省ははじめてロシアの老齢者グループの生活状況について大規模な分析調査を行いました。
    アンケート調査の結果、老齢者が一番不安に思っていることは健康問題で、その次には十分な補償を受け取れないこと、そして3番目は孤独の問題だという回答がよせられました。

    老齢者にとって健康問題は確かに一番深刻な問題です。
    ロシア人年金者の3分の2が自分の健康状態を「あまりよくない」または「よくない」と感じています。
    また3種類から4種類の持病を抱えている人は年金生活者のほぼ70%で、それ以上に多い5種類以上の持病を抱える人もいます。
    お年寄りの場合、医療費は国民医療保険でまかなわれるのが普通で、つまり無償で医療が受けられます。
    お金にもっと余裕のある人は有料の医療施設を利用します。
    年金生活者も一般の市民が利用するのと同じように、普通の医療・予防医療機関の設備を利用することができますし、それ以外にもお年寄りを専門とした特別施設もあります。
    またこうしたお年寄りのうち、150万人以上が身体障害者、または大祖国戦争の参戦者です。
    こうした人々は国家から特別の保護をうけており、医療・予防医療機関では無償で順番を待たずに特別枠での医療を受ける権利を有します。

    さらに付け加えることができるのは過去数年は国のお年よりに対する社会サービスが向上したということです。
    これは大きな成果です。
    たとえば老人ホームはソ連時代から存在していました。
    というのも自分で身の回りの世話ができなくなった年寄りは親戚や知人たちが手助けしなければ家で生活することができないからです。
    現在はこうした老人たちは社会サービス、生活面でのサービスを在宅で受け取ることができるようになりました。
    こういったサービスでは食料品や薬の買い物をしたり、また家を掃除して、料理をしたりする人が普通週に2回お年寄りの自宅を訪問します。
    もしお年寄りが病気にかかった場合は、その症状に応じて必要なら毎日看護婦が訪問し、医療サービスを行います。
    ほかにもお年寄りが利用できる特別の食堂、美容室もあり、住宅の賃貸費を安くしてもらえたり、割引で切符が購入できるなどの恩典があるほか、食料品や衣服を配給してもらうこともできます。
    またコンサートの切符の購入から日々の食料にいたるまでこうしたさまざまなことをたずねることのできるお年寄りのための相談室があちこちにもうけられているのです。

    こういった在宅サービスの目的はひとりひとりが今まで慣れ親しんできた環境に身をおきながら、自立して自分の力で生活を行うための条件をつくることにあります。
    西側諸国では「お年寄りのために、特別に設けられた」施設というものに対し、どんなに条件をととのえたところで社会からその人を遠ざけてしまうものだという考えが一般的です。
    こういった場所に入れられることで、お年よりの権利や自由は制限されてしまい、社会自体からもその発展のチャンスをうばってしまうのです。
    ですからどんなにすばらしい「老人ホーム」をつくったところで、それは社会からの隔離であるという事実はいなめません。
    ところがロシアではこういった西側とはまたちがうふうに考え、自分からアパートの権利を国に返してしまい、そのかわりホームでの社会保護をうけることを選ぶひとが少なくないのです。
    そういうひとたちは「すべて用意がととのっている場所で完全なサービスを受けられる」ほうがいいと考えています。

