シベリア銀河ステーション 140回目 2007年4月30日月曜日

    シベリア銀河ステーション 140回目 2007年4月30日月曜日


    A.お題

    1.




    情報元:
    https://web.archive.org/web/20070514122951/http://www003.upp.so-net.ne.jp/PECHIKA04-10-29/
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    シベリア銀河ステーション 139回目 2007年4月28日土曜日

    シベリア銀河ステーション 139回目 2007年4月28日土曜日


    A.お題

    1.




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/103
    https://web.archive.org/web/20070514122951/http://www003.upp.so-net.ne.jp/PECHIKA04-10-29/

    臨時企画 2007年4月15日日曜日 「ロシアの声」日本語放送開始65周年後編

    臨時企画 2007年4月15日日曜日

    A.テーマ
    「ロシアの声」日本語放送開始65周年後編
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2007/04/14/417998/


    C.本文

    「ロシアの声」日本課の創設65周年を記念した特別番組、 その後半・第2部の時間がやってまいりました。

    今からソ連時代の後半からペレストロイカ、 ソ連崩壊、 そして現代に至るまでを取り上げたいと思います。
    前半に負けず劣らず劇的で、 様々な歴史的事件によって彩られた日本語放送の最近数十年の動きをリスナーの皆様とご一緒に振り返っていくことにしましょう。

    ご存知のように、この「ロシアの声」、ソ連時代のモスクワ放送は国営の放送機関であり、放送の性格や内容・規模など全ての項目において、その時々の国のあり方をストレートに反映してきました。
    従って私たちの放送がたどってきた道のりを振り返るだけでソ連/ロシアという国の1 つの歴史的な断面図を眺めることができるわけです。

    同時に実際にラジオ局で勤務し、放送を作っていたのは言うまでもなく1人1人の職員であって、全ての歴史と同じく日本語放送の歴史もまた人間の歴史です。
    放送の開始から今に至るまで本当に沢山の人々が複雑な国際情勢や日本とソ連/ロシアの関係に振り回され、一喜一憂しながら放送に取り組んできました。
    これから国家の活動としての放送という「マクロな歴史」と放送を支えた人々の「ミクロな歴史」の双方を視野に入れながら日本語放送の歴史の後半を回顧していきたいと思います。

    第2次世界大戦の最中の1942年(昭和17年)4月14日に第一声を発したモスクワからの日本語放送は戦後になってからスタッフもより充実し、放送の規模を拡大していきました。
    その間ソ連ではスターリン体制が幕を閉じた後、フルシチョフの下ではいわゆる「雪解け」の動きが進むなど時代は大きく動いています。
    しかしながらフルシチョフの後継者としてレオニード・ブレジネフが権力の座に就くと、ソ連社会は戦争と激変の時代を終え、一応の落ち着きを見せることになりました。

    そのブレジネフ時代が始まってから間もない頃、1966年にはソ連共産党の第23回党大会が開かれ、ブレジネフ書記長も演説を行ないました。
    もちろんモスクワ放送でもブレジネフ演説の模様を日本に伝えていました。
    日本語訳のアナウンスは長期にわたって翻訳者及びアナウンサーとして日本語放送を支えた清田彰(あきら)さんでした。

    一方、この時代には「ロシアの声」日本課の現在に直接つながる出来事もありました。
    1967年リプマン・レーヴィン日本課課長の就任です。
    レーヴィン課長は1959年にモスクワ放送に入局して以来、現在に至るまで勤務し続けている大ベテランで、ジャーナリストとして、また日本語翻訳者・通訳として数々の業績を残してきました。
    ラジオで働き始めた時期の思い出としては1961年の「ベルリンの壁」建設に関するニュースを翻訳用に選んだことが印象に残っているということで、レーヴィン課長がどれほど長い間第一線で働き続けているかがお分かり頂けると思います。

    こうして1960年代半ばから80年代初頭にかけてのブレジネフ時代、ソ連社会全体が相対的な安定を見せたこの時代にモスクワからの日本語放送も誕生と成長の慌ただしい時期をすぎ、対外放送局としての体制を整えています。
    もちろん当時のソ連と日本は異なる陣営に属しており、1956年の国交正常化後も親密な関係に至ったとは言い難い状況にありましたが、しかし戦時中と比べれば情勢は全く異なっており、多くの日本人リスナーがモスクワ放送に耳を傾けていました。

