シベリア銀河ステーション 149回目 2007年9月29日土曜日

    シベリア銀河ステーション 149回目 2007年9月29日土曜日


    A.お題

    1.





    情報元:
    https://web.archive.org/web/20071006123156/http://www.geocities.jp/pechika041029/
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    文化の世界 2007年9月25日火曜日

    文化の世界 2007年9月25日火曜日

    A.お題

    1.生誕75周年を迎えるエフトシェンコの詩




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/134

    お答えします 2007年9月20日木曜日(チャイコフスキーとそのパトロンのフォンメック夫人)

    お答えします 2007年9月20日木曜日

    A.お題
    チャイコフスキーとそのパトロンのフォンメック夫人
    http://japanese.ruvr.ru/2007/09/24/418216/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/tchaikovsky

    再放送日時
    2015年3月5日21時台

    C.本文

    それでは今日のお話をはじめましょう。
    男は才能ある音楽家。そして女は11人の子に恵まれながら、人生に失望し、早くに老いを迎えてしまった未亡人。
    男は貧しく、女はあふれんばかりの富を手にしている…
    今日はそんなふたりのお話です。でも、このふたりの物語を始める前に、もっと昔のことからお話しましょう。

    1
    リガの生まれであるカルル・フォン=メックは19歳で故郷を離れ、当時才能ある若者なら誰でも目指したサンクト・ペテルブルグへと向かいます。
    勉学の道を究めるためでした。
    ペテルブルグの交通大学で学んだカルルは卒業後、帝政ロシアの交通省へ就職を果たします。
    そして鉄道の状態を検査して地方を回るうち、たどり着いたスモレンスク州の片田舎でカルルは生涯の伴侶を見つけるのです。
    フォン=メック夫人カルルの出会った領主の娘ナジェージュダ・フロロフスカヤは当時15歳。
    ナジェージュダは学校に通わず家庭教師にならって教育を受けていたものの、その内容は実に多岐にわたっていました。
    幼い頃から音楽に親しんだ彼女はピアノを学んでいたのです。
    未来の夫カルルとの年の差は10歳。
    そのナジェージュダは出会いから1年後の1848年、すでにナジェージュダ・フォン=メックと姓を変えていました。
    結婚当初のふたりの生活は非常につつましく、小役人のもらうほんのわずかな薄給で細々と暮らしていました。
    何とか帳尻を合わせて営む生活はいつも苦しく、おなかいっぱいになるまで食べた記憶もありませんでした。
    そんな生活のなか二人の間にはひとりまたひとりと次々に子どもが生まれていったのです。

    2
    ほとんど切れ目無く子どもを宿しながらも、ナジェージュダは天性からエネルギッシュで活動的でした。
    1860年カルル・フォン=メックが自らの小役人としての職を捨て、当時ロシアで始まったばかりの新しい事業である鉄道の建設に乗り出したのもまさに妻ナジェージュダの言葉が後押しになったからです。
    カルル・フォン=メックはロシアにおける民間鉄道建設のパイオニアーとなり、家族のために巨万の富を築きました。
    それでもこうした富は一度に訪れたのではありません。
    大きな財産を築くのにはフォン=メック家は15年の歳月を要しました。
    ナジェージュダも夫に劣らぬ役割を果たしました。
    仕事の手紙のやり取りを行い契約を結び、かいがいしく働き続けました。
    やがて家がひと財産を築きあげたあと、新興百万長者の奥方の顔にはその若さには似合わない悲しげな皺が刻みこまれ、瞳には憂いが漂っていました。
    夫は妻の活躍を評価せず、子どもたちはあまりにも支配的で活動的な母によりつこうとしなかったのです。

    3
    1876年、45歳の若さで夫を亡くしてしまったナジェージュダは巨額の資本と株のほかに、ロシアとフランスに大きな土地と屋敷を抱える一人の未亡人となりました。
    夫の死後、遺言状による後継者となったからには、妻であるナジェージュダにはいっとき、この鉄道事業と生産事業に取り組まねばならない時期がありました。
    それでもこんなに裕福なのに幸せだけが一向に訪れないのです。
    広い海原のようにあふれんばかりのお金を手にしているのに、彼女はその大海の上でたったひとり。
    飛ぶことに疲れた小鳥のように彷徨っているのでした。
    うつろな心の女にお金がなにになりましょう。
    それにナジェージュダはもうさびしそう微笑みがまるで歯をむき出し、恐ろしい笑いのように見える歳になっていました。
    そんなときです。
    ずっと昔音楽に没頭していたときのことが思い出されたのは。
    音楽の懐にならゆったりと身を隠すことができる。
    そこはなんて暖かで居心地のいい空間だったでしょうか。