    さて生活の余裕度からみますと年金生活者は昔からいつの時代も「貧しい層」に属しています。
    ソ連時代は自分のはたらいていた、もと会社や企業の社会保護基金がかなり大きな支援をしてくれていたため、物が不足しているという感覚に、そんなに身につまされることはありませんでした。
    ところがいまは年金生活者はほぼ年金以外に頼るみちはありません。
    これが唯一の収入源なのです。
    今年2006年老齢年金の一月あたりの平均額は2967ルーブルです。
    現在1ドルが26ルーブル70コペイカくらいですから、これはドルに換算すると111ドルくらいになり、円ですと1万2700円くらいになります。
    この2967ルーブルという額は平均給与の37%にあたります。
    一年のうち数回こうした年金額はインフレ上昇率を考慮して引き上げられます。
    さきほどの年金基金のバターロフ局長はつい先日、来年2007年度の年金額は年間を通じてこうしたインフレ上昇率が考慮された結果、平均で460ルーブル上昇することを明らかにしています。
    年金生活者のほとんどは年金以外の副収入がありません。
    ほんのわずかなパーセンテージの年金者はなんらかの配当金をうけとっていたり、アパートや車などを貸し、そこから収入を得ています。
    年金生活者は口をそろえ「この程度の年金では、生活の最低必需品である、食料品、アパート代、公共料金、薬の費用、服や靴を買うためにようやく足りるくらいだ」といいます。
    しかも本や新聞、雑誌などは全員に買える余裕があるわけではありません。
    そのうえ映画館や劇場にかよったり、保養地で休み、観光を楽しんだり、最新の家電を購入するなど、こうしたことに手が届く人は、もっとずっと少なくなります。
    こういうふうにいいますと年金者は何も買わないのか、文化施設とは縁遠い生活なのか、と思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。
    実際は生活必需品を購入する以外、そのほかの出費を行う場合はいまの年金生活者の大半はやりくりに非常に頭を悩ませるということなのです。
    こうした一方で年金者の10%は自分の年金は子どもや孫たちにとって物質的な手助けになっていると考えています。

    老人特有に特有の「孤独」の問題は男女の平均寿命の差にその多くの原因があります。
    ロシア人の男性の平均寿命は58歳から59歳と短く、女性の平均寿命と比べた場合、男の人は女の人より14年から15年早くこの世を去ります。
    このため、年を取った女性の大半が夫に先立たれてひとりで暮らす年月が長くなるのです。
    年取った人は伴侶を亡くしたとたん、病にかかり急速に老け込み始めることが多いのですが、それは自分が必要とされているという感覚がなくなるからなのです。
    その反対に何かに熱中していつも忙しくしてるお年よりは自分の生活を自分で支えているだけではなく、それで孫に何かを買ってやることもでき、他の働いていない何もしていないお年寄りより健康の不安を訴えることも少なく老け込んでいません。
    またロシアには「年取った人が余暇や趣味を楽しむという習慣がない」というのも働かない年寄りの「孤独感」を強めていると思います。
    人とのつながりはほとんど仕事の上に限られているので、仕事をやめ年金生活に入りたくないという人が多いのです。
    収入を確保しておきたいという願いよりも社会的な地位を保っていたいというほうが強いといえるでしょう。

    1990年代の終わり、ロシアの企業が出す雇用広告では年齢制限の欄に「25歳から30歳まで」と書かれていることが多く、これはほとんど差別的な感覚さえ与えたものです。
    しばらくして年齢枠が広げられるようになり、今は「45歳から50歳まで」というものもわりあい見られるようになりました。
    マーケティングや広告業、またコンピューターなどの技術にかかわる職種なら若い人を要求するのもわかります。
    こういった職種はロシアに生まれてまだ10年、15年の若い産業分野に属しますから、ここではいわゆる「ベテラン」はまだ存在しないからです。
    その一方で「大人の仕事」といいますか、人を相手にする分野では人生経験が必要とされるので若い人にはむきません。
    これはたとえば人事に関する仕事やレベルはさまざまですが上に立って人を率いる役目の場合です。
    それとは別に、年齢が上のほうが職につきやすいという職種もあります。
    たとえば生産業の場合、若い人のほうがスピードは早いのですが、結果からすると速さはあまり関係ないのです。
    頭脳ワークでは、年齢が上の人のほうがスピードの面では若い人には劣るものの、仕事に対する正確さ、細かさ、また「帰結の根拠づけ」を行うときなど、年齢の上の人のほうがはるかに勝っています。
    特に学者や医者などの知識労働者がそうです。

    それでは仕事をしていない年金者たちはなにをしているのでしょうか? 
    そうした老人たちは、テレビを見たり、ラジオを聴いていることが多く、また家の中のこまごまとした仕事をし、もし別荘、ダーチャがあれば、その庭で熱心に土いじりをしています。
    それからおばあさんたちは孫の面倒を見ることにかなりの時間をさいており、しつけに熱心です。
    本や雑誌を読むという習慣がある老人はそんなに多くありません。
    それより新聞を読むほうが多いでしょう。
    ロシアには「読書好きの老人の利益を保護しよう」という政党まであるのですが、これはあまり大きな支持を得ていません。
    ですから現在はやはりあまり支持を得ていない他の小さな政党との合併しています。