    「ロシアの声」日本課に残されている歴史的な資料の1つに、1973年(昭和48年)1月24日付の新聞「夕刊フジ」の切り抜き記事があります。
    「寒い国から来た電波」という大見出しがついたこの記事は日本のジャーナリストがモスクワ放送を取材してまとめたレポートで、当時の放送局の様子が活き活きと描き出されています。
    これによりますと、当時の日本語放送のスタッフはレーヴィン課長以下30人。
    アナウンサーは「トップ・アナウンサー」と表現されている清田彰(あきら)さんを初め6人で、その中には日本生まれのロシア人ソコロフさんも含まれていたといいます。

    記事の中ではまた、日本のリスナーに人気がある番組として「科学と技術」と「リクエスト」が挙げられています。
    「科学と技術」に関しては「宇宙関係をはじめソ連の最新の技術を紹介する」番組だとされており、当時からソ連/ロシアの宇宙開発に対する関心には高いものがあったようです。
    一方、放送に対する日本からの反響としては年間に約6000通のお便りが届いており、中には「日本語を話すには日本の食事が一番」と、定期的に缶詰やノリ、ハムなどを送ってくれる東京の食料品店経営者の方がおられたという話が紹介されています。

    この当時、日本語放送にとって重要だった出来事と言えば、戦争が終わった後も日本に帰らず、ずっと放送を支え続けてきたベテランの日本人スタッフが、ようやく一時帰国する機会に恵まれたことです。
    冷戦体制の中でもソ連と日本はそれなりに安定した関係を築き上げ、このような形での交流が可能となったわけです。
    自らの意志でソ連に残る道を選んだとは言え、故郷を離れてから20数年ぶりにかなった帰国は大きな感動と喜びを呼ぶものでした。

    まずは1970年、シベリア抑留を経てハバロフスク放送とモスクワ放送で勤務し、この頃は外国語図書出版社・プログレスに勤めていた川越史郎さんが25年ぶりに祖国の土を踏みました。
    後に川越さんは中公新書の1冊として発表した回想録『ロシア国籍日本人の記録』の中で、この帰国の模様について詳しく描写しています。
    そして川越さんに続いて他のスタッフも次々に帰国し、懐かしい人々との再会を果たしました。

    その一方で待ち望んだ帰国を目前に控えながら、それがかなわなかった人もいました。
    川越さんと同じくシベリア抑留を経験したあとでソ連に残留、戦後ハバロフスクからモスクワ放送に移ってきた滝口新太郎アナウンサーが1971年に亡くなったのです。
    まだ59歳という若さでした。

    滝口新太郎さんは現在ではどちらかと言えば「岡田嘉子の夫」としての知名度の方が高くなっているかもしれません。
    しかし日本語放送の歴史の中で滝口さんが極めて重要な位置を占めていることは間違いないでしょう。
    自らも戦前は映画俳優として活躍した経験を持つ滝口新太郎さんは文化や芸術に対する造詣が深く、放送の仕事の中でも文芸番組の製作に情熱を注いだと伝えられています。

    滝口さんはまた朗読の技術の向上に心を砕き、リスナーにとって聞きやすく訴える力を持つように言葉を磨くことを追求した名アナウンサーでもありました。
    現在でも滝口さんの手による「ラジオの言葉」というメモが残されていますが、この中では次のように書かれています。

    「毎日くり返される翻訳作業に慣れて、言葉の現代性が失われていやしないだろうか…
    言葉に対する感覚−語感がずれていやしないだろうか…
    翻訳が新聞、雑誌等目で見るためにはよいが、ラジオの話し言葉としては不適当ではないだろうか…
    いつも注意する必要があります。
    時間と共に流れ、消えてゆくラジオの言葉は聴取者に話される瞬間瞬間理解され訴える力を持つものとなれなくてはなりません。
    また言葉使いでテキストを黙読している時は気付かなくても、音読して気付く場合がありますのでこの事にも注意を払い、発音しにくい言葉、響きの悪い言葉、ラジオにむかない言葉をなるたけさける様工夫しなくてはなりません」


    こうした文章を読むと滝口さんがどれほど真剣にアナウンサーの仕事に取り組んでいたか、誠実で真摯な人柄が浮かび上がってくるような気がします。
    その滝口さんがハバロフスク支局からモスクワ放送に移り、同時に同じ日本人スタッフの同僚であった岡田嘉子さんと結婚したの1950年。
    実は2人は戦争が始まる前に舞台と映画で共演した経験がありましたが、十年以上の時を経て再びモスクワで再会し、そして生活を共にすることになったわけです。
    そして岡田さんがモスクワ国立演劇大学で学び、再び演劇の世界での活動を始めた時、これを支えたのも滝口さんでした。
    夫婦として同じ演劇人として、そして祖国を離れ異国の地で暮らす仲間として、助け合い、支え合いながら生きてきた岡田さんと滝口さん。
    その2人がそろって再び日本に帰る日はついにやって来ることはありませんでした。
    1972年、岡田嘉子さんは夫・滝口新太郎さんの遺骨と共にほぼ35年ぶりの日本帰国を果たしました。
    この時のことについて岡田さんは翌1973年に出版された自伝『悔いなき命を』の冒頭部分で書いています。