    4
    ちょうどそんなころ36歳でモスクワ音楽院の教授を勤めていたチャイコフスキイはすでに2つのオペラを書き上げ、バレエ音楽や交響曲を作曲していました。
    チャイコフスキイは行く先々の金持ちの家で歓迎され、その音楽は多くの人々にもてはやされましたが、生活はいつもぎりぎりでした。
    たしかに音楽院で学んでいたあの学生時代のひどい生活はほとんど過去のものとなってはいました。
    学生時代、田舎の出のチャイコフスキイはおおくの嘲笑に耐えねばならなかったからです。

    1854年14歳のチャイコフスキイは傷つきやすい心に破滅的な衝撃を与える出来事に遭遇します。
    母の死です。
    チャイコフスキイの心がどこか狂ってしまったのは、コレラであっけなく母が亡くなってしまったからだけではなく、子どもにまったく関心を持とうとしない父にも原因がありました。
    そんなとき彼は14歳にして初めて音楽の創作を開始したのです。

    5
    ナジェージュダ・フォン=メックはいくにんかの若い音楽家に対し金銭的な保護を施し面倒を見てやっていたのですが、あるときそのうちのひとりが自分の教師であるチャイコフスキイのことを彼女に話しました。
    その人によればチャイコフスキイはかなり金銭的に切迫しているようでした。
    ナジェージュダはそのときすでにチャイコフスキイ作曲の音楽を聴いていましたし、音楽界では彼のうわさで持ちきりでした。
    この話を聞かせてくれたチャイコフスキイの音楽の生徒を通して、ナジェージュダはチャイコフスキイに曲を注文し、高い報酬を払ってそれを買い取りました。
    そして本当に生活が逼迫していたチャイコフスキイはこの注文に非常に気をよくしたのです。
    それからしばらくたった1876年の年の瀬、チャイコフスキイは見も知らぬ女性から一通の手紙を受け取ります。
    手紙のなかでこの女性は彼に対し、当時としてはあまりにも多額の年間6000ルーブルの援助を申し出、「このお金は、あなたが生活のためのアルバイトで気をそらさず、落ち着いて創作活動に没頭できるためのものとしてお渡しするのです」としたためていました。
    この女性はつまりナジェージュダ・フォン=メックは、この申し出をずいぶん前から考えていたのですが、チャイコフスキイがこれを侮辱と捕らえるのではないかと危ぶんで話を切り出しかねていたのです。
    ところが結果はまったく逆でした。
    チャイコフスキイは心からこの裕福な女性に感謝を表し、次のように答えたのです。

    「これからは私のペンから生まれ流れでる音のひとつひとつがあなた様へむけられたものとなりましょう。
    そしてけっして本当に決してこうして創作をしている間はたったかたときの間でも忘れはしません。
    あなた様がいらしてこそ、私が芸術家としての使命を全うするためにこうして仕事をしつづけることができるのだということを」


    というわけでこれが二人の関係の馴れ初めでした。
    そして文字通り、この創作へ傾ける愛が創作を行う者への愛情に移り変わっていったといったらおかしいでしょうか? 
    もしあなたの人生でこんな出来事が起きなかったとしたら、あなたは芸術については何もご存じない。

    6
    このようにしてはじまった一種の奨励金をチャイコフスキイは13年間にわたって受け取り続けました。
    チャイコフスキイはある友人への手紙でこう書き記しています。

    「私は、あのお方のために命を捧げねばならないほどに恩義がある。
    それだけではない。
    こうして仕事をしつづけることができる。
    これはひとえにあの方のおかげなのだ。
    これは私にとっては命よりもかけがえのないこと…」