    それからお年よりは他の人よりも足繁く教会に通っています。
    それもおばあさんのほうが圧倒的に多いです。
    人は年をとるにしたがって社会とかかわることが少なくなってきます。
    友達とあう回数が減る、遊びに行くことが少なくなる、電話をかけあったり、旅に出ることも稀になる… 芝居や映画にかよう人は、ほんの少数です。
    それより病院で過ごす時間のほうが長いというひとがかなりの数いますが、これも必ずしも本当に病気で必要があって通っているということではありません。
    この現象は今に始まったことではなく百年前も同じだったようです。
    たとえばそれを物語るひとつとしてチェーホフの有名なお話「男たち」のなかのこんなくだりをご紹介しましょう。

    「ばあさんは医者に診てもらうのが好きで病院に足しげくかよっていた。
    しかも医者のまえでは自分は70ではなく58だといっていた。
    ばあさんいわく、本当の歳をいえば医者は『治療なんか必要ない。そろそろお迎えがくるんだから』というに決まっているというのだ」

    そうはいっても自分の趣味を持っている老人もいますし散歩好きな年寄りもいます。
    村に暮らす老人は生活の大半の時間を自然の中ですごしますし、これが大都市に暮らす年寄りとなると、もちろん村とは生活の様子もちがいます。
    家の中の仕事をこなすだけでなくテレビをみたり体をやすめ昼寝をしたりしています。
    時間のすごし方としてはつけっぱなしのテレビにむかって話しかけ相槌を打ったりすることが一番多いでしょう。
    本や新聞を読んだり音楽をきいたりもしますが、映画や芝居をみたりお店をまわったりできるのは回数は少ないとはいえ、やはり都市に住んでいるからこそ、得られるチャンスだといえます。

    ちょうどこのご質問を石川さんからいただいたとき、9月ヴォルガ沿岸の町サマーラに老人のための大学がオープンしたというニュースがとびこんできました。
    この大学の学長をつとめることになったヴァレンチン・カドチキン氏は老人大学創設について次のように語っています。

    「こういう大学を作ろうというアイデアを私たちは長いこと暖めてきました。
    というのもこうした施設は西側の国ではすでに当たり前のことだからです。
    3月に聴講生の受付を開始しましたら多くの応募がありました。
    この方たちには将来必ずや大学で得た知識を生かす場が現れると思います。
    とくにこれによって面白い仕事に出会うチャンスを得られるのではないでしょうか」


    この大学の学長をつとめることになったヴァレンチン・カドチキン氏は老人大学創設についてこのように語っています。
    現在この大学には55歳から80歳まで250人の聴講生が通っています。
    カドチキン学長は年齢が高いにもかかわらず、この生徒さんたちは勉強熱心で活発に交流し学んだことを自分のものにしようと励んでいると語っています。
    この老人大学ですが、なんと学費はただで一番人気の科目はコンピューターだそうです。
    というのも昨今はどんな資格の仕事だろうと就職するためにはコンピューターの知識は必須だからです。
    これは企業ではなく公共社会機関の場合でも事情は同じです。
    ヴォルガ河畔はこのごろだんだんと観光が盛んになってきて、実際地元のことや郷土史をよく知った専門家のニーズがますます高まっています。
    歳をとった人は精神的にもたやすく古いこと昔のことに、つまり歴史により興味をもってとりくむことができます。
    こうして歴史の知識を身につけたうえで、働く意思があれば、観光客を相手に、見学コースを案内することもできるのです。

    もちろんここまでお話してきたのはお年寄り年金生活者の生活といってもその平均的な像でしかありません。
    実際はひとりひとりのお年寄りの生活はさまざまで、もっと自立したものであることがおおいのです。
    かくしゃくとして活発に活動し、子どもや孫に囲まれ幸せに暮らしている人も、たくさんいます。

    そうした人のひとりとして風刺画家のボリス・エフィーモフさんをご紹介しましょう。
    エフィーモフさんは政治をねたにした風刺画をかく画家として有名です。
    当年106歳というエフィーモフさんは創造力にみなぎり、アクティブに活動を展開されている日常について次のように語っています
    (声)。