    越境・亡命という劇的な形で祖国を離れて以来、大きな悲劇や様々な辛い経験を乗り越え、モスクワ放送のアナウンサーとして、またソ連演劇界の一員としての地位を築き上げた岡田嘉子さん。
    その岡田さんにとってほぼ35年ぶりとなる日本体験がどれほどの感動をを呼ぶものであったか、この文章からひしひしと伝わってきます。

    もちろん21世紀に生きる私たちはいつでも好きな時にロシアと日本の間を行き来することができる環境にあります。
    岡田さんを初め、日本語放送を支えた第1世代の職員たちに比べればはるかに恵まれていると言っていいでしょう。
    その一方で、長い間帰国の自由を奪われていた当時のスタッフが数十年ぶりに祖国の土を踏んだ時の感激、これは現代の私たちにとって想像を絶するものではなかったかと思います。
    一口に「ロシアの声」日本課65年の歩みと言いましても、発足当初と現在とでは時代背景も条件も全く異なっているわけで、改めて日本語放送の歴史の重さを感じずにはいられません。
    逆にこれから何十年も経ち、現在つまり2007年を「過去の歴史」として振り返ることがあったとしたら、私たちの営みもまた遠い昔の物語として懐古され、何らかの感慨と共に語られる日が必ずやって来るのだと思います。

    長きにわたってソ連を指導したブレジネフ書記長が1982年に亡くなり、後を継いだアンドロポフ・チェルネンコ政権も短命に終わると、1985年にはミハイル・ゴルバチョフ書記長が就任します。
    これに伴ってソ連は新たな激動の、そして苦難の時代に入ることになりました。
    ペレストロイカの始まりです。

    ゴルバチョフ書記長の下、ソ連では一連の改革と情報公開、そして西側との関係改善など様々な新機軸が矢継ぎ早に打ち出されました。
    改革を意味する「ペレストロイカ」、あるいは情報公開を示す「グラスノスチ」といった言葉はソ連だけでなく世界中で知られるようになり、これで世界が平和になる、新しい時代が始まるという期待と高揚感を感じた人は多かったのではないでしょうか。
    そしてこうした時代の精神はモスクワからの日本語放送にも確実に反映されていました。

    それまではソ連の対外宣伝としての性格が強く、よく言えば真面目で手堅い、悪く言えば面白味のない放送というイメージがあったモスクワからの日本語放送ですが、ペレストロイカ時代に入るとより開かれた、親しみやすい番組作りが目指されるようになっています。
    当時は国を挙げて「ソ連は変わった」ことをアピールする必要があったわけで、対外放送の変革は当然と言えるかもしれません。
    実際ペレストロイカ時代に作成された日本語放送の録音を聞くと、現在よりも寧ろ明るく・楽しい雰囲気があり、新しい時代を作っていきたい、現状を変えていきたいという時代の熱気が感じられます。

    現在につながる番組の改変が行なわれたのもこの時代のことで、ペレストロイカの末期、つまりソ連自体の最末期にあたる1991年の1月1日、複数の番組のタイトルが一斉に変更されました。
    例えば「聴取者の手紙から」は「お便りスパシーバ」に、「友好と善隣」は「日ソ交流番組ドゥルージバ」に、「お返事の時間」は「お答えします」に、「ソヴィエト文化」は「文化の世界」にそれぞれ改題されています。
    また「ヤング・ウェーブ」は1990年放送開始の新番組です。
    つまり現在の「ロシアの声」日本語放送の骨格はまさにこの時代の形作られたわけです。

    当時はすでにペレストロイカ政策の行き詰まりも明らかになり始め、数多くの問題が噴出していました。
    にも拘らず現代の私たちが聞いても本当に明るく、活力に満ちたと感じられる番組を作ることができたという事実はペレストロイカがソ連社会にどれほど大きなインパクトを与えたかを物語っています。
    当時のモスクワ放送は確かに「時代」そのものを反映していたのです。

    そして「時代」はさらに大きく変わり、最初に変革を準備した人々の意図をも超える形で動いていきます。
    1991年12月8日、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ3カ国の首脳は、CIS(独立国家共同体)の設立に関する合意文書に署名を行ない、26日には最高会議がソ連の解体を宣言。
    ロシア革命から74年、ソヴィエト連邦の結成から69年を経て、一時は世界を二分する大勢力の中軸となった超大国が遂にその歴史に幕を閉じることになりました。

