シベリア銀河ステーション 156回目 2007年12月31日月曜日

    シベリア銀河ステーション 156回目 2007年12月31日月曜日


    A.お題

    1.




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/144

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    シベリア銀河ステーション 155回目 2007年12月29日土曜日

    シベリア銀河ステーション 155回目 2007年12月29日土曜日


    A.お題

    1.




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/144

    お答えします 2007年12月XX日木曜日 (ロシア帝国ロマノフ朝 前編)

    お答えします 2007年12月XX日木曜日

    A.お題
    ロシア帝国ロマノフ朝 前編
    http://japanese.ruvr.ru/2008/01/12/418285/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/tsar_1

    翻訳アナウンス:真野・菅
    メロディ1=1

    再放送日
    2010年1月21日

    C.本文

    1
    ロマノフ家といえば1917年までロシアの領土を治めていたツァーリの家系ですが、この家系はもともとはモスクワ公国のボヤール(ある大貴族)の身分を有していました。
    ボヤールというのは日本でいえばお公家さんのような存在です。
    ボヤールのロマノフ家は13世紀、ロシアの西の土地を治めていたイヴァン・ジヴィノヴィチの治めていた土地から出た家系で、言い伝えによりますと、このジヴィノヴィチとはプロシア系リトアニア人の公の子孫にあたるのだそうです。

    ジヴィノヴィチはロシアでキリスト教に改宗し、モスクワ大公に仕えるようになりました。
    ロマノフ家の子孫からはエイゼンシュテインの映画に取り上げられたことで有名なあのイヴァン雷帝の妻、アナスタシーヤが出ています。
    ただし混乱しないでくださいね。
    イヴァン雷帝はロマノフ朝が始まる前のリューリク朝のツァーリです。
    ロシアの歴史には1400年代の半ばから1598年と、16世紀の少し前まで130年ほど続いたリューリク朝と、今からお話するロマノフ朝と2つの王朝が存在しています。

    2
    さて今までのお話はロマノフ家がロシアの王朝に君臨するずいぶん前のことですから、王朝が始まるところまで一気にお話を進めるため、数世紀時代を駆け抜けて16世紀の終わりから17世紀のはじめまで、日本でいうと戦国の世が終わろうとするころまで時計の針を進めましょう。

    この16世紀末から17世紀はじめは日本の戦国期ともリンクするのですが、ロシアもスムータ(混沌の時代)と呼ばれ、最初の王朝、リューリク朝が激しい政治的混乱に見舞われていました。
    この混乱の発端は、イヴァン雷帝の後、帝位についた、息子フョードルの崩御でした。
    実はイヴァン雷帝には最初の妻、アナスタシーヤとの間にもう一人長男のイヴァンがいたのですが、この父と子の仲は険悪で雷帝はいさかいが元で、自らの手でこの息子を殺してしまっていたのでした。
    ところが残った三男のフョードルには跡継ぎがなかったため、このままではリューリク王朝もお家断絶となりかねなかったのです。
    このためにツァーリの座を狙った戦いが何年にも渡って行われ、陰謀やねたみからあまたの血が流れました。
    しまいにはイヴァン雷帝の3番目の妻との間の子どもで幼いときに刺客に殺されたはずのドミトリイの名をかたる者まで現れましたムソルグスキイのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」をご存知のかたならお分かりでしょう。
    偽ドミトリイです。
    この偽ドミトリイは帝位にのしあがるためポーランド軍と組してモスクワを治めようとしました。
    こうした混乱に乗じてノヴゴロドもスウェーデンの手に堕ちます。
    土地を耕すものたちは貧困にあえぎ、飢えがこれを襲いました。
    こうしたカオスがロシア全土を覆ったのです。
    1611年から1613年、この混沌は内紛へと発展し、とうとう民族解放運動にまで発展したのでした。

    3
    ミハイル・ロマノフ1612年の10月、ロシアの義勇軍はポーランドの侵攻からモスクワを解放します。
    そして翌年1613年2月21日、全国会議(ゼムスキイ・ソヴォール)が召集され、このなかでロシアのツァーリの選出問題にも決着が見られました。
    このゼムスキイ・ソヴォールというのはモスクワを中心とする国家が治めるあらゆる都市のさまざまな市民層からの代表が集まって開かれたものです。
    会議では政治、経済、自治に関する問題が扱われました。
    こうして50の市から集まった700人の代表が新たな王朝のツァーリとして選び出したのが16歳のミハイル・ロマノフでした。
    ミハイル・ロマノフはイヴァン雷帝の最初の妻、アナスタシーヤの兄の孫にあたる人物です。
    その意味でリューリク朝の血筋に一番近いとされたことから、これから始まる次なる王朝、ロマノフ王朝を始める運命にありました。
    こうしてミハイル・ロマノフは1613年7月11日、モスクワのクレムリンにあるウスペンスキイ寺院で戴冠式にのぞみました。
    ロマノフ王朝の始まりです。

    4
    ミハイル・ロマノフの治世では最初の何年間かは絶え間なくゼムスキイ・ソヴォール(全国会議)が召集され、そこで国家の重要問題のほとんどが討議されていました。
    ミハイルは統治を行うにはあまりに幼年で経験不足であったため、1619年、つまり6年間はその母が事実上、国を治めていました。
    ところが1618年にポーランドとの戦争が完全に終わると、ミハイルの父親でポーランド軍の虜となっていたフィラレートが息子に代わって実権を握るようになりました。

