お便りスパシーバ 2007年3月24日土曜日

    お便りスパシーバ 2007年3月24日土曜日

    担当:


    A.トーク
    4月12日に奥野アナウンサーが退社・日本帰国されることが告知



    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/97
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    お答えします 2007年3月XX日木曜日 (ボリショイ劇場)

    お答えします 2007年3月XX日木曜日
    08・15・22・29

    A.テーマ
    ボリショイ劇場
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/bolshoi
    編集改造25分39秒

    翻訳アナウンス:菅・真野
    メロディ=1-1

    再放送日時
    2010年6月17日21時台


    C.本文

    2442
    前置

    2713
    国立アカデミーボリショイ劇場、略してボリショイ劇場はオペラ・バレエの劇場としてロシアで最大なのは言うまでもなく、世界でも有数の劇場です。
    モスクワの中心にあるボリショイ劇場は1年半前から大規模な改装工事が入っており、催しは現在新館で上映されています。
    改装工事は進んでいますが、その終わりはなかなか見えません。
    とはいえ施工側は予定通り来年2008年の秋の完成をはっきりと明言しております。

    2755
    ボリショイ劇場というのはロシア語で大劇場という意味です。
    この劇場の歴史は複雑で、また壮大と言えるでしょう。
    これほどまでにありとあらゆる災難に見舞われた劇場は他に見られません。
    劇場の建物は燃えては再建され建て直され、また人が抱える劇団も統合と分裂を経験しました。

    さらに複雑なことに、このボリショイ劇場、誕生日が2つ存在するのです。
    1つ目の誕生日は今から約230年前の1776年3月です。
    ピョートル・ウルソフ公は当時の皇帝エカテリーナ2世からモスクワでのロシアの舞台芸術振興を目的とした10年間の特権を与えられ、舞台芸術のための常設の劇場建設に自ら乗り出していくことになります。
    一方その中身のほうの興業に関してはイギリス人のメドックスが受け持つことになりました。
    専用の劇場が完成しないうちからズナメンカにあるボロンゾフ公にある貴族の館では芝居が上演されることになります。
    ここではじまった公演がロシアのオペラ・バレエの第一歩となったのです。

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    しかしその後ズナメンカの劇場は火災に遭い、ウルソフ公は悲しみから病に付しほとんど身を滅ぼしたところで1776年にエカテリーナ2世から受けた特権を興行師のメドックスにまるまる明け渡すことになります。
    メドックスの熱意によりペトロフカ通りの一角、ネグリンカ川が氾濫し荒地となっていた場所にペトロフカ劇場が現れます。
    とはいえ、できて間もない劇場にはまだ大規模なものではなく、その内訳は俳優男優が13名、女優が9名、踊り手が3名、演奏家が13名というものでした。
    彼らはドラマを演じ踊り、そしてオペラに出演しました。
    というのも当時は役割分担もあいまいだったからです。

    3013
    ではこのペトロフカ劇場ではどのようなものが演じられていたのでしょうか?
    1782年から1805年までの20年余りで演じられていたのはオペラが108回、喜劇が148回、バレエが121回、そしてドラマ・メロドラマ・悲劇が合計で75回でした。
    一晩で上演されるのは長編・短編1つずつで大抵はワンシーズン1回演じられるか、もし複数演じられるとしても数回だけのことでした。
    これは当時の客層が限られたものであったことを物語っています。
    つまり常連ばかりの状況ではワンシーズンに何回も同じ演目を上演するわけにはいかなかったのです。

    3104
    劇場のシーズンは9月にはじまり5月の末に終わりましたから、この点では現在もその伝統を引き継がれているといえましょう。
    しかし上演は現在と違って週2回のみ、真冬に近郊の貴族がモスクワに集まってくる季節になってようやく上演回数が増えるという状況でした。
    また訪れる観客は仮装した2人組でした。
    円形の観客席は鏡張りで芝居以外にも当時はやった仮面舞踏会の場としても使用されていたのです。

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    しかしペトロフカ劇場もズナメンカ劇場と同じ運命をたどることになりました。
    創立から約25年を迎えた1805年、劇場は火事に見舞われ、石の壁を残してすべては灰と化してしまいました。
    その後場所を移して修復されるも、それから間もない1812年、ヨーロッパを市中におさめたナポレオンがモスクワを襲撃し、街を焼き払った際の最初の犠牲となり、劇場はまた破壊されてしまいました。
    団員たちはまた職場を失い、時の政府も劇場の再建に追われることになります。

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    次なる劇場再建事業を率いたのは建築家のオシップ・ボベでした。
    場所を現在ボリショイ劇場のある劇場広場へと移し、ボリショイ・ペトロフカ劇場として完成した劇場のこけら落としが行われたのが1825年1月、上演前に観客は建設を指揮したボベを舞台に上げ、その功労を盛大な拍手でたたえました。
    ペトロフカ通りに現れた8本の円柱をもつ劇場、玄関口をギリシャの太陽神アポロンの馬車が見下ろすこのボリショイ劇場、ボリショイペトロフカ劇場の創立の日というのが現在のボリショイ劇場の2つめの誕生日です。
    ちなみにこのアポロンの馬車の像を制作したのはロシア人彫刻家ピュートル・クロットでクロットはこのほかにもペテルブルグでホンタンカ川にかかるアニチコフの橋に有名な馬車の彫刻を残しています。