    奨励金の続いた13年間の間、作曲家と富豪の未亡人との手紙による交際はやむことはありませんでした。
    そしてもちろんこの文通はただの手紙のやり取りではなく、音楽家とパトロンの女性とのやさしい魂の交歓の歴史だったのです。
    このドラマは暮らしをつづった話や心の打ち明け話や愛の告白に満ちていました。
    この二人のドラマは本当の意味であまりに孤独な2人の繰り広げたものでした。
    自分のパトロンが与えてくれるお金のために、何にも寄らない独立した生活を得、創作活動に打ち込むことができた作曲家は親類や近しい者たちをときにはまったくのゆきずりの貧しい者を物質的に助け善行を施していきました。
    そして女のほうは愛する人間の掛け値なしに苦しい生活の負担をかなり軽くしてやることができたのです。

    7
    文通は14年続き、その間に1200通という多すぎることもなく、また少なすぎることもないだけの量の手紙が二人の間を行き交いました。
    このナジェージュダ・フォン=メックとチャイコフスキイの書簡による交流はただの裕福な夫人と貧しい天才の文(ふみ)のやり取りにすぎないと言う人もいます。
    ところが彼らの交わした手紙によく目を通してみると別の絵が浮かび上がってくるのです。
    ナジェージュダが当初チャイコフスキイを呼ぶ際に用いていた無味乾燥な「寛容なお方」という表現はあっという間に「私の比類なきお方」「私のすばらしいあなた」という呼び名に代わっています。
    そして文章も親しさを増し打ち解けたものとなっていくのです。
    ある日のチャイコフスキイの手紙から、ご紹介しましょう。

    「親愛なる、かわいらしいお友達へ! 
    私はただ単に暮らしを送っているだけではありません。
    働いています。
    これなくして私の人生は何の意味も持たなくなってしまう。
    私がこんなふうに手紙のたびにあなたへの感謝の気持ちをさかんにふりまく必要はないとあなたはお考えでしょう。
    わかっていますとも。
    でも私という人間があなたの恩恵を人生のすべてにおいてうけているということをたった一度でも申し上げたでしょうか。
    すべてに対し感謝をしています。
    そしてあなたがいつもいつも私のことを心配してくださることにも、あなたの言葉のなかに響いているこの温かい友情の気持ちに対しても。
    あなたは私の物質的精神的幸福を支えてくださる根源なのです。
    ですからあなたに向ける感謝の気持ちには限りがありません。
    あなたのピョートル・チャイコフスキイより」


    チャイコフスキイはナジェージュダが不快に感じる出来事や気分の優れないこと、子どもとの間の難しい関係に心から同情を示し、彼女と共に胸を痛めています。
    ふたりは読んだ本についてその感想を交わし、出かけた国の印象をつづり合ってもいます。
    またチャイコフスキイが新たな作品を書くたび、ナジェージュダはいつも率直な意見を述べていました。
    これに対してチャイコフスキイもナジェージュダと新しい創作のプランを分かち合っています。
    たとえば「エヴゲーニイ・オネーギン」のオペラを手がけ始めたとか、交響曲第4番を書き始めていて、これは彼女に捧げるものとするのだ、といったことが手紙に残されているのです。

    8
    あるときチャイコフスキイは手紙で「自分の才能を崇拝する、ある女性との結婚を決意した」と打ち明けます。
    この手紙はナジェージュダの心を激しく撃ちました。
    28歳のアントーニナ・ミリューコヴァとの結婚から2年たったあと、ようやくナジェージュダはそのときの衝撃について自分の崇拝者にこのようにうち明けています。

    「あなたが結婚なさったときはほんとうにつらかった。
    心臓からなにかがもぎとられたようでした」


    このエピソードから察するにチャイコフスキイは音符を読むことは上手でも、女心を読み取ることは下手だったのです。
    彼はもう若くはない、この女の心のなかに自分が赤々と燃える炎をたきつけてしまっていたことを知りもしませんでした。
    女は男に惚れ、盛りをすぎた孤独な女だけがたどりつくことのできる愛情表現で一心にこれを愛していたのでした。