    このフィラレートのモスクワ帰還をもってスムータ(混沌の時代)は幕を閉じます。
    ここで注意しておかねばならないことはこれから18世紀までのロシアにつづいた強健国家の特徴とはロシア正教会と堅く結びついた国家のかたちです。
    ロシアのツァーリにとって、またその臣下のものにとってロシア正教会とは絶対に服従すべき対象であり、またその命じたところにはいちもにもなく従わねばなりませんでした。
    モスクワ及び全ルーシの総主教とはツァーリにつづく国家第2の人物とされていたのです。

    5
    こうした始まったロマノフ王朝のミハイルの治世ははじめは順風満帆というわけにはいきませんでした。
    国のかなりの部分ではコサックの盗賊が跋扈し、強奪を繰り返していましたし、そうでなくても国家は弱体していたからです。
    内憂外患。
    国際関係でもロシアは多くの難問を抱えていました。
    1632年から1634年までポーランドとの間に再び始まった戦争は敗退に終わっています。
    このおかげでスモレンスクをふくむロシアの西の地方はポーランド軍の手に堕ちました。
    この敗退はロシアの軍隊の崩壊を招きました。

    6
    スムータ(混沌の時代)が終わった後のロシアは財政的に破綻した国を立て直すために多くの努力を必要としました。
    さまざまな産業を発展させるために鉱山の専門家から武器職人、鋳造の職人まで多くの外国人が招かれました。
    こうした結果、1642年、軍の改革がなされ、外国人の将校らがロシア人に軍事訓練を行ったのです。
    これはロシアが国の常設の軍隊を創設する第一歩となりました。
    こうした事業のなか、ロマノフ朝、最初のツァーリ、ミハイルは1645年7月13日、49歳で崩御したのです。

    7
    アレクセイ帝ミハイルの死後、権力の座は長男アレクセイの手に渡されました。
    このアレクセイ帝は、当時では教養人とされていて、自らの手でたくさんの御触れを書き編集しました。
    こうした御触れにツァーリ自身が署名を行うことはアレクセイ帝の時代までなかったことです。
    物静かで信心深いこのツァーリは民衆に本当に愛され「もっとも物静かなツァーリ」と呼ばれていました。

    アレクセイが即位したあと、何年間かはツァーリの教育しつけ役のボヤールたちがアレクセイに代わって国を治めていました。
    モロゾフとアレクセイの舅にあたるミロスラフスキイです。
    ところがこの2人のボヤールが顧問を務めていたころの政治はあまりにも不公平なものだったため、民衆の間にあった憤懣が爆発し、ついに暴動に発展してしまいました。
    1648年6月にまずモスクワで上がった暴徒の声はさらに南の町まちや、ノヴゴロド、プスコフに感染し、とうとうシベリアにまで到達したのです。
    この混乱を収めたのはアレクセイ帝自身でした。

    アレクセイは自らの命によって1649年に大法典を編纂しています。
    これはポサードといわれる城下町にある商工地区と、ドヴォリャニンといわれる貴族の上層部が求める基本的な要求を満たすものでした。
    またアレクセイは信頼の置ける相談役を求め、ニーコン総主教を自分の下へ近づけました。
    ところがこのニーコンが行った宗教改革はロシアに続いてきた宗教の流れを2分してしまう結果を呼び起こしたのです。
    宗教改革によって変えられた典礼に従おうとしないものたちはラスコーリニキ(分離派)と呼ばれるようになりました。
    この改革もしかり、そして教会が度を越して国内外の政治に干渉を行ったことも原因となって総主教とツァーリの間の溝は決定的に広がってしまったのです。
    ところでこのアレクセイの治世のときにロシアでは産業振興が行われています。
    関税や貿易の規則が作られたことで国内の取引も外国との貿易もさかんになりました。

    そしてこの時代の対外政治でもっとも目覚しい達成といえば1654年1月、ウクライナとロシアが統一されたことでしょう。
    この時期にモスクワは東方に拡大し、コサックによって西シベリアの開発が行われ、東シベリアへの遠征が行われてもいます。

    8
    フョードルさて、1676年、47歳の若さでアレクセイが崩御すると、その後継者として帝位についたのは長男のフョードルでした。
    フョードルはラテン語をよくし、ポーランド語を自由に読み書きし、詩をこよなく愛しました。
    ところが帝位について6年の間、フョードルはしかるべき独立の姿勢を発揮することができなかったのです。
    フョードルにかわって政治の実権を握ったのはその親戚筋のボヤール・ミロスラフスキイでした。
    そうしたフョードルの御世で行われた最も目覚しい改革とは門地制の廃止とされています。
    門地制とは軍の指揮系統を能力ではなく家柄で判断するものでした。
    この制度の廃止によって家柄がそんなによくなくても、教養があり、進取の気性がある人間に昇進の可能性が開かれました。
    このフョードルは結局1682年に22歳の若さで早世しています。

    9
    フョードルは世継ぎを残さずになくなったので、即位の可能性は彼の甥である2人の兄弟に開けました。
    イオアンとピョートルです。
    このときイオアン王子は16歳、一方のピョートルは10歳でした。
    1682年6月25日、ロシア史上最初で最後の2人同時の戴冠式が行われました。
    この式を行うためにわざわざ二人がけ用の王座が作られています。
    これはモスクワのクレムリンにある武器庫博物館にいきますとごらんいただけます。
    ただし戴冠式はしたものの、この二人の皇位継承者らはあまりに幼かったので、かわって政治の実権を握ることになったのは姉のソフィアでした。