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    今申し上げたような正面玄関の様式は現在に至るまで残されており、いわゆる箱に関しては25年が現在のボリショイ劇場の誕生日だといえるでしょう。
    しかし厳密に言えば、ウルソフ公が厳命を受けた1776年が誕生の年ともいえるわけです。
    ですから当然1976年には200周年が祝われ、昨年2006年には230周年が祝われました。
    そして今年は5月まで230年目のシーズンが続いて、秋以降は231年目のシーズンを迎えることになります。
    以上がボリショイ劇場創立を巡るお話です。

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    続いて建物を現在の位置に移して現在の形になって以降のレパートリーにつおてどうかといえば、ナポレオン戦争後に起こった愛国的な風潮からオペラでも芝居でも主に国内作品が多く上映されています。
    その後オペラとバレエが主流になり、ドラマ作品はかからなくなりました。
    また戯曲もモーツアルト・ドニゼッティ・ロッシーニ・マイアーベア・ベルディ・ベリーニなど外国作品で占められるようになります。
    しかしこれは必ずしも西側の音楽が国内勢の地位を危うくしたわけではなく、ロシアの作品もバランスよくかけられています。

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    創立後19世紀前半でとりわけ大きな出来事はミハイル・グリンカが発表した2つのオペラ作品の上映でした。
    1つ目は現在イヴァン・スサーニンとして知られている作品、「皇帝にささげた命」で1842年9月に初演されました。
    さらにその4年後、1846年同じグリンカ作品として初演されたのは「ルスランとリュドミラ」です。
    こちらは今も「ルスランとリュドミラ」という名前で上演されています。
    この2つの作品の登場はボリショイ劇場の歴史の中でもロシア音楽が多く用いられた時期の幕開けとして大きな意味を持つ者と言われています。
    しかし観客ウケもよく、評価からも良い評判が得られたにも関わらず、2作品は間もなくレパートリーから外されてしまいます。
    これについてはまた後ほどお話しいたします。

    3605
    ボリショイに再び火の手が迫ったのはそれからしばらく経った1853年の3月の寒い朝でした。
    原因は不明とされています。
    火は一瞬にして建物全体を覆い、熱でボックス席は崩れ落ち、冬の真っただ中というのに劇場一帯に積もっていた雪もすべて溶けてなくなってしまいました。
    2日間にわたって続いた火事の後も1週間の間廃墟となっていた建物の中で火がくすぶり続け、舞台衣装も装飾も貴重な楽器も楽譜の資料室もすべて灰となりました。
    結局新しい劇場もまた劇場の跡地に建てられることになり、火事から3年後の1856年8月、ベリニのオペラ正教徒で復活を遂げます。
    これ以後劇場名からは地名を表すペトロフカが消え、ただのボリショイ劇場大劇場の名前で呼ばれ続けることになります。

    3725
    こけら落とし作品としてイタリアオペラが選ばれたことは特に何かの象徴というわけではありません。
    しかし当時の観客の興味がイタリアオペラに移っていたことは確かです。
    モスクワ中でイタリアオペラが宣伝され、実際にかければ観客席は満杯になりました。
    国内組の出演頻度は週に3回、バレエが2日、オペラが1日でした。
    しかしバレエのほうでも国内作品の不振が続きます。
    舞踏会に目を転じても時代は西洋ロマン主義が大流行でラ・シルフィード、ジゼル、ノートルダムの背蒸し男、エスメラルダと言った作品がヨーロッパでの初演後すぐにモスクワで上演されるようになりました。
    モスクワっこたちはフランスのバレリーナに夢中でした。

    3822
    しかし時代は変わります。
    1870年代に入ると観客の好みが大きく変わり、それに合わせてロシアのオペラが次々と登場します。
    例えばルーヴィンシュテインのデーモン、ムスソルスキーのボリスノゴドフ、チャイコフスキーのスペードの女王イオランタ、リムスキーコルサコフの雪娘といった作品が当時発表された新作品でした。
    プリマドンナのエカチェリーナ・セヴォーノヴァを目指して才能のある歌い手たちはこぞってモスクワの舞台に立ち人気を博します。
    すでにこのころイタリアブームは廃れてしまってました。
    また以前は短命に終わった皇帝にささげた命のイヴァン・スサーニン、それからルスランとリュドミラの2作品も再び脚光を集めます。
    現在のボリショイ劇場は恒例としてグリンカのいずれかの作品でシーズンを開けることになっています。

    3922
    一方バレエのほうはどうかといいますと、このころは厳しい状況にありました。
    1つの振付家勢力がバレエ世界全体を大きくまとめていた首都ぺテルブルグとは違い、19世紀後半のモスクワには第一人者と呼べる人物がいなかったのです。
    外国から大家を招くこともありましたが、いずれも一時的なものに終わっています。
    例えばフランスの振付家マリウス・ピュティバはここボリショイ劇場で1869年にドンキホーテを振付けています。
    とはいえあまり明確なプランのないままレパートリーが決められ、失敗が繰り返されました。
    チャイコフスキーがこのボリショイ劇場のために書いた初めてのバレエ作品、白鳥の湖でさえその例にもれませんでした。
    そんな不人気が続けば観客の足も遠のき収入も安定しませんでした。
    1880年代にはバレエ部門の廃止も検討されましたが、何とか維持することで落ち着いています。