    それにしてもチャイコフスキイのこの結婚生活はなにひとついいことをもたらしませんでした。
    家庭生活は悪夢へと様変わりしてしまったのです。
    このときナジェージュダのほうがむしろ離婚を急ぐチャイコフスキイをなだめ、じっと耐えていればそのうち気に入るようになるからとときふせていたのですが、
    チャイコフスキイのほうは今にも自殺しかねないという状態にまで陥っていたのでした。
    この不幸な結婚で深い心の傷を受けてしまったチャイコフスキイは外国へと旅立ちます。
    最初はドイツ、そしてイタリアと旅するうちに心の傷はすこしずつ癒えてゆきました。
    1877年10月イタリアから送った手紙にチャイコフスキイはこのように書いています。

    「イタリアで、2つ、いいことがありました。
    フィレンツェで弟と夕方の街をぶらついていたときのこと、ふと街角から歌声が聞こえてきたのです。
    みると10歳か11歳くらいの少年がギターに合わせて歌っていました。
    その声のすばらしいこと。
    すべてが完璧でこんなふうに心に染み入る歌声はプロの声楽家でもめったにおめにかかることはありません。
    ただただすばらしかった。
    2つめはヴェネチアでのこと。
    私の止まっていた宿にときどき街角の歌うたいが小さな娘をつれてやってくるのですが、その歌のひとつがすごくいいんです」


    9
    チャイコフスキイがフィレンツェで聞いた歌は彼の「イタリア歌曲」と「子どものアルバム」のテーマとなりました。
    そしてヴェネチアで聞いて気に入ったという歌のメロディーは「子どものアルバム」のなかの小品「さめてしまった夢」と「手回しオルガン弾きは歌う」に使われています。

    旅の翌年の1878年、チャイコフスキイはふたたびナジェージュダに曲の構想についてうち明ける手紙を書いています。
     
    「何の前触れもなしに突然私をメランコリーが襲いました。
    それがもうひどく重い憂鬱で丸一日吹き飛ばすことが出来なかったくらいでした。
    自分の心の中を覗き込み、耳を傾けてみて、私はすぐに、憂鬱の出でころをつきあてました。
    それは良心の声だったのです。
    遊び暮らしていることを責める良心の声が私をさいなんでいたのでした。

    《私はふたつの大仕事を成し遂げたばかりじゃないか。
    ゆっくり休んで病気を治す必要があるんだ》と、どんなになだめてもだめなんです。
    良心が私をさいなみ続けます。
    そうこうするうちにようやく私はわかったんです。
    ただ仕事を始めなければならないということが。

    大きな作品の作曲を行うにはまったくの孤独が必要です。
    ということは秋を待たねばなりません。
    でも小品をいくつか書くというのであれば、そこまでの孤独はいらない。
    そこで毎日朝から書き始めて一日ひとつの作品をあげることにしました。
    昨日はロマンス、今日はピアノのための小品という具合にです」


    10
    さてここまでご紹介してきまして、もうひとつ付け加えるべき事実があります。
    実はこのふたり、大作曲家と富豪の未亡人というパトロンは生涯顔を合わせるということがなかったのです。
    双方とも会わねばならないという必要性を感じていなかったのでしょう。
    見も知らない、しかしながら本当に忠実な友との交流はこの二人の心がもとめるところを十分に満たしていたのでした。
    それでもこの二人がまったくお互いの顔を見たことがないかというと、実はそうではありません。
    これについてはチャイコフスキイがナジェージュダにあてたある手紙を覗いて見ましょう。

    「昨日の晩、劇場であなたの姿をはっきりと目にしました。
    どんなに私がうれしかったかいうまでもないでしょう。
    しかもその前の日にあなたの気分がすぐれないとうかがっていたのですからなおさらです。
    私もあなたと同じように、つまり2幕目が終わったところで劇場を後にしました。
    私はまさにあなたが私を見かけられたというトランペットとトロンボーンの近くに座っていたんですよ…」


    11
    このふたりの顔の見えない不思議なやりとりについて、ナジェージュダ自身もあるとき開けっぴろげなことを書いたことがありました。

    「何にも変えがたい、この最高の魅力とあなたにむける私の友情の詩情は、私たちが月並みな《見知らぬものどおし》という言葉どおりの関係にあるということにもあるんですわ」