    翌1992年、つまり今からちょうど15年前の2月10日にまるでソ連の終焉を見届けるような形でモスクワ放送の歴史の一幕を飾った女優・岡田嘉子さんがこの世を去りました。
    1972年の帰国以来、日本とソ連の間を行き来しながら活動を続けていた岡田さんでしたが、最後はモスクワに戻ることを選び、そこで亡くなっています。

    これまで何度かご紹介してきましたモスクワ放送の元職員である川越史郎さんの回想録『ロシア国籍日本人の記録』によれば、川越さんはソ連の崩壊も間近い1991年12月20日、日本のジャーナリストの取材を手伝う形で岡田嘉子さんを見舞っています。
    この時「ソ連時代に最も印象に残っている出来事」について尋ねられた岡田さんはかつてモスクワのマヤコフスキー劇場で劇を演出した経験を語ったといいます。
    想像を絶する苦労と波乱に満ちたソ連生活の中でも最後の最後に一番の思い出として「芝居」を挙げた岡田さんについて、川越さんは「芸術家のしぶとさをちらりと垣間見る思いであった」と振り返っています。
    その川越史郎さんも、昨年の10月にこの世を去っており、日本語放送はさらに1人の先達を失うことになりました。

    ソ連崩壊から今に至るまでの様々な動きについてはすでに「現在」の範疇に含まれるものとして記憶に新しいという方も多いと思います。
    これまでの「モスクワ放送」に替え、新たに「ロシアの声」という名称を導入したのはモスクワからの外国語放送が始まってからちょうど65周年にあたる1994年10月29日。
    当時のエリツィン大統領が発した大統領令によるものでした。
    国際放送「ロシアの声」は名実共に新たなスタートを切ったわけです。

    同時にソ連が消滅してから現在までの16年間、私たちの放送はこれまでにはなかったような数多くの問題に見舞われる苦闘の時代を迎えなければなりませんでした。
    放送の規模も予算も大幅に縮小し、施設の老朽化や規律のゆるみによる不祥事も何度か起きてしまいました。
    そして1997年には日本語放送の存続そのものが危ぶまれる事態となり、モスクワ放送の長い歴史の中でも最大の危機の1つに直面しています。
    しかしこの時、多くのリスナーの方が日本語放送廃止に反対の声を挙げて下さったことは私たちにとって何よりの支援となり、放送存続の力となるものでした。

    前回、日本語放送開始60周年の記念番組をお届けしてから今までの5年間を思い起こしてみても、その変化の大きさに目眩を感じるほどです。
    例えば2003年にはハバロフスク支局が大幅に縮小し、モスクワからの放送枠が2時間に増やされましたし、デジタル録音化に伴う新しいスタジオへの移動、日本人スタッフの部屋へのパソコンの導入など5年前の仕事がはるか昔の話に思われるほど全てが大きく変わっています。
    そしてこの大変動の時代はまだ終わらず、これからもしばらくは続くのでしょう。

    さて今年2007年には日本語放送にとってもう1つ記念すべき日付けがあります。
    「ロシアの声」日本課の日向寺康雄アナウンサーが、ちょうど20年前の1987年の12月17日にモスクワへ到着、日本語放送で働き始めたのです。
    今回、番組を作成するにあたって様々な資料に目を通しましたが、今このラジオ局で働いている私たちにとってさえとても興味深く、そして劇的な日本語放送がたどった道のりを振り返ることができました。
    リスナーの皆様にも私たちの放送の歴史により大きな関心を持っていただければ幸いです。

    もちろんこの番組でお伝えしましたのは日本語放送開始より65年を経た段階での視点から振り返った歴史であって、これから70年、75年と年を重ねることで少しずつ過去に対する見方も変わってくるかもしれません。
    その時には今回の65周年記念番組、あるいはそれ以前の番組の内容と比較することで「ロシアの声」の歴史を立体的にとらえることができるのではないでしょうか。

    臨時企画 2007年4月14日土曜日 「ロシアの声」日本語放送開始65周年前編

    臨時企画 2007年4月14日土曜日

    A.テーマ
    「ロシアの声」日本語放送開始65周年前編
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2007/04/14/417987/


    C.本文

    今年2007年の4月14日は 私たち 「ロシアの声」 日本課にとって大切な記念日にあたっています。
    今からちょうど65年前・1942年のこの日、 「ロシアの声」の前身であるモスクワからの国外向けラジオ放送が日本を対象とした日本語放送を開始したのです。
    つまり今年の4月14日は「ロシアの声」日本課が誕生してから65歳の誕生日ということになるわけです。