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    19世紀末と20世紀の初頭、つまり世紀をまたいだ時期にボリショイ劇場は時代の激動を迎えます。
    この時代ロシア芸術は時代のピークを迎えていましたが、中でもモスクワはその渦中にありました。
    ボリショイ劇場のある劇場広場とその目と鼻の先にはモスクワ芸術座ムハットがオープンし、そのスポンサーであった豪商マーモントフはロシアのオペラ作品を多くかけました。
    ボリショイ劇場とモスクワ芸術座と2つの極の中で街全体がわきたちました。
    ボリショイ劇場のオペラ団は多くの才能を抱え、世界的に見ても高水準の作品を上演しました。
    また作品についてもチャイコフスキーの作品を定期的に発表し続けました。
    1889年にはボロジンのイーゴリ公が上演されています。

    4212
    また停滞していたバレエのほうでも19世紀になると最高の時期を迎えました。
    モスクワ舞台学校は次々と新たな才能を発揮し続け、そんななか1899年、マリウス・プティバのバレエ、眠れぬ美女でデビューしたのが振付家のアレクサンドル・ゴルスキーで、彼の門下につどった後身たちが20世紀初頭に訪れたモスクワバレエの黄金期を支えたのです。
    また同じく1899年には後にロシアが誇るオペラ歌手となるヒョードル・シャラーピンが入団します。
    まさに新たな施政期と時期を同じくしてボリショイ劇場も新たな時代を迎えたのです。

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    オペラでもバレエでも才能が多く開花した20世紀初頭が過ぎ、時代は革命の色の染まっていくところですが、1917年のボリショイ劇場にはそのような兆候は見られなかったようです。
    2月10日にはベルギーのオペラ、ロン・カルロスがロシアで初演を迎えています。
    さらに2月28日に帝国劇場として最後の講演を終え、翌月3月10日には2月革命が終わって帝政が倒され、アーティストらも裏方らもすべてがそろった席で全会一致で座長となったのが1897年にデビューした、いわば中堅のオペラ歌手、レオニード・ソビノフでした。
    ソビノフは美しい声にも演技力にも恵まれ、そのうえ高い知性の持ち主でした。
    3月31日にソビノフはボリショイ劇場と舞台学校の人民委員に任命されます。
    10月25日、かつてのペテルブルグ、ペトログラードで10月革命が発生した際、ボリショイ劇場ではミンクスのバヤデルカを踊り子が上演されていました。

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    1920年、国は革命後の国内戦で荒廃し、経済はほとんど破綻していましたが、ボリショイ劇場は文化の殿堂で有りつづけました。
    このあたりの出来事をいくつか紹介していきたいのですが、例えば20年の2月8日にはベートーベンの生誕150年を記念して、かつての皇帝用のロビーを利用して使われていたホールがベートーベンホールに改称され、交響楽室内楽の演奏が繰り広げられました。
    また同じ20年の2月29日には先ほど登場したゴルスキーが芸術座のネヌロビッチダンチェンコと共同で振付けた白鳥の湖が上演されます。
    さらに25年には降誕祭の前の晩が初演され、27年にはムソルグスキーのボリスノルゴフが新たな演出で生まれ変わります。
    若手歌手イヴァン・コルゾフスキーが演じたユーロジビ(聖なる強靭)も彼はこのユーロジビを見ごろに演じ、作品成功の立役者となりました。

    4528
    また1931年にはブッチーニのオペラ、トゥーランドッドが初演されます。
    この中で踊り手の1人であったのが今年101歳を迎えたロシアバレエ界の重鎮、イーゴリ・モイセーエフでありました。
    モイセーエフもこのころは20代であったわけです。
    さらに35年にはユーリー・オレーシャの物語をベースとしたオランスキーの3人の太っちょ、この3人の太っちょは一部の観客の間に熱狂の嵐を巻き起こしました。
    このように大きな社会変動のあったロシアですが、ボリショイについては人の面でも作品の面でもある程度の継続性が貫かれたようです。

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    突然現代に戻るようですが、今年今月の3月4日でチャイコフスキーのバレエ白鳥の湖は初演から130年を迎えました。
    白鳥の湖は世界中で上演されるもっともポピュラーな作品であるといえますが、一方で世界一政治色の強い作品でもあります。
    検閲と粛清を経験し、また帝政も10月革命も、そしてスターリンの独裁の時代も演じられてきました。
    さらに冷戦や雪解けの時代、社会主義崩壊にも立ち会ってきました。
    1991年8月11日のクーデターでモスクワの街を戦車が走っていた際、ロシアのテレビ局はこぞって休みなくこの白鳥の湖を流し続けました。
    またこの数十年に行われた指導者の葬儀の際に記録映像のバッグで流されていたのもこの白鳥の湖でした。
    例えばレオニード・ブレジネフ、ユーリー・アンドロポフ、コンスタンチン・チェルネンコなどの葬儀がそうです。

    4756
    一方1963年にはキューバのカストロ議長が黒鳥を演じたマイヤ・プリセツカヤの演技に長い拍手を送りましたが、この数日後にはアメリカのケネディ大統領も同じような反応を見せていました。