    ピョートルはふだんは母と共にモスクワ郊外の村、プレオブラジェンスコエに住んでおり、モスクワへは公式な式典に出席するときだけ訪れていました。
    ところが兄のイオアンはもともと体が弱く、国の統治にはまったく関与していなかったのです。
    結局イオアンは重い病にかかり、戴冠式から14年後の1696年1月29日にこの世を去りました。
    この兄の崩御によって名ばかりの共同統治時代は終わり、ピョートルは唯一のツァーリとなります。
    そして帝位にのぼったピョートルはとうとう姉のソフィアを退け、当時のモスクワ郊外にあったノヴォデェーヴィチ女子修道院に幽閉したのです。

    10
    青年時代にしかるべき教育を受けなかったピョートルは生涯を通じて独学で学び続けました。
    ピョートルはツァーリとしてではなく、一兵士としてピョートル・ミハイロフと名乗り、欧州視察旅行に出かけます。
    視察の目的は後に本人が著したように3つありました。

    その1、ヨーロッパの政治生活をこの目で見ること。
    なぜなら彼もまたそれまでの歴代のツァーリたちも一度もこれを視察したことがなかったから。
    その2、ヨーロッパの例に倣い独自の国家を建設すること。
    その3、自分の例に倣って臣下の者をよその土地の視察に駆り立て、そこでのよき習慣や言葉を学ばせること。
    これが欧州視察にあたってピョートルがたてた目的でした。
    ピョートルはプロイセンで砲兵術にいそしみ、オランダでは造船術を学びました。
    また工場をまわり、図書館を見学し、大学で講義も聴講しています。
    ピョートルは西欧の実情をこの目で見たことで先進ヨーロッパ諸国とくらべ、ロシアがこんなにも立ち遅れていることを痛感し、その遅れの危機を克服するため、即急に改革を行う必要を深く認識しました。

    ピョートルは帝位についていたあいだに大きな改革をいくつかおこなっています。
    そのひとつが大貴族ボヤールのドゥーマ(会議)のかわりにセナート(元老院)制度を引いたことで、1711年、君主が首都を離れている際、代わって国事にかかわるために創設されました。
    元老院での採決は多数決で決められました。
    また1721年には総主教座が廃止され、そのかわりにシノード(宗務院)が創設されました。
    1703年5月16日、ネヴァ川の河口にある島でペトロパーヴロフスク要塞の建設が始まりました。
    この要塞はここに建設されようとする新しい町、サンクト・ペテルブルグを警備する要所となるものでした。
    こうして始まった新たな都市の建設は1712年に完了します。
    新たな首都、サンクト・ペテルブルグの誕生です。

    11
    ピョートル1世ピョートル1世は常設の軍隊と海軍艦隊を創設します。
    1708年バルチック艦隊の初の軍艦が進水式を行いました。
    それから20年後、ロシアの艦隊はすでに世界で最強のものに数えられるようになっています。
    また文化、啓蒙においてもピョートルの行った改革は意義の深いものでした。
    彼によっていままで書物といえば宗教書しかなかったところに、初の世俗文学が登場し、医療外科学校、技術学校、砲兵学校、海軍アカデミーが開かれました。
    そして新たな博物館、珍品を集めたクンストカメラや公衆の図書館、一般人に開かれたかたちで、初めて作られた劇場がオープンしたのです。

    ピョートルは暦の改革も行いました。
    1700年から使われだした新たな暦ではそれまで9月1日を新年としていたことがあらためられ、1月1日が元旦とされ、世界創造の年を起源とするのではなく、キリストの誕生した年を1年として数えるようになっています。
    つまり西欧のカレンダーに倣ったわけです。
    また新聞も発行されるようになりました。
    ロシア初の新聞はヴェードモスチ(ニュース)といいます。
    1724年、ペテルブルグ・科学アカデミーと付属のギムナジウム大学が開かれました。

    ピョートルは精力的に領土を拡大したことでも知られています。
    中央アジア、極東、シベリアへの遠征が、ピョートルの命令で行われました。
    対外政策では黒海、バルト海への出入り口が必要だという事情がピョートルの外交方針を決定しています。
    ピョートルはフィンランド湾沿いの土地でかつてロシアに所属していた部分を売却するようスウェーデンに持ちかけました。
    ところがスウェーデンが首を縦に振らなかったため、これがもとで20年以上にも及ぶ北方戦争が開始されました。
    1721年、ロシアはリガからヴィーボルグに至るバルト海の沿岸に領土を獲得することに成功し、この戦勝を祝うかたちで、ピョートルはここで初めて「全ロシアの皇帝(インペラートル)」の称号を用いることをと決めたのです。

    12
    エカチェリーナ1世それから4年後の1725年1月28日にピョートル大帝は崩御しました。
    ピョートルには正妻との間に息子アレクセイがいたものの、ほとんど自らの手で処刑したも同然のかたちになっており、また次に娶った妻エカチェリーナとの間には娘がふたりいるきりで跡継ぎといえる男子がいませんでした。
    後継者をはっきりさせないままピョートルが死を迎えたことによってロシアは長きにわたる宮中クーデターの時代を迎えます。
    しかもこのクーデターはピョートルが死んだその日から始まったのでした。

    ピョートルがひいきにしていたメンシコフ伯爵とトルストイ伯爵は親衛隊の圧倒的な支援をバックにロシア史上初めてとなる女帝として、ピョートルの2番目の妻、エカチェリーナを玉座に祭り上げました。
    こうして始まった女帝エカチェリーナの時代には国事は事実上、メンシコフの支配する最高枢密院が取り仕切っていたのです。