    もちろん「65周年」と言いましても50年や100年、あるいは人間にとっては還暦にあたる60年などと比べるとそれほどキリのいい数字だとは感じられないかもしれません。
    しかしその一方で戦争や体制の変化など激動の歴史を乗り越えてきた現在の「ロシアの声」日本語放送にとっては全ての記念日が重要なものであり、 記憶にとどめる価値を持っていることも確かだと思います。

    現在の国営ラジオ放送「ロシアの声」、かつてのモスクワ放送が誕生したのは1929年10月29日。
    当初はドイツ語のみの放送でしたが、やがてフランス語、英語などの放送がこれに加わり、当時のソヴィエト連邦からの外国向けラジオ放送は少しずつ活動の範囲を広げていきます。
    そして1942年4月14日、遂に日本人を対象とした日本語での放送が始まりました。
    モスクワ放送自体の開局からおよそ12年半後の出来事でした。

    残念ながら日本語放送の開始は平和な状況の中で実現したわけではありません。
    日本語放送が始まった年・1942年は日本にとってソ連にとって、そして全人類にとっても血なまぐさい悲劇的な年であったのです。
    1942年、それは戦争の年でした。
    1942年(昭和17年)は1939年に第2次世界大戦が始まってから3年目にあたっており、とりわけ1941年6月22日にドイツ軍がソ連への攻撃を開始、また同じ年の12月7日には日本が真珠湾攻撃によって連合軍に戦いを挑んだことで、戦争の規模は一気に拡大していました。
    陸、海、空、あらゆる場所で戦いに次ぐ戦いが続き、多くの人の命が失われています。

    まずソ連は1941年から42年にかけての冬に、進撃を続けるドイツ軍の手から首都モスクワを守り切り、何とか一息つくことに成功しました。
    しかしながら42年の春にはウクライナ東部の街・ハリコフをめぐる戦いで再びドイツ軍が主導権を奪い返し、カスピ海及びカフカース方面へと進撃します。
    そして6月には第2次世界大戦で最も重要な戦いの1つであるスターリングラードの戦いが始まり、年をまたいで43年の2月まで続きました。

    一方の日本も1942年(昭和17年)にはアメリカ・イギリスなどの連合国と激戦を展開していました。
    この年の5月7日には日米両国の機動部隊が珊瑚海海戦で激突、続く6月5日のミッドウェー海戦では日本が4隻の空母を失って敗退しています。
    その後日本とアメリカはガダルカナル島攻防戦で激しい戦いを繰り広げますが、国力に劣る日本はこの一連の戦いで多くの航空機と艦船を失い、戦力を消耗させていきました。

    全体として1942年が始まった段階ではまだドイツ・日本・イタリアの枢軸国が優位を保っていましたが、連合国側も各地で巻き返しており戦局は大きく動いていました。
    1942年は第2次世界大戦の帰趨を決める重要な戦いがいくつも起きた年だったのです。

    この時期のソ連と日本との関係は複雑で矛盾したものでした。
    1939年にノモンハン事件で軍事衝突を経験した両国は1941年4月には日ソ中立条約を結び、当面は戦争を回避することで合意します。
    しかし同時に日本はソ連と死闘を繰り広げるドイツと同盟関係にあり、またソ連は日本と敵対関係にあるアメリカやイギリスと連合を組んでいたため、両国が基本的に対立する2つの陣営に分かれていることは明らかでした。

    ソ連が最も警戒していたのは日本がドイツに協力し、ソ連との戦争に参入することでした。
    もしもそうなればソ連は東西2つの戦線での戦いを強いられるからです。
    これを防止するため、日本の国民にソ連発の情報や主張を伝え、少しでもソ連の側に引き寄せる宣伝が急務となりました。
    そして当時これを可能とするメディアはラジオしかありませんでした。

    ちなみにこの時期のソ連は外国向け放送の規模を急速に拡大しており、日本語放送と前後してトルコ語、ヒンディー語、パンジャブ語、アラブ語の放送を次々に開始していました。
    これに対して日本の側もモスクワからの日本語放送がスタートしてから1か月後の1942年5月には、NHKラジオによるロシア語放送を始めています。
    激化する一方の戦争を勝ち抜くため、どの国でも情報・宣伝戦が熾烈なものとなっていたわけです。