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    スターリンは第二次世界大戦荒廃期にこのバレエをレパートリーに残していくことが国民や軍のモラルのために有益であることを理解していました。
    白鳥の湖の上演は戦争中に150回を数えますが、これは初演から戦争前まで70年間で行われていた上映回数を上回るものでした。
    1941年10月28日午後4時、ナチスドイツの爆撃機がモスクワへの攻撃を開始し、ボリショイ劇場へは500キロの爆弾が直撃し、甚大な被害を与えました。
    翌42年の初頭には劇場が抱える劇団員たちはクイブイシェフ、現在のサマーラへと疎開しています。
    そしてすでにこの3月にはボリショイ劇場の交響楽団がショスタコーヴィッチの交響曲第7番を演奏しています。
    これはロシアのみならず、世界の音楽史の中でも大きな出来事と言えるものでした。

    4920
    劇場の内部は暗く、敵からの攻撃をかわすために網で隠され、一見閉鎖されているようでしたが、内部では暖房もない中、すぐにも改修工事が始まっていました。
    1日10時間から12時間続いた工事により、43年夏には疎開していた団員たちの一部がモスクワへと戻り、9月26日にイヴァン・スサーニンを上演しています。
    モスクワは再びボリショイ劇場を取り戻したのです。

    5006
    ボリショイ劇場は長い歴史の中で多くの才能を輩出しています。
    オペラ歌手と言えばウラジーミル・アトラントフ、ボリス・ヒトコロフ、ズラーブ・ソトキラフ、ガリーナ・ビシネフスカヤ、タマーラ・シニャフスカヤ、エレーナ・オブラシュツオアなどが挙げられます。
    一方バレエのほうでは、ガリーナ・ヴラノヴァ、マイヤ・プリスチェカヤ、エカテリーナ・セヴォーノヴァが高い評価を得ています。
    バレリーナ・オペラ歌手の質を保つためには次世代の育成が何よりも欠かせません。
    ボリショイ劇場付属の舞踊学校については番組のはじめにお伝えしましたが、オペラスタジオのほうは1918年に創設されました。

    5057
    そのオペラスタジオの学長を務めたのが演劇理論の改革者、コンスタンチン・スタニスラスキーです。
    スタニスラスキーはモスクワ芸術座の創設者でもありますが、この演劇学校ではボリショイ劇場の次世代を担う人材の育成に取り組みました。

    5116
    1990年から1991年の1年間、モスクワ舞踊学校のほうでは日本の岩田守弘さんが研究生として学び、現在はソリストとして活躍しています。
    1993年岩田さんはモスクワで開かれたバレエダンサーのコンクールで1位に輝き、95年に入団し、以後活躍を続けています。
    候補生たちのその後の運命は様々です。
    全員が順調にキャリアを積み上げて行けるわけではもちろんないですし、成功してもロシアを離れていく人もいます。
    しかし全員がボリショイへの忠誠を誓うのです。
    現在ボリショイには一時的に留学などで勉強を続けている研究生たちのグループがあり、ロシアやCIS諸国、その他の国から若手アーティストの人たちが厳しいトレーニングの日々を送っています。

    5225
    先ほどボリショイ劇場の歴史を紹介した中でレパートリーの変遷についてもお話ししましたが、今はどうなっているのかと言いますと、現在レパートリーとして優先されてるのは次のようなものです。
    19世紀20世紀に書かれたロシア音楽の名作、あるいはロシアにおけるオペラ・バレエの発展における貢献作、これに従って選ばれたレパートリーは現在70パーセントが国内作品となっていますが、この比率は今後も維持されるものとみられています。

    5313
    20世紀、ロシアの作品は長らくレパートリーから外されていましたが、新たな解釈のもとボリショイの舞台に21世紀に入ってからようやく現れ始めました。
    例えばプロコフィエフのオペラ、「賭博者」、「炎の天使」、ショスターコーヴィッチのバレエ、「明るい小川」、「ボルト」、またショスターコーヴィッチのオペラ作品、「ムチェンスクグンのマクベツ夫人」などです。
    またプロコフィエフの「戦争と平和」がかかり始めたのも最近のことです。
    昨年はショスターコーヴィッチ生誕100年に当たり、史上初となるバレエ作品全3作の上演もありました。
    全3作とは「明るい小川」、「ボルト」と後は「黄金時代」のことです。

    5405
    来年までは新館での上演となりますが、改装工事が終了した後もボリショイ劇場はロシア音楽劇場の長い伝統を引き続いていくだけではなく、ロシアやロシア文化のシンボル、ロシア最大の国立劇場、文化の担い手、そして世界の音楽文化の中心であり続けることでしょう。
    また白鳥の湖もこれまでと同様、永遠の愛の賛歌として訪れる観客たちを魅了し続けることが期待されます。

    5504
    締め

    5700

    シベリア極東ジャーナル 2007年3月3日土曜日

    シベリア極東ジャーナル 2007年3月3日土曜日

    A.お題

    1.極東っ子たちはいけばなの哲学を知る



    情報元:
    http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku0303.html

    お答えします 2007年3月1日木曜日 (ロシアの競馬について)

    お答えします 2007年3月1日木曜日

    A.お題
    ロシアの競馬について
    http://japanese.ruvr.ru/2007/03/05/417904/


    C.本文

    こんにちの世界では先進国の首都にはかならず競馬場があります。
    競馬はその国の威信を表す存在です。
    ですから競馬競技が行われる日は国民の休日となっているところが少なくありません。
    たとえばイギリスではエプソン・ダービーの行われる日には国会も審議はお休みです。
    オーストラリアでは「春の競馬カーニバル」という日がもうけられ、何百万人もの観衆が押し寄せてこのお祭りを祝います。
    この間数日間は全国的にお休みで公共機関も休業です。