    1727年、ピョートルに2年遅れることしてエカチェリーナがこの世を去ると、ピョートルの正妻との間に生まれた因縁の息子、アレクセイの、忘れ形見であるピョートル2世、つまり、ピョートルの孫にあたる人物が帝位にのぼります。
    ピョートル2世このピョートル2世は祖父ピョートルに眼をかけられないで死んでいった父、アレクセイの恨みをひきついでいましたから、即位するとすぐさま自分はピョートル1世の改革に異議を唱える者であることを明らかにしました。
    そしてピョートルのたてた機関を計画的に廃止することに乗り出したのです。

    そんなピョートル2世も即位の3年後、1730年に天然痘がもとで崩御します。
    このピョートル2世も結婚式の前に死んでしまったため、これによってロマノフ家の血筋にはたった一人の男子もいない状態になってしまいました。
    最高枢密院は後継者の選択で二転三転したあと、結局ピョートル1世の異母兄弟の兄、イオアンの娘でクールランド公爵に嫁いでいたアンナを女帝として玉座に据えることにしました。

    13
    アンナところが、このアンナは女帝になると外国人を徴用しはじめロシアの有力貴族たちを相次いで失墜させます。
    アンナは国事を事実上、王室官房長のオステルマンと自らクールランドから呼び寄せた寵臣ビローンにまかせてしまいます。
    ロシア軍のトップにも、またドイツ人のミーニヒ元帥が君臨していました。

    1740年、アンナの死によって10年にわたるその支配が終わります。
    アンナは後継者として姪の息子にあたる生後たった2ヶ月の幼児イヴァンを指名していました。
    この摂政としてはアンナの寵臣ビローンがつくはずでした。
    ところが、これが長年アンナのドイツびいきを苦々しく思っていた「ロシア派」の不服を買います。
    これこそピョートル1世の娘、エリザヴェータの取り巻きでした。
    やがてエリザヴェータの名の下にロシアの貴族たちが結束し、政権から外国人を一掃し、自分たちの希望をかなえようと立ち上がります。
    ここまで、「ロマノフ王朝」の前半部分をお届けしました。

    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月21日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月21日金曜日

    A.トーク
    ロシア交響音楽!




    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/143

    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月17日月曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月17日月曜日

    A.トーク




    情報元:
    http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=9
    No.158 - 2007/12/18(Tue) 13:52:44

    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月14日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月14日金曜日

    A.トーク



    B.選曲

    1曲目






    情報元:
    http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=9
    No.158 - 2007/12/18(Tue) 13:52:44

    お答えします 2007年XX月XX日木曜日 (ロシアのアニメについて)

    お答えします 2007年XX月XX日木曜日

    06=21,28
    07=05,12,19,26
    08=02,09,16,23,30
    09=06,27
    10=04,11,18,25
    11=01,08,15,22,29
    12=06,13,20,27

    A.お題
    ロシアのアニメについて
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/cartoon

    翻訳アナウンス:真野・菅
    メロディ=1-1

    再放送日時
    2014年8月17日22時台


    C.本文

    2535
    前置

    2622
    アニメーションは最も若いジャンルの芸術です。
    少なくても劇映画の誕生より20年先行するだけのものです。
    公式にはアニメが誕生したのは1877年の7月20日とされています。
    この日フランスアカデミーの発明家、エミール・レイノー (Charles-Émile Reynaud) は段ボール箱と紙の筒を作って使ったプラクシノスコープを使い、筒を回すことによって透明なフィルムに描かれたイラストに動きを与え、活動映像を与えることに成功したのでした。
    もちろんそれから110年経った今、わたしたちが見ているアニメは、このレイノの上映したプリミティブな映像よりはるかに遠いところに到達したものです。
    こんにちアニメ映画の制作現場ではコンピューターグラフィックをはじめとし、様々な最新技術が使われています。

    2717
    アニメーションは劇映画の達成してきたすべての成果を取り込みながら、制作者に寓意や比喩やパラドックスを表現するうえでより大きな可能性を開いています。
    アニメにこうした豊かな表現方法が得られたのは撮影技術が多様化したおかげです。
    最も広く普及している形が絵コンテ・セル画による制作方式で、一方一番レアな形は人形を使ったアニメ、パペット・アニメです。
    そして絵と人形の合間にあって新たに誕生したのが、今はやりの粘土を使ったクレアニメです。
    また通称動く絵画と呼ばれるペインティングアニメでは実に面白い効果が生まれています。
    これはガラスの上に油絵の具で絵を描き、それを筆または指で混ぜ合わせながら絵を変化させていく手法です。
    これにより新たな色、線の絵が出来上がっていくのです。
    このペインティングアニメの分野でもっとも素晴らしい作家とされているのはロシア人のアレクサンドル・ペトロフです。
    ペトロフはペインティング手法を使って描いたヘミングウェイ「老人と海」」というアニメ映画で2000年度のオスカーを受賞しています。

    2831
    コンピューターグラフィックがそんなに広く使われ始める前はアニメ制作には気の遠くなるような長い作業が必要でした。
    音声のついたアニメで登場人物の動きを滑らか自然に見せるためには、1秒の映像を撮るのに24枚の絵を描かなければならないからです。
    それが1分だとその60倍の1440枚、もし1時間の映画なら10万枚近くの絵が必要になるのです。
    絵を描く作業が終わると今度は音声と絵を合わせる作業が始まります。
    この作業のなかで吹き替えを行ったときの声の音色と実際のアニメに録音された音色とではズレが生じることがしばしばありました。