    「朝目覚めると、まず、神に感謝します。
    『神さま、わたしも、まだ体を動かしてなにかがやれて、しあわせです。
    ありがとうございます』ってね。
    まだまだやりたいことがあるんですよ。
    たくさん絵を描いて印刷してそれに見たいものもたくさんあるじゃないですか」


    風刺画家のエフィーモフさんは今度モスクワにオープンする風刺博物館についてのインタビューでこのようにかたっています。
    それでもこんなエフィーモフさんのような元気とエネルギーにあふれている人がいる一方で、病気が重く孤独に悩まされているひとがいることもまた事実なのですが。

    さてこのごろは歳、年齢に対する考えかたもすこしずつかわりつつあります。
    特に女性に多いのですが「なぜ老齢年金というのかしら、私はたった55歳でもう年寄りなわけ?」という声もきかれます。
    こういった声を反映して年金の法律上の名称もかわりました。
    今は老齢年金ではなく直訳しますと「年齢別の年金」という名称になっています。

    それとお年寄りの中には行動や服装などの概観にある一定のシンボリズムがみとめられる人びとがいます。
    「わたしという人間はあなたが見ている通り、その姿のままがわたしなのよ」というタイプのひとたち。
    こういう人々は若者向けの服を着て流行の髪型をためし、話し言葉も行動も型に縛られず自嘲的です。
    彼らはいわゆる「老人はこうあるべき」という行動パターンを無視しているのです。
    そうしたお年寄りで大都市に住む人のなかには若いころビートルズを聞いていたとか、ジャズが流行ったころ、またヒッピーがモードだったころに青春時代を送ったという人が少なくありません。

    このほかのもっと一般的なというか「古典的な」というか、ふつうのお年寄りもご紹介しましょう。
    堂々とした印象で、服装は厳格、会話はゆったりと落ち着いていて何にかにつけてまわりをしつけようとする。
    このようなスタイルは自尊心を強調し、社会のヒエラルキーのなかで自分の位置を確固とするものです。
    「私たちはあなた方となんら変わることはありません。年齢は関係ないのよ」という考えの表れでしょう。
    ところがこの古典的老人とも自由形老人とも違う第3のタイプの老人というのもいるのです。
    第3の老人とは古い着古した服を着て自分の概観をほとんど気にしていません。
    しゃべる声は小さく、もごもごとして聞き取りにくく、みすぼらしい感じなのです。
    この手の老人は年寄りというステレオタイプを地でいく、社会的イメージを具現化する存在といえましょう。
    こういう老人も広いロシアの大地には少なくありません。
    そんな人のほとんどが村や小さな地方都市に住んでいます。

    こんなふうに3つの老人のタイプをご説明してきましたが、このようなタイプは、どんな社会層にもそれぞれいます。
    またこんにちのロシアのお年寄りたちがいんなふうな概観を装っていても、みんな自分のためにはそう多くを望まず、少しのことで満足することになれているのです。
    歳をとったロシア人はわがままに多くを求めたりしません。
    みんな貧乏や困窮になれ戦中戦後もそうでしたが、人生の多くの苦労を乗り越えてきているため、いまのロシアの変化のなかにあって、社会的に弱い不公平な立場にたっていることに辛抱強いのです。

    最後に石川さんがお尋ねになっている「老人がよく聞いている歌」についてお答えしましょう。
    実はモスクワなど都市の公園のなかにはお年寄りがダンスをするために特別に設けられた場所というのがあるのです。
    このダンス場はただ使われているだけではありません。
    信じがたいくらいすごい人気なのです。
    そんなダンス場でよく流れる音楽、歌はまさに老人たちが好んで聞くものです。
    もちろん若者の聞くハードロックなどではありません。
    ロシア民謡に始まり1950年代、60年代、70年代に流行った叙情的なメロディーです。
    でも、こうした歌は別にお年寄りだけが歌っているわけではなく、年齢のいかんをとわず、多くの人が口ずさむ歌なのです。
    それではそんななかの一曲「スタールイ・ワルツ(古いワルツ)」を番組のしめくくりとしてお聞きいただきましょう。



    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/42
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