    馬のブリーディング(つまり養馬)が世界でもっともさかんな国々はイギリス、アラブ首長国連邦ですが、イギリスでは王室が、アラブ首長国連邦では元首大統領のアブダビー首長が一番規模の大きな飼育工場を有しています。
    イギリス、アイルランド、フランス、アメリカ、日本、オーストラリアなどの競馬先進国では競馬場に国家元首らの座る桟敷席をもうけていますし、ダービーやそれに順ずる大きな競技の行われる日には国王や大統領らはかならず出席しています。
     
    政治家やインテリ、エリート軍人や学会の代表者らなど、あらゆる社会層の代表はこうしたダービーの日を国民的に意義の高い日だと考えているのです。
    ロシアでもかつてはそうでした。
    モスクワの競馬場は世界の馬の関係者が注目するメッカのような存在だったのです。
    このモスクワの話につきましては後ほど詳しくご説明します。

    ロシアではいわゆる馬を使ったスポーツはずいぶん前から発達していました。
    乗馬、競馬、馬に乗って戦うそのほかの競技は、貴族らに天から与えられた贅沢ななぐさみごとだったのです。
    ロシアで初めて公式に競馬が行われたのは1772年7月、ペテルブルグの郊外、クラスノエ・セローでのことです。
    それでも、ロシアの競馬人気がもっとも頂点に達したのはそれから100年後の19世紀も半ばになってからでした。

    1826年にタンボフ州、レベジャーニ市で、ロシアで初めての競馬の社会団体が誕生します。
    つづいて1831年、同じような団体が、今度はモスクワに出来ました。
    その3年後の1834年にモスクワで競馬場がオープンしています。
    1834年その後のモスクワ競馬場の端緒となったハディンスコエ・ポーレという場所で、はじめてトロット馬の競走が行われました。
    もちろん170年の間にモスクワ競馬場はかなりその様相を変えました。

    いまでは直線コースが2列走っていた当初の様子を思い起こさせるものはありませんが、当初はそのような姿をしていたのです。
    競馬場は徐々に広がっていきました。
    1899年、新たに進められていた巨大な石造りの観客席の工事が終了しました。
    この観客席はかなりの大きさを誇っていたらしく、当時のジャーナリストらは「ヨーロッパでも最大級のものだ」と書きたてたものです。
    ところでモスクワ中央競馬場の様子や他の資料はロシアの声のサイトに乗せてありますからごらんになってください。

    さて革命後の1918年から、ロシアでは競馬場は一時使用禁止となります。
    国内戦の間は、競馬場は軍隊の教練所と化していたほか、巨大さを誇った観客席では労働者のデモが行われました。
    こんなふうに競馬場で演説を行ったうちの一人にウラジーミル・レーニンがいます。
    通常通り、馬の試験が行われるようになったのは20年代になってからでした。
    また競馬競技に順ずるものがモスクワの競馬場で再び始まったのは1921年の初めのことです。
    モスクワ競馬場が再スタートしたことで、馬のブリーディングや飼育をつかさどる国の管轄庁が、1921年の秋のシーズンからレースを再開する決定を行ったわけです。

    1921年秋、モスクワではトロット馬の競馬が再開しました。
    この1921年一年だけをとっても、モスクワ競馬場では、163頭のトロット馬がレースに参加しています。
    この数は年をおうごとに増えてゆき、1929年には、レースが行われた日は101日に達し、その間に1030頭ものトロット馬が参加しました。
    また、そのレースの初日にすでに馬券売り場がオープンしました。
    もちろん、この馬券売り場は今日でも営業を行っています。
    競馬という市場は、犯罪とは切っても切り離せない関係にあるとされていますが、そうした取引が本当の意味でもっともピークを迎えたのは、1980年代の終わりでした。
    モスクワ競馬場では私設(つまり国の管理下にない)馬券屋が登場し、正真正銘の仁義なき戦いを繰り広げ、ことが刃物ざたにおよぶこともしばしばだったのです。

    競馬は財産を所有している人を食いつぶしてしまうこともありました。
    こういう人たちは負けを繰り返すうちに、自分の財産を徐々に失っていったのです。
    というのは競馬には現金をかけることは稀で、負けの払いは、車、マンション、郊外の別荘、ダーチャなどで行われることが多かったからなのです。
    また、馬券屋どおしのあいだでは、競争や縄張り争いが熾烈に行われていました。
    馬券屋は自分の商売を「血であがなう生業(なりわい)」と称していたほどです。
    いまでは、この馬券業は比較的おだやかなものとなりました。
    それだけではありません。
    馬券売り場から上がる収益は、ロシアの養馬産業の育成を促進する、要の財源とまでなっているのです。
    このお話についても、もう少しあとに詳しくお伝えしましょう。

    現在モスクワ競馬場は2つのタイプの競馬に対応できる機能を備えています。
    実はここが日本の競馬とは違う点なのですが、ロシアの競馬は日本のように直線コースを走るレースと、障害物、つまりバーを跳び越しながら走るレースとふたつあるのです。
    モスクワの競馬場は、この2つのタイプのレースができるしくみになっています。
    ですから、ここでは元気なトロット馬と、跳躍馬との両方を見ることができます。