    2933
    クレアニメへの代表として機知にとんだソビエトアニメの「粘土のカラス」をご紹介しましょう。
    「粘土のカラス」は1981年に有名なアニメ作家、アレクサンドル・タタールスキーが作った作品です。
    この作品はクルイロフの寓話「カラスとキツネ」を元にしているのですが、面白いところはナレーターがそのセリフを忘れてしまうという設定にあります。
    ナレーターはカラスというべきところをイヌといってしまったり、イヌというべきところでウシといってしまったり、ウシをカバにしてしまったり混乱を続け、主人公のキツネも手違いで代わりに中庭の掃除婦となったりしています。
    この映画たった5分のものなんですが、制作には800キロの粘土が使われました。
    また吹き替えは1人の人物が行ったんですが、タタールスキー監督はこの声の速度を変えることで、思いがけないコミカルな調子を得ることに成功しました。
    今お聴きの音楽ですけど、その一部です。

    3132
    アニメ映画にコンピューター技術を駆使すればもちろんのこと、作り手の作業は格段に簡略化されます。
    コンピューターグラフィックを使えば込み入った仮想映像も難なく作り上げることもできるからです。
    ところがこの夢の道具であるはずのコンピューターグラフィックですが、実はアニメ映画の制作現場では逆にアニメの他の技術を圧迫するようになってきているのです。
    これはロシアだけでなく世界のあちこちで同じ現象が見られています。
    このことを理解し、ロシアアニメの特徴を説明するには、その誕生の歴史を追ってみる必要があるでしょう。

    3210
    今年2007年3月、ロシアの古い都、スーズダリでは第12回ロシアアニメ映画祭が行われました。
    今回のアニメ映画祭では我が国のアニメ百科事典というユニークな本が出展されています。
    その執筆者であるロシアの有名なジャーナリストで映画評論家のセルゲイ・カプコフ氏はもう長年にわたってソビエト・ロシアアニメ映画を研究し続けています。
    このアニメ百科事典にはソビエト・ロシアのアニメ映画の発展に大きく寄与した5000人を超す関係者の創作活動が紹介されています。
    そうしたアニメ関係者には映画監督であったりアニメーターこと画家であったり、また劇作家やカメラマン、編集者、作曲家なども入っています。
    我が国のアニメ百科事典はソビエトとロシアのアニメ映画の歴史を余すことなく、すべて1つの本に収めて紹介したモノとしては初の試みです。
    この中では初めてロシアのアニメ映画が世界に紹介された1912年から今日までの歴史がつぶさに書かれています。

    3333
    さて、そのロシアアニメ映画の黎明期についてご紹介しましょう。
    ロシアではじめてアニメ映画を制作したのはウラジスラフ・スタレーヴィッチという人です。
    このスタレーヴィッチは小学生のころから写真や昆虫学に熱中していました。
    スタレーヴィッチ少年は昆虫採集に飽き足らず、本物そっくりの虫を没頭していたようです。
    スタレーヴィッチは学校を卒業すると、地元の郷土博物館に就職し、博物館に遭った撮影カメラを撮影して、生きた昆虫の映画を撮影し始めました。
    その映画を見た博物館の館長はスタレーヴィッチにたぐいまれなき才能があることを見抜き、青年に大都会モスクワに行き、映画作りにいそしむ様勧めます。
    そのモスクワでスタレーヴィッチはロシア映画産業の大御所、アレクサンドル・ハンジャーシャフと面識を得ます。
    ハンジャーシャフはスタレーヴィッチに中古の撮影カメラとフィルムを数本贈りました。
    これを使って1910年、スタレーヴィッチはクワガタについてのドキュメンタリー映画を作ろうと決心します。
    ところがカメラを回し始めるとクワガタは俳優としてはまったく役立たずとわかりました。
    クワガタは普段活発な昆虫ですが、撮影に必要な照明を当てると突然動きが鈍くなるのです。
    生きた虫では撮影にならないと解るとスタレーヴィッチは今度はクワガタの背中の甲羅を使ってスタントマン用の模型を作る、それを使い別のコマを回して編集を行いました。
    こうして出来上がったクワガタはアニメの中でも世界初の人形映画として世に出たのです。

    3517
    そのスタレーヴィッチですが、1912年に短編アニメの「素晴らしきユカニーダ」を撮ります。
    騎士たちのラブロマンスをパロディ化した内容のこの映画では、もう生きた昆虫ではなく、最初から昆虫そっくりの人形を使って撮影が行われました。
    その人形アニメ映画では世界中に大きな反響を呼びました。
    当時人形を使ったアニメ手法では全く知られていなかったため、多くの批評家たちが驚きの声をあげ、どうやったらあんなふうに昆虫に演技を仕込むことができるのかと盛んに書きたてました。
    実はスタレーヴィッチは、その1年後にも世界中を再び驚かせることになります。
    今回も今まで撮られたことのない手法を使って撮影が話題を呼んだのですが、それは生きた俳優と絵コンテの登場人物が一緒に演技をするというものでした。
    スタレーヴィッチはこの手法により、ロシアSF作家の草分けであるニコライ・ゴーゴリの「降誕祭の前の晩」を撮影しています。