    こうして今からちょうど65年前の1942年(昭和17年)4月14日、モスクワから日本に向けてのラジオ放送がスタートしました。

    今お聞き頂いていますのは日本語放送が始まって以来、オープニングの曲として使われていた音楽「祖国の歌」です。
    当時この「祖国の歌」に続いて日本に送られていた放送は1日わずか30分。
    スタッフもロシア人・日本人合わせて数名という小さな規模のものでした。
    日本課の初代課長はステパン・コルムィコフさん。
    就任当時のコルムィコフ課長はまだ32歳という若さで1942年から1951年までの9年間、日本課を指導しています。
    また副課長として働いていたセルゲイ・クリメンコさんはロシアを代表する詩人アレクサンドル・プーシキンの6代目の子孫にあたる人物で、ドイツとの戦争が始まった当初はモスクワの高射砲部隊に配属されていたといいます。

    一方の日本人スタッフですがソ連と日本との交流など望むべくもなかったこの時代のこと、人材の確保は極めて困難であり、ソ連に亡命してきた日本人の社会主義運動家やその関係者が主なメンバーとなっています。
    まず当時唯一の翻訳員であった野坂竜(りょう)さんは日本共産党の指導者の1人・野坂参三の夫人でした。
    またアナウンサーは周りから「むへんさん」もしくは「むへんしゃん」と呼ばれていた男性ですが、この方については本名も含め分かっていないことが多いようです。
    「ロシアの声」に残っているデータによれば1896年に福岡で生まれ、炭坑や貨物船などで肉体労働者として働くかたわら労働組合運動に携わり、最終的に国境を超えてソ連へやって来ました。
    むへんさんは勤勉かつ善良ですが、ちょっと風変わりなところのある人物で、冬にはスケートで職場まで通っていたというエピソードがあります。
    また言葉に強い九州訛りがあったためアナウンスには苦労していたとも伝えられています。
    そしてもう1人、戦前の日本を代表する社会主義運動家・片山潜の娘である片山やすさんが補助のアナウンサーとして放送に参加していました。

    後にこの片山やすさんが放送局に勤務していた時のことを振り返った貴重な音声が残されています。
    1967年、日本語放送開始25周年記念番組の中で放送されたもので、インタビュアーは同じく日本語放送でアナウンサーとして勤務していた女優・岡田嘉子さんです。
    岡田嘉子さんも含め、当時のモスクワ放送で働いた日本人スタッフの方々は自らの意志で日本を離れてソ連に入国し、そして様々な苦労や悲劇を経験されています。
    それからすでに長い年月が過ぎ去り、ソ連はすでに解体、また社会主義に対する見方も大きく変わっている現在の日本では、こうした人々の行動は理解されにくくなっているかもしれません。
    もちろん冷静かつ客観的な歴史的評価は必要でしょうが、しかし時代の制約の中で自らの信念を貫き、敢えて亡命という困難な道を選んだ人々がいたという事実だけは否定できるものではありません。
    「ロシアの声」日本語放送の歴史のみならず、日本の歴史そのものを振り返る上でも、彼ら日本人亡命者の歩んだ道のりにもっと光をあてる必要があるのではないでしょうか。

    もちろん戦時中の日本では潜在的な敵国であるソ連からの放送を聞くことが許されるわけもなく、そもそも外国からの短波放送の受信自体が禁じられている状況でした。
    この当時どれくらいの日本人がモスクワからの日本語放送に耳を傾けていたかそれは分かりません。
    しかしながら日本の当局の目を盗み、隠れてモスクワ放送を聞いていた人々がいたことは確かで、後に当時のことをお便りに書いて下さったベテランリスナーもおられます。
    一方で日本軍の指導部も対ソヴィエト戦略の研究のためにモスクワ放送を聞いていたと言われています。
    今後戦時中の日本語放送がどのように受信され、どのように受け取られていたかという歴史についても、掘り起こし作業が進むことを期待したいと思います。

    1945年、遂に第2次世界大戦が終結。
    世界にあまりにも多くの犠牲と悲しみをもたらした戦争が終わり、全ての人々が待ち望んだ平和が戻ってきます。
    そしてこの戦争に勝ち抜いたソ連はアメリカと並んで世界を二分し、社会主義陣営の盟主として巨大な影響力を発揮するようになりました。
    冷戦時代の始まりです。

    これに伴いモスクワからの日本語放送も新たな時代に入りました。
    これ以前、つまり戦争中の放送は具体的な戦況の報告などが中心であったのに対し、戦後になるとより幅広い内容のニュースの提供、あるいはソ連や社会主義体制の宣伝などが必要とされています。
    放送時間は徐々に拡大され、スタッフの数も放送開始当初に比べて増えていきました。