    さてこの二人のお話はその始まりのときとまったく同じ1通の手紙によって終わりました。
    1890年最初のやりとりがはじまって13年という月日が流れたある日、チャイコフスキイはある手紙を受け取ります。
    そこには資金援助を辞めざるを得ない状況になったと告げられていました。
    ナジェージュダの手紙は「ときおり、私のことを思い出してくださいね」というせりふで締めくくられていました。

    12
    それから3年後の1893年8月、チャイコフスキイは自分の最後の仕事である交響曲第6番「悲愴」を書き上げます。
    そしてその年の10月28日、作曲家自らがそのタクトをふりました。
    「悲愴」はチャイコフスキイの作品の頂点をなすものであることは、時代とともに真実となりましたし、作曲家自身もこれこそいままでの集大成となる傑作だと信じてやまずに自信満々で指揮をおこなったというのに、聴衆はまったく理解をみせなかったのです。
    チャイコフスキイは初演で受けた冷たい反応にすっかり打ちのめされてしまいました。
    そしてそれからたった6日後の1893年11月2日、チャイコフスキイは息を引き取り、サンクト・ペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキイ修道院に葬られたのでした。

    13
    そしてもちろん誰も知らなかったでしょう。
    新聞の死亡蘭でチャイコフスキイのこの突然の死を知ったときのナジェージュダ・フォン=メックの心中を。
    最後に彼女にあてた手紙のなかでチャイコフスキイはこんなことを書いていたのでした。

    「私のすばらしい大切なあなた。
    あなたがこの手紙を受け取られるとき、私はあなたの人生のなかにはもういないでしょう。
    わたしたちはこの崇高なゲームを行い、最後までそれをやり遂げたのです」


    ナジェージュダ・フォン=メックはこの大切な友に3月遅れることして人生を閉じました。
    1894年冬、彼女のなきがらはモスクワのノヴォアレクセーエフスキイ修道院の夫と息子、そして娘の眠る傍らに静かに下ろされました。
    ただしこの修道院はその後取り壊されてしまい、一家の墓標はもうあとかたもありません。
    とこれが今日のお話です。

    14
    さて番組を閉じる前にひとつお知らせがあります。
    実はもうそろそろこの二人の書簡本が完全版で出版されることになっているのです。
    この文通は1930年代に初めて出版されましたが、かなり削除されたものでした。
    今度の4巻本は全文そのまま削除されないかたちで出されます。
    その手紙のオリジナルはモスクワから100キロ北へのぼった、トヴェーリ州クリン市のチャイコフスキイの家博物館に大切に保管されています。

    文化の世界 2007年9月18日火曜日

    文化の世界 2007年9月18日火曜日

    A.お題

    1.




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/134

    お答えします 2007年9月13日木曜日 (ソチ)

    お答えします 2007年9月13日木曜日

    A.お題
    ソチ
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/sochi
    編集改造18分24秒

    翻訳アナウンス:真野・菅

    再放送日
    2009年8月6日


    C.本文


    お便りスパシーバ 2007年9月8日土曜日

    お便りスパシーバ 2007年9月8日土曜日

    担当:


    A.トーク





    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/132

    シベリア極東ジャーナル 2007年9月8日土曜日

    シベリア極東ジャーナル 2007年9月8日土曜日

    A.お題

    1.




    情報元:
    https://web.archive.org/web/20070908023650/http://www.geocities.jp/pechika041029/

    お答えします 2007年X月X日木曜日

    お答えします 2007年X月X日木曜日

    A.お題
    ロシアの労働組合について


    翻訳アナウンス:

    情報元:
    https://web.archive.org/web/20071009064027/http://www.ruvr.ru/main.php?lng=jap&w=2
    11.09.2007, 04:14 ロシアの労働組合についてっているか

    C.本文


    文化の世界 2007年9月4日火曜日

    文化の世界 2007年9月4日火曜日

    A.お題

    1.朗読:ヒョードル・ソログープの「ワマワシ」




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/137

    お便りスパシーバ 2007年9月1日土曜日

    お便りスパシーバ 2007年9月1日土曜日

    担当:


    A.トーク
    「お答えします」の予告




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/129
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