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    ところがこんな風に大成功を収めて漕ぎ出したロシアアニメの歴史も、残念なことにその直後に勃発した第一次世界大戦、そして社会主義革命のためにかき消されてしまうのです。
    ロシアアニメ芸術はズタズタに引き裂かれてしまったロシアのなかでは忘れ去られていき、スタレーヴィッチはフランスへ亡命する道を選んだのでした。
    そうしたロシアで、いや革命後のソ連で再びアニメ映画への関心が沸き起こったのは1920年代半ばのことです。
    ところが今度は国の厳しい検閲がアニメ映画の枠を限定するようになり、内容は子供向けのおとぎ話しか、もしくは大人向けの政治的な時評に限られてしまいました。
    それでもこうした厳しい枠の中にあって、ソビエトのアニメ作家たちが作り出した良質の映画は少なくありません。
    そのなかでも至極の作品として有名なのは「ニューフガウゼンの旅」と題された Иванов-Вано イヴァノフ-ヴァノー監督のアニメです。
    この「ニューフガウゼンの旅」はルドリフ・エリフ・ラスペの書いたお話、「ニューフガウゼン男爵の冒険」を下敷きに作られています。
    新ガリバー物語は1935年に作られたものですが、これは国から直々に注文を受けて作られた映画でした。
    ガリバーの冒険の著者、ジョナサン・セイフトの政治的風刺がソビエトの社会主義的プロバカンダを背景に描かれ、ガリバーもソビエトのピオネールに編議しています。

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    続く30年代の終わり、ソ連にもアメリカのオルトディズニーのアイデアが次第に浸透し始め、その手法を実際に活かす試みが始められます。
    ディズニーの新しいテクニック、そしてアニメ制作を組織するやり方はソビエトアニメを変えていきました。
    そしてついに1936年、モスクワでスタジオ・ソユーズ・ムリト・フィルム(連邦動画連盟スタジオ)が発足します。
    このソユーズ・ムリト・フィルムは国と政府がふんだんに財政支援を行ったために、いわば素晴らしいアニメ映画を生み出すために最新の技術を供給する大きな生産コンベアの役割を果たすようになりました。
    最新の技術、そしてソ連の芸術家とアニメ映画監督の他にはない創作プランが合体して、この時期ソビエトアニメは前代未聞の大躍進を遂げます。
    ところがまたこの躍進を戦争が阻むのです。
    1941年、ソ連にナチスドイツが侵攻し、大祖国戦争が始まると映画監督も画家も前線に出て戦い、このソユーズ・ムリト・フィルム自体も南のウズベキスタン共和国のサマルカンドに疎開してしまいます。
    このサマルカンドでソユーズ・ムリト・フィルムの活動は事実上ストップしてしまい、作られたアニメ映画も反ナチスドイツを扇動する内容に限定されるようになってしまいました。

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    戦争が大勝利に終わると、国際社会は思っても見なかった局面、冷戦の時代を迎えます。
    ソ連では戦後、いかなる芸術品に対しても、それが社会リアリズムの厳格な枠を超えるものと判断された場合、共産党や政府の激しい攻撃の対象となりました。
    そしてその矛先がまず向けられたのが、SF作品やアニメ映画だったのです。
    このつらい時代を文字通り救ったのは児童文学・おとぎ話からシナリオを興し、映画化を助けたソ連の優れた児童文学者たちでした。

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    ロシアアニメ映画作家の大御所、イヴァン・ヴァノーやピョードル・キートロフといった人々が1950年代、素晴らしいおとぎ話のアニメの制作に参加しました。
    この時代につくられたおとぎ話のアニメは今日でも大人にも子供にも満ち足りた気持ちを掘り起こすいい作品ばかりです。
    「セムシの仔馬」、「雪娘」、「森は生きている」、「金色のアンテロープ」、「雪の女王」などの名はみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。
    こうしたアニメの絵は非常に高い技術力で描かれており、ハイテクを駆使して描かれた現代のアニメよりも数段上回っています。
    しなしながらそれよりも素晴らしいのは、これらの作品がヒューマニズムにあふれ、高い精神性と細やかな芸術的手法をもっていたことでしょう。
    その上このアニメのお話は人々の心を深くとらえるものだったので、見る者たちは主人公の気持ちを追体験するうちに、知らず知らずのうちに、より善良に誠実にそして勇敢な人間になっていくのでした。

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    例えば「セムシの仔馬」や「金色のアンテロープ」では本当の友情が悪いたくらみに打ち勝ち、残酷さや悪は厳しく罰せられるのです。
    ロシアのことわざに他の人間を陥れようと穴を掘るべきではない、なぜなら自分自身がそれに落ちる羽目になるのだからというものがあります。
    そのことわざがこのアニメの世界では現実のものとなるのです。
    「森は生きている」では悪い継母は、かわいそうな愛娘を新年の晩に森にやり、その時期に咲いてもいないスノードロップの花を探してくるように言いますが、愛娘はあたたかい優しい心の持ち主だったため、周りのみんなが助けたので、結局この継母は愛娘を悪者にすることができないのです。
    愛娘は12か月の月の精にとても気に入られました。
    1月の精は12か月の精と交代する新年の晩にすぐに交代に来ないよう、そして4月の精にしばらくの間地上に留まるよう約束します。
    こうして森の草地にこんもりと積もっていた雪は瞬く間に溶け、4月に咲くはずのスノードロップが顔を出すのです。
    誰かに優しい心を向ければ、必ず善良な心が答えとして返ってくる、それは周りの世界を明るく喜びで満たすものなのです。