    現在ロシアには33の競馬場がありますが、このモスクワの競馬場が最も中心地的存在で、通年を通してレースが行われています。
    雪が降ろうが、雨が降ろうが、毎週土曜、日曜ともなれば250頭以上のトロット馬がコースに出場します。
    モスクワ競馬場では、年間ほぼ1000頭のトロット馬が出場しますが、このトロット馬は、オルロフ種、ロシア種、アメリカ種と、3つの種類に分けることができます。
    こうしたレースのほか、毎日、厩舎から馬が出され、コースを歩く様子は、本当に美しく、馬という生き物の美しさに思わず、息を呑み、深い満ちたりた気持ちを思い起こさせてくれるものです。
    観客席は1万5000人の観衆を収容できるようになっていますが、それでもブリーディング(養馬)関連のお祭りともなれば、空いた席はありません。

    さて、ロシアの競馬の歴史には、3つの空白期がありました。
    ひとつめは、先ほどもお話した1917年の革命期、次は第2次世界大戦中、そして、最も最近の空白期は経済、政治の停滞した90年代の危機の時代です。
    10年の断絶期をへて、ようやく2000年に純血種の馬のブリーダーを統括するセンターがモスクワに移設されました。
    現在の競馬場は42ヘクタールの広さを誇ります。
    競馬場はモスクワの歴史的中心街から10分ほど車で移動した場所にあるのですが、こんな本当の意味でのオアシスが、町の中心部から程近いところにあるとは驚きです。
    競馬場を一歩くぐると、車の行き交う喧騒の街ははるか遠く、あわただしい日常を忘れてしまうほどです。
    それは、ここが、人と馬とが、やさしい、永遠の信頼関係で結ばれている特別な場だからでしょう。

    競馬は純血種の馬の育成と、切っても切り離せません。
    多くの人々が長年に渡って、より早く、元気で、美しい馬を求め、馬の育成に心血を注いできました。
    ここでそうした歴史には忘れてはならない人、アレクセイ・オルロフのことをお話しましょう。
    このオルロフこそがロシアの馬の品種改良、ブリーディングの発展に輝かしい功績をもつ人物に数えられています。
    オルロフは有名なオルロフ種のトロット馬を生み出したことで知られます。
    このオルロフ種の馬が開発されたことは、当時の国家には大きな快挙でした。
    農業においても、軍でも、街と街を結ぶ交通、また市内の交通手段としても、この馬は大活躍をしたのです。

    オルロフのこうした創造活動について、天才的彫刻家が、自分が必要とする彫刻を作るようすや、または天才的な画家が稀有な作品を描くことと同じだと表現できるのではないでしょうか。
    というのも、オルロフもアラブと、デンマーク、そしてオランダの馬という、まったく違う種類を非常に複雑に掛け合わせて、このオルロフ種という稀有な馬を生み出したからなのです。

    オルロフ種の馬を生み出した男、アレクセイ・オルロフは、私たちにとっては国のヒーロー的存在です。
    オルロフは数々の戦いで誉れに輝いています。
    が、とくに1769年から1774年の露土戦争では、オルロフの名は世界中にとどろきました。
    1770年から5年間にわたってエーゲ海でロシア艦隊の司令官をつとめたオルロフは、1770年6月26日、トルコの東海岸にあるチェスマで夜襲をかけ、トルコの艦隊を一網打尽に打ち破ったからです。

    この戦いに勝ったおかげで、黒海の海運は完全にロシアの手中に収められることになったのです。
    この戦いの勝利がたたえられて、オルロフにはロシア軍の軍人に贈られる賞ではもっとも誉れ高い、第1位聖ゲオルギイ勲章が贈られるとともに、勝利した場所にちなんで、オルロフ=チェスマンスキイという新たな姓が与えられました。
    それだけではありません。
    このチェスマの戦いに勝利したオルロフ伯爵を記念して、彼の肖像画を入ったメダルまで発行されました。
    このメダルの表側には肖像画とその説明書きが、また反対側には感謝の言葉が刻まれています。

    実は、チェスマでの戦いがまさに行われようとしている、その日の深夜に、あのオルロフ種の馬が誕生したともいえるのです。
    トルコ艦隊を打ち破ったロシア人はその船を占領します。
    そのとき、船にはトルコのハサン・ベイ将軍の妻、子どもをふくむ親戚が乗っていました。
    オルロフはこの人質たちをもといた土地へ送り返すよう命じます。
    この処置に胸を打たれたハさん・べイ将軍は、感謝の印にと、アラブの跳躍用の馬を12頭、オルロフ伯爵へと差し出したのでした。
    そのなかにひときわ目を引く、金色に輝く毛並みをもった白馬がいました。
    白馬はその色の美しさから「スメタンカ」(これはロシア語でサワークリームという意味の言葉ですが)、スメタンカという名前で呼ばれるようになります。
    まさに、このスメタンカが今から230年前に、のちのオルロフ種となる、最初の馬に血を分け与えたおかげで、贅肉のない、調和の取れたボディーと、荒い、東洋のアラブ馬の気質がもたらされたというわけです。

    さて、1775年、オルロフ伯爵は軍隊の生活をやめ、トロット馬と、乗馬用の馬の改良に心血を注ぎ始めます。
    それだけではありません。
    オルロフは、トロットで走る際のルールを作り出し、自分のところで働く調教師にこれを教え込みました。
    こんなふうにして、トロット馬で走るときのロシア流の乗馬マナーが誕生したわけなのです。
    オルロフのトロット馬は、誕生して200年、いつの時代も最高の誉れに輝いてきました。
    ですから本当の意味でロシアの国の誇りといえる存在なのです。