    戦後になって新しく加わったメンバーとしては、まず最初に岡田嘉子さんの名前を挙げる必要があるでしょう。
    戦前の日本で舞台・映画に活躍した花形女優であった岡田嘉子さんは演出家・杉本良吉氏との恋を貫き、また演劇界に新たな方法論を打ち出していたソ連で劇を学ぶため、1938年1月3日、サハリンから国境を超えてソ連に亡命します。
    しかし時代はあまりにも厳しいものでした。
    当時のソ連ではスターリン体制下で粛清の嵐が吹き荒れており、2人はスパイ容疑で捕らえられます。
    そして杉本氏はすぐに銃殺、岡田さんも10年にわたって様々な苦難を経験することになりました。

    その岡田嘉子さんがモスクワ放送に入り、日本語放送のアナウンサーとなったのは1948年。
    それから6年後の1954年にはモスクワ演劇大学に入学し、演劇人としての本来の活動を行なっていますから、モスクワ放送だけで働いていた期間は意外に短いのですが、それでもラジオから完全に離れることはありませんでした。
    女優としての豊かな経験を持ち、また美しい日本語についてとりわけ大きなこだわりを持っていた岡田さんは長年にわたって日本語放送のアナウンサー陣を支える大黒柱的な存在でした。
    さらに演劇や文学を初めとするロシア文化を日本に紹介する上でも重要な貢献を行なっています。

    今年2007年の4月21日は岡田嘉子さんの生誕105周年。
    また2月10日は岡田さんが亡くなってから15年目にあたっています。
    今年は「ロシアの声」日本語放送だけではなく、この放送を支えた偉大な女優・岡田嘉子さんに関係する重要な節目の年ともなっているわけです。

    一方、1946年12月3日にはハバロフスクに支局が開設されましたが、後にモスクワからの放送の規模が拡大するとハバロフスクで働いていた日本人職員の一部が応援のためモスクワに送られるようになります。

    ハバロフスクからやって来たスタッフの多くは戦後シベリアに抑留されていた元兵士で、ソ連側からの説得に応じ、社会主義の理想を信じてソ連に残ることを決めた人々でした。
    こうして清田彰(あきら)や川越史郎、滝口新太郎、石井次郎といった、優れた語学の能力を誇り、放送への熱意を持った新たな人材が加わって、モスクワからの日本向け放送を支えていくことになります。

    このうち川越史郎さんはソ連崩壊後に『ロシア国籍日本人の記録』という回想録をまとめています。
    その中では川越さんと清田さんがモスクワに到着した当時のこと、そしてラジオ局での仕事の様子について次のように回想されています。

    (略)

    日本語放送の元職員である川越史郎さんの回想録『ロシア国籍日本人の記録』より、その一部をご紹介しました。
    この『ロシア国籍日本人の記録』は「ロシアの声」日本課の歴史ばかりでなく、激動の20世紀を生きた1人の日本人の記録として極めて興味深いものであり、機会があれば是非ご一読されるようお勧めします。
    なお、『ロシア国籍日本人の記録』は1994年に中公新書として出版されています。

    ところで川越さんの回想に登場した「ツェホーニャ課長」というのは初代課長コルムィコフさんの後を次いで2代目の日本課長となったイヴァン・ツェホーニャさん。
    また「ゴーリキー街」と呼ばれている通りは現在は「トヴェルスカヤ通り」と改名されているモスクワ市のメインストリートです。
    さらにラジオ局の所在地も職員の待遇も今とは全く異なっており、現在働いている私たちにとっても改めて歴史を感じさせる描写となっています。
    ちなみに日本人スタッフが勤務していたスタジオが現在の場所、ピャートニツカヤ通り25番地に移ってきたのは1961年のことでした。

    こうして新たな職員を迎え、モスクワからの日本語放送は質量共に充実していきました。
    今、私たちの手許には1962年から63年春にかけての日本語放送の番組表がありますが、これによりますと当時の放送時間は日本時間の17時から23時半まで。
    つまり1日に6時間半もの放送をこなしていたわけで現在と比べると隔世の感があります。

    この時期の番組のタイトルを見てみますと、ニュースや時事解説の他に音楽、科学技術、文化などの番組は現在と同じですが、その他に「社会主義諸国めぐり」「労働者の時間」「イデオロギー問題の解説」などといったタイトルが並んでいて時代を感じさせます。「ロシア語講座」も初級と上級に分けて実施されていました。
    また毎週金曜の深夜には「切手蒐集家のために」というユニークな番組も放送されています。