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    1950年代のソビエトアニメは公式には子ども向けアニメとされていましたが、その詩情の香り高さと深いコンテキストが大人にもウケ、好評を博しました。
    普通子供向けアニメはハッピーエンドで終わるのですが、「雪娘」という作品にはそのハッピーエンドがありません。
    「雪娘」は詩情にあふれ、そしてほのかな悲しみを興す作品に仕上がっています。
    主人公の雪娘は子どものいないおじいさんとおばあさんが雪を固めて作った女の子です。
    やがて夏を迎えると、娘は家の中でおじいさんたちと太陽に隠れて暮らしますが、元気な近所の娘たちがやってきて、村のお祭りに行こうと盛んに誘います。
    ところがその村祭りでは少年少女たちが焚火の上を飛び越すという習慣があったのでした。
    たった一瞬でいい、みんなのようにあんな風に幸せで喜びに輝く女の子になってみたい、そんな風に切に願った雪娘はとうとうそれがどんなに危険であるかを忘れてしまったのです。
    そして焚火の上を飛び越した瞬間、雪娘は小さな雪のかけらとなって地面に落ちてしまったのでした。
    なかなか帰らない雪娘を待つおじいさんとおばあさんの家の上を白い雲が通り過ぎます。
    雲は雨を降らせて通り過ぎますが、その雨粒の落ちたところに小さな花が顔を出すのです。

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    さて特にページを割いてご紹介したいのが「雪の女王」という作品です。
    このアニメは同じ題名のアンデルセンのお話に基づいて1957年に制作されました。
    「雪の女王」は多くの賞を受賞しており、1959年には第3回イギリス国際映画祭で、その年の最優秀アニメ作品として堂々グランプリに輝いています。

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    確かにこのアニメに描かれた主人公たちは、まるで本物の人間そっくりなので、見る者はまるで一緒になって心を痛め、髄体験してしまいます。
    「雪の女王」に出てくる登場人物たちは普通のコミックスのそれとは異なり、善玉と悪玉に分けられるようなモノではありません。
    性格は物語が展開する途中で変わっていきます。
    ただしそのなかで「雪の女王」だけは変わらないのです。

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    雪の女王は外見が単に美しいだけではなく、非の打ちどころがないのですが、心は人間らしい気持ちや優しさの分け入るスキがありません。
    そういった気持ちや感情は雪の女王いわく、世界を理想的な秩序に保つためには邪魔となるのです。
    彼女の理想とする世界は全てが冷たく、クリスタルの氷のように動かない不動の秩序が支配する場所です。
    そうした雪の女王の外見の美しさに魔法にかけられ、少年カイは女王の虜になってしまいます。
    お話の一番の主人公である少女ヘルダは友達のカイを救い出すために旅に出ます。
    困難な旅を続ける中でヘルダは外的な障害や心の中の葛藤と立ち向かうことになります。
    おなかが空き、疲れ切って怖い目に遭いながら痛い目にも遭いながら進むヘルダ。
    そんなヘルダの勇気と優しさは彼女に出会ったすべてのものの心を溶かし、優しいいい心を持つように変えていくのです。
    このアニメでは自然現象にも鳥にも動物にもすべてに心があります。
    例えば雪の女王の忠実な真価である吹雪・風・氷の針は鎖につながれた猛犬のようにヘルダに襲い掛かり、ズタズタに引き裂こうとします。
    ところが少女の優しい気持ちは雪の女王の氷の宮殿をも溶かし、女王の魔法で覆われていたカベを突き崩してしまうのです。

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    さて2年前の2005年、ロシアと日本の間でテレビ通信によるテレビ会談が行われ、ロシアのアニメ作家、ユーリー・ノルシュテイン氏
    と日本のアニメ映画監督の宮崎駿さんもこれに参加しました。
    そのテレビ会談の中で宮崎さんは先ほど紹介した雪の女王を見、大きく心を揺さぶられたことがきっかけて、アニメーションの道に進んだと話され、人間の魂の持つ良い質が悪い心を打ち負かしていく様子を描く新たなアニメ映画を作りたいと思われたと語っています。
    そんな宮崎さんは2002年、「千と千尋の神隠し」でオスカー賞を受賞していますが、その授賞式では道徳価値に訴え続ける作品を作ることを創造活動の課題にしていることと語っています。
    「今日、この道徳的価値は我々の日常から次第に姿を消しつつありますが、子供の世界ではまだ健在です。
    ですからわたしは作品を通して子供たちに語りかけたいと思っているのです。」
    宮崎駿さんはこのように語っています。

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    宮崎さんが自分の作品の中で豊かに表現しているヒューマニズム的アイデアや人類が等しく共有する価値はロシアのアニメにも通じるものです。
    だからこそ宮崎さんの作品はロシア人にも親しみやすく、心を打つわけです。
    宮崎ファンのロシア人たちは作品についてネット上で頻繁に意見交換をしています。
    こんな書き込みを見ていますと、宮崎さんご自身がお読みになられたらきっと興味深いだろうという内容ばかりです。
    そうした一部をここでもご紹介しましょう。
    ペンネーム:アルセンさんは次のような書き込みをしています。
    「宮崎さんの映画には思想があり、命がある。
    見る者に深く考えさせ、そうして考え得た者は自分とともにあり続ける。
    そんな作品だ。」
    女性の宮崎ファンからの書き込みも1つ取り上げましょう。
    リューシャさんはこのように書いています。
    「宮崎駿の作品は見る者を無関心にはさせておかない。
    ここにはセンチメンタリズムはなく、まっすぐに教え諭すようなものもない。
    それでいてすべてが本当の意味で善良なのだ。」