    さて、この世には一瞬のはかなさと、永遠が混在しているものですが、後者の永遠のカテゴリーに属するものが競馬でしょう。
    19世紀、モスクワ競馬場はもっとも裕福な人々が集まる場でした。
    政治家、軍人、産業家といった富裕層をここに集わせていたのは、ほかならぬ、馬というファクターだったのです。

    こんにちのモスクワ競馬場からは、かつて巨額の賞金がかけられていたことを想像するのは難しいですが、かつては、ツァーリ、アレクサンドル3世の勅令によって、この競馬場のあげる利益が、ボリショイ劇場を支えていたのです。
    19世紀の名馬たちの姿は古いリトグラフ印刷に残されています。そうした駿馬、ブィチョク、ベドゥーイン、レトゥーチイ、クラソートカなどがどんなにもてもてだったかは、今でいえばポップ・ミュージシャンの人気と同じくらいといえば、おわかりいただけるでしょうか。
    20世紀の初頭までには、養馬業、その飼育において、世界でロシアと肩を並べる国はなかったほどなのです。
    ロシア一国に3500万頭の馬がいたのですから。

    馬にはスターもいれば、それにまつわる伝説もあります。
    そうした名馬のなかで、当時、もっとも人の口に上ったなかに、クレプィシュという馬がいました。
    「トロット馬の王者」「100年に一度の名馬」という言葉が、革命前のロシアのスポーツ新聞に踊ったものです。

    クレプィシュは、そのもっとも輝かしい時代、同じクラスの馬たちのなかでも最強のライバルとのレースでは、群を抜いたスピードで軽々と追い越す走りを見せてくれました。
    クレプィシュの人気は絶大で、モスクワでも、ペテルブルグでも、クレプィシュの姿が出ると、観客席からは割れんばかりの拍手がわきおこり、それがいつまでも、いつまでも続いたといわれています。
    アメリカ人調教師でジョッキーとしても活躍したチャールズ・タンナーは1912年にロシアを訪れ、このクレプィシュを目にしたときの感動を、こんなふうに書き残しています。

    「一目みたら、もう目を離すことができない。
    釘付けになってしまうのだ。
    それだけ、この肢体には、そしてその動きには、この帝国の威信が感じられた」

    クレプィシュはこの種の馬としては最高の出場回数を記録し、賞金総額も巨額でした。
    クレプィシュは理想的なコンディションの状態にあり、専門家らの意見では、その先もかなり記録を伸ばすことができたはずでした。
    ところが、残念ながら、そうはならなかったのです。
    純血馬、交配種との熾烈な戦いが課せられ、ゲームの舞台裏の巧妙な企てが醸す不健康きわまりない雰囲気のなかで、クレプィシュは最高の走りの状態を維持することができなかったのです。

    先ほどのアメリカ人、タンナーがクレプィシュを見た、同じ1912年の8月、養馬庁の最高管理者をつとめていたロマノフ公の意思により、クレプィシュはプロスチという馬との雪辱戦を行うことになりました。
    これに備え、クレプィシュには10日間に渡って強化訓練が行われました。
    そして、全国馬見本市にあわせて行われた、その対決の日、競走相手のプロスチははるかにいいコンディションで出馬し、6800秒の差をつけて、このクレプィシュを打ち負かしたのです。
    「プロスチも記録を塗り替えてはきたが、だれもクレプィシュがこんな負け方をするとは思わなかった」
    これは、当時のスポーツ新聞に書かれた批評です。
    このレースのあと、クレプィシュはすっかり調子を崩してしまいました。
    その結果、長い休息期間をとって調整に励んだものの、クレプィシュは二度と昔の走りをとりもどすことができなかったのです。

    過去何年かロシアでは、立て続けに何本かのレースが行われてきています。
    ラジオ「モンテカルロ」杯、アレクセイ・ゴルデーエフ農業相の主催するダービー、ボリス・グローモフ・モスクワ州知事杯などのレースをあげることができます。
    また、モスクワ市長杯では、モスクワのルシュコフ市長の奥さん、エレーナ・バトゥーリナさんが自ら出場し、ロシア乗馬スポーツ連盟の会長に就任した1995年以降、首都モスクワは、競馬にさらに重きをおいた政策を行うようになりました。

    モスクワ競馬場では年に1度、乗馬種にとってはもっとも重要なシーズン賞である、全国ダービーが開かれます。
    これは、イギリスで行われるダービーの流れを正統に汲んだものです。
    ちなみにイギリスのダービーとは、ダービー卿の名にちなんで1780年からはじまったもので、もっとも優秀な3歳馬をつかったレースとしては最高の賞金額を誇ります。
    どうしてロシアの全国ダービーがこのイギリスのダービーの継承者ともいえるかといいますと、純血の競馬種の見本カタログを出版するようになったのは、イギリスについで世界でロシアが2番目の国だからです。

    その一方で、かなりの賞金額をかけて行われるレースは、こんにちロシアではありません。
    馬のオーナーにはウラジーミル・プーチン大統領や、モスクワのユーリイ・ルシュコフ市長をはじめとする政界の大物たち、芸能界や実業界の大御所たちがずらりとならんではいるのですが、高い賞金のレースは行われていないのです。
    それでもこの状況はきっと変わってくるでしょう。