    もちろん毎日・毎週のニュースや定期番組ばかりでなく、ソ連内外で特筆すべき何らかの重要な出来事があれば、これをクローズアップして伝えることもありました。
    例えば1957年、つまり今からちょうど50年前の10月14日に実現した世界最初の人工衛星・スプートニク1号の打ち上げを初めとする宇宙関連のニュースは、しばしばモスクワ放送を通じて日本へ伝えられています。
    当時のソ連の宇宙開発は文字通り世界をリードしており、社会主義の優位を示す輝かしい成果として大々的に取り上げる価値があったわけです。
    あれから50年の歳月が過ぎ、21世紀を生きる私たちの感覚ではソ連の宇宙開発を讃えるこうした放送はいかにも時代がかったといいますか、国家やイデオロギーを称揚するプロパガンダ的な性格が強く感じられてしまうかもしれません。
    もちろん日本とは対立する社会主義圏からの放送として宣伝という要素が強かったことは確かです。
    その一方で、世界を二分する巨大な陣営のリーダーであるソ連から様々な分野での達成についての情報を送るという一種の高揚感、そして使命感が伝わってくることもまた否定できません。
    ソ連時代とはそのような時代だったのです。

    また東西冷戦という条件の中、政治的な対立や危機が放送のテーマとなる場合も少なくはありませんでした。
    例えば1962年に発生し、世界を核戦争の瀬戸際にまで追い込んだキューバ危機もその1つです。
    実はこの当時放送された時事評論の原稿、今となっては非常に貴重な原稿が1部残されています。
    解説員の名はイリンスキー、また日付けは「1月18日」とされていて年は分かりませんが、おそらくは1963年のものでしょう。
    それでは「カリブ海危機の教訓」と題するこの評論の最初の部分をご紹介したいと思います。

    (略)

    今から40年以上も前に書かれたこの原稿は当然のことながらすっかり黄ばんでしまっていますが、青いインクで書かれた几帳面な手書きの文字はとても読みやすく丁寧な仕事であるという印象を受けます。
    またテキストのところどころに線が引かれ、アナウンスするにあたって強調する部分が指定されているのも印象的でした。
    私たちの先輩にあたる昔の翻訳者やアナウンサーがどれほど真剣な態度で放送に取り組んでいたかを物語る大切な資料だと言えるでしょう。
    同時にこのテキストからは冷戦時代の張り詰めた緊張感・緊迫感も生々しい形で伝わってきます。
    一歩間違えば人類を死滅させる核戦争が起こりかねないという事件のニュースを当時のスタッフはどのような気持ちで伝えたのでしょうか。

    もちろん放送の中で取り上げられたのは国の威信をかけた大事業や重大な国際問題だけではありません。
    ソ連各国の文化や伝統を紹介し、日本の人々に親しんでもらう上でもモスクワ放送は大きな役割りを果たしていました。
    とりわけ、自らも一流の演劇人であった岡田嘉子さんはロシアの文学や演劇を日本に伝えるため積極的に活動し、数々の名番組を生み出しています。
    その中から少し時代は下りますが、1968年にマクシム・ゴーリキー生誕100年を記念して作られた朗読番組、ゴーリキー作の「イゼルギリ婆さん」より「ダンコの心臓」をお届けしましょう。
    なお朗読の前に作品の解説を行っているのは岡田嘉子さんの伴侶であった滝口新太郎さんです。

    (略)

    前半では第2次世界大戦の最中・1942年に日本語放送が始まってから戦争が終わり、放送の規模が拡大され、その体制が固まっていった時期、具体的には1963年代頃までを取り上げました。
    この比較的短い期間の中でも日本語放送は様々な歴史的事件をくぐり抜け、激動の時代と共に歩んできたことがお分かり頂けたかと思います。

    「ロシアの声」日本課65周年記念番組、次回の後半ではソ連時代後期からペレストロイカ、ソ連の崩壊と新生ロシアの誕生、そして現代に至るまでの歴史についてお話ししたいと思います。
    どうかお楽しみに。

    スポーツの時間 2007年4月11日水曜日

    スポーツの時間 2007年4月11日水曜日

    A.お題

    1.2001年から2007年までの6年間を振り返り、ロシア・スポーツ界の動き
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2007/04/25/418018/


    お答えします 2007年X月X日木曜日

    お答えします 2007年X月X日木曜日

    A.お題
    ロシアの子どもは将来なにになりたいと思っているか


    翻訳アナウンス:

    情報元:
    https://web.archive.org/web/20070517145209/http://www.ruvr.ru/main.php?lng=jap&w=2
    02.04.2007, 11:16 ロシアの子どもは将来なにになりたいと思っているか

    C.本文



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