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    テレビ会談で宮崎駿さんと意見を交換したノルシュテイン氏も、その人気がとどろいているのは祖国ロシアだけではありません。
    ノルシュテイン氏の作品は日本でも高く評価されているのです。
    4年前の2003年5月、東京で行われた第4回ラピタアニメーションフェスティバルでノルシュテイン氏の「霧の中のハリネズミ」が見事最優秀賞を受賞しました。
    その次にノルシュテイン氏が撮った映画「話の話」はトルコの主人、ナジーム・ヒクメットをモチーフに作られたものですが、この「話の話」が全時代と全人民の最優秀映画として認められ、ノルシュテイン氏自身も世界の最優秀アニメ作家と呼ばれるようになりました。
    こうした業績がたたえられ、3年前の2004年には旭日章を受章されています。

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    先ほどご紹介したラピタ・アニメーションフェスティバルですが、この組織委員会が世界140人のアニメ作家、映画批評家にアンケートをとり、一番好きなアニメ作家を20人あげてもらったことがあります。
    その結果に基づいて、世界の最優秀アニメ150選が公表されました。
    その第1位と2位を占めたのが、このノルシュテイン氏の「霧の中のハリネズミ」と「話の話」なのです。
    このほかノルシュテイン氏の4作品、「カササギとツル」、「キツネとウサギ」、「おやすみなさい子供たち」、「街頭」もこの中に入っています。
    ところで宮崎駿さんの作品も「天空の城ラピタ」をはじめとする4作品がベスト20に入っています。
    さっそくですがもちろんのこと、アニメーションフェスティバルの名前もこの映画からとられています。

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    それではこの世界最優秀アニメ150選に入ったノルシュテイン以外のソビエト・ロシアアニメをご紹介しましょう。
    ここには合わせて8作品が入っており、そこには先ほどご紹介した「雪の女王」、そして日本でも大ブレークしたロマン・カチョノフ監督の「チェブラーシカ」も入りました。
    小さなかわいい友達チェブラーシカは日本海を挟んでロシアと日本の子供たちのハートを見事つかんだのです。
    チェブラーシカの歌は今やオリジナルのロシア語だけでなく、日本語でも歌われていますが、今回はそのオリジナルのほう、つまりロシア語の歌をここでお聴きいただきましょう。

    (曲)

    5404
    ロシアのユーリー・ノルシュテインと日本の宮崎駿という2人のアニメ作家はその人生、その創造活動に共通する点が多いです。
    このことからロシア人と日本人は実は精神世界を比べた場合、意外と似通ったところが多いことに気づかされます。
    ノルシュテイン氏と宮崎さんは2人とも開戦の年、1941年に産声をあげました。
    そして2人ともアニメ制作のためにコンピューター技術に頼りません。
    その理由として2人は芸術家の創造的な人格を表現するのにコンピューターが向かないということ、そしてCGでは非常に繊細な心の琴線の震えを伝えることができないことを挙げています。
    ノルシュテイン氏はあるインタビューの中で映画は自分に食い込んでくるようなものでなければならないと語りました。
    フィルムの駒の中でどんなリズムを刻んで雪が舞い降りてくるのか知るためにも自分の心臓の筋肉がどんなリズムで刻まれているのか耳を澄ませて聞かねばならない、コンピューターグラフィックはパッとするような特殊効果を作るには適していますが、心の動きを伝えることは今の段階ではできません。
    ですから高い技術をめざし、1本1本の線にそして人形に一塊の粘土に本物の命を込めようとするノルシュテイン氏も宮崎さんもコンピューターの力に頼ろうとしないのです。
    アニメーション技術におけるこうした視線がこの2人の存在を近づけています。

    5546
    もちろんロシアにはコンピューターアニメを駆使してつくられたコンピューターゲームも少なからず人気があります。
    ふつうこのようなアニメにはアニメ映画で使われるような芸術性の高い技術は用いられません。
    だからこそ高い芸術性と高い精神性にあふれたソビエトロシアのアニメを見て育ったロシア人たちは手作業で作られたアニメに軍配を上げるのです。
    さて先日今年2007年の6月後半にモスクワで日本のアニメ作家、山村浩二さんの開いたマスタークラスはロシアのアニメファンに大きな反響を呼びました。
    山村さんの作品、頭山 (アタマヤマ) はその哲学の深さでロシアの観客を驚かせています。
    芭蕉の七部集という一つの課題を得て日本と外国のアニメ作家たちがそれぞれに短編にをと仕上げる連句アニメーションという企画に参加していた山村さんはその自分の作品をモスクワでl公開しました。
    この企画にはノルシュテイン氏も参加し、発句の部分を受け持っています。
    このほか、前に紹介したアレクサンドル・ペトロフ氏も参加しています。

    5657
    今ロシアのアニメは再び息を吹き返し、黄金期を迎えています。
    そのほとんどがコンピューターグラフィックを使った型通りのものではなく、本物の芸術作品です。
    大人でアニメ映画を見るのが好きな人はこの世でいちばんやさしい人であると言われますが、これはそっくりそのままロシアに当てはまっているのだと言えます。
    ロシアアニメはその1本1本があたたかさと愛と私情にあふれ、1人1人の主人公がしっかりとした個性をもっています。
    そして悪玉でさえ優しい心の持ち主に変わることがよくあります。
    それは善・愛・誠実さ・思いやりとは非常に大きな力を持っており、取り巻く世界をよいものへと変える力を持っているからなのです。
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    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月7日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2007年12月7日金曜日

    A.トーク
    JAZZ?音楽特集



    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/143

    シベリア極東ジャーナル 2007年12月2日土曜日

    シベリア極東ジャーナル 2007年12月2日土曜日

    A.お題

    1.



    情報元:
    http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/144

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