    そうした賭け金の額によらず、こんにちモスクワ競馬場は、すこしおかしな表現に聞こえるかもしれませんが、歴史、文化、また国の成し遂げた達成を象徴する存在であることは、かわりありません。
    現在、この競馬場は、もっとも民主主義的にゲームの行われる場所となっています。
    最低の掛け金は10ルーブルからスタートするのです。
    10ルーブルといえば、日本円で40円くらいです。
    こんな小さな賭け金で参加できる競馬には、最近囲いのできたVIP席をのぞけば、一般の観客席に座る人たちの服装は普通の身なりで、年金生活者が多く、ほとんど男性が占めているといえます。

    競馬は20分ごとに行われます。
    レースのはじまる前までの、こうした男の人たちの行動ですが、うろうろと歩き回るもの、誰かと小声で言いあうものもあれば、レースの表に変な印を書き込みながら、ぶつぶつとつぶやくものもいて、そうした全員がようやくめぼしをつけると腰を上げ、次のレースの馬券を買いに売り場へと向かうのです。
    馬がコースを走るのは、たった2分たらずのこと。
    その数分のドラマが、この戦略家たちには永遠とも思われる時なわけです。
    レース情報を堅く筒に丸めて、手に握り締め、全力で疾走する馬をとおくから固唾を呑んで、食い入るように眺めるその姿を見ていると、男たちはまるで、ちょっとでも体を動かすことも怖れるかのように思えます。

    ゴングが鳴り、勝ち馬がフィニッシュをきると、観客席では絶望の叫びがあがります。
    賞金額が大きければ大きいほど、この叫びは大きくなるのです。
    つまり負けの馬券を買った人の数が多いからです。
    勝った人はふつう叫んだりしません。
    運が逃げるのを恐れるかのように、にんまりほくそえむだけです。
    こういう賭けの場では偶然に勝つということはありえません。
    一本のレースだけ予想があたってもだめなのです。
    馬券交換所では、いくつかのレースを続けて勝たないと「勝ち」にはならないので、そのためには、おわかりでしょう。
    なんども出馬表に指を走らせ、頭を悩ませねばならないからです。
    こんな実に勝ちにくい戦いにもしかしたら2000ルーブル(8000円)くらい勝てるかもしれない、という淡い期待を胸に、男たちはコンクリートむきだしの観客席までやってくるのです。
    ちなみにレースに負けて自棄酒(やけざけ)を飲むことのないようにとの配慮から、競馬場ではお酒はうっていません。
    そもそも軽く食事がとれるような場所もないのです。

    レースのかけ方は5通りあります。
    「ペア」「2×2」「3倍のエクスプレス」「4倍のエクスプレス」「5つの勝利」といわれるもので、そのうち一番簡単なのが「ペア」といわれる賭け方です。
    これは先頭と2番手の馬を当てるもので、どんなフィニッシュの切り方をしてもいいから、勝った馬と2番手が当たればいいのです。この「ペア」では平均50ルーブル(200円)くらいが手に入ります。
    この中で賭け金からいくと、一番おもしろいのは「4倍のエクスプレス」で、これは先頭から4番目の馬までをすべて当てねばなりません。
    最近の例では1ルーブル(4円)の賭金の賞金が、6万7000ルーブル、(26万8000円)にも膨れ上がったことがありました。

    現在、高いレースが行われているのはドバイです。
    ドバイのレースにはビジネスマンや俳優、政治家が集まります。
    特に25年の歴史を持つダービー「ドバイ杯」は世界中のダービーのなかでももっとも権威の高い、国際的なレースのひとつに数えられます。
    賞金総額は何百万ドルにもなり、昨年2006年は3100万ドルに上りました。
    この3100万ドルという額はドバイ杯始まって以来のもっとも大きなもので、参加する名馬、名ジョッキーも世界のトップレベルがずらりと並びます。
    昨年このドバイ杯には世界20カ国から176頭の馬が参加しました。

    さて他といろいろ比較しますと、いま世界でもっとも競馬の盛んな国は実は日本です。
    第2次世界大戦までは日本では競馬産業と呼べるものがほとんどありませんでした。
    ところが1950年代からこの方面に計画的に大きな投資を行った結果、日本の競馬産業は躍進的な発展、成功を収めます。
    日本の養馬業は乗馬用の純血種の名馬を買い付けるために巨額な投資を行ったのです。
    ですから、こんにち日本の馬のなかにはまさにこうした純血の乗馬用の馬がたくさんいるのです。

    競馬は香港でもとてもさかんです。
    日本や香港で1回のレースにかけられる賭け金は、何億ドルにもなるそうで、この額はヨーロッパやアメリカをはるかに凌(しの)いでいます。
    その一方で日本や香港の競馬は他の面で厳しい制限があります。
    長い間日本の競馬では外国産の馬はレースに出ることができませんでした。
    その後制限の内容は「日本人オーナーの所有する馬に限る」と変わっています。
    いまは外国人オーナーの所有する馬もレースに参加できるようになりましたが、それもほんの限られた数のレースだけなのだそうです。

    こうなるとロシアの名馬が日本で活躍するチャンスもとても限られます。
    こうした制限が今後緩和され、もっともっと外国でのポジションを広げて、またモスクワ競馬場が世界中の駿馬を集めたはなやかなものとなるよう期待したいところです。
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