お答えします 200X年X月X日木曜日

    お答えします 200X年X月X日木曜日

    A.お題
    ペレスラヴリ・ザレスキー
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/travel-pereslavl
    編集改造26分33秒

    翻訳アナウンス:真野・菅
    メロディ=

    C.本文



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    文化の世界 200X年X月X日火曜日

    文化の世界 200X年X月X日火曜日

    A.お題

    1.ドストエフスキー 「白夜」作品朗読

    朗読担当:木戸・日向寺・山上



    再放送日
    2014年8月8日

    お答えします 2008年1月1X日木曜日 (ロシア帝国ロマノフ朝 後編)

    お答えします 2008年1月1X日木曜日
    10.17

    A.お題
    ロシア帝国ロマノフ朝 後編
    http://japanese.ruvr.ru/2008/01/18/418288/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/romanov

    翻訳アナウンス:真野・菅

    再放送日
    2010年1月28日

    C.本文

    1
    さて前半ではピョートル大帝が後継者を明らかにしないまま崩御し、その後短い期間で次々に皇帝がいれかわり、最後、ドイツから連れてこられたアンナ女帝がドイツびいきを発揮して、外国人を多く登用した政府をたて、政治をかき回したところまでお伝えしました。
    そのアンナが息を引き取ります。
    エリザヴェータそしてついに、1741年11月25日深夜、クーデターが起きます。
    この結果、帝位についたのはピョートル大帝の娘であるエリザヴェータでした。
    エリザヴェータは父、ピョートルの行っていた政治規範にすべて戻すことを約束します。
    クーデターは非常に迅速に行われ、一滴の血も流れるものではありませんでした。
    しかも本当の意味で社会のなかに民族的高揚を呼びこすものだったのです。
    それもそのはずです。
    新しく誕生した政府の第1席はすべて民族的感情を侮辱されたとしていままでのドイツ的な体制を転覆した社会集団の代表者らでかためられていたのです。
    このものたちの多くがクーデターまでは親衛隊のいち将校であり、シュヴァロフやヴォロンツォフといったエリザヴェータの昔からの側近でした。
    そして彼らははいまや一族郎党引き連れて政治の舞台で重鎮の役目を果たすようになったのです。
    こうした者たちに混じって政権に座を占めたのはアンナ以前の政権で活躍していた要人たちで、政権交代によって失脚の憂き目にあったり、活躍の場を逸していた人々がこのエリザヴェータが担ぎ出されたことで政治の表舞台に返り咲いています。

    エリザヴェータは帝位についた当初、自ら国事にかかわりました。
    父、ピョートル大帝の記憶に尊敬の念を抱きなから、エリザヴェータはピョートルの伝統精神に基づいて政治を行う意向でしたが、内閣を廃止し、セナート(元老院)を復活させたにとどまっています。
    とにかく第1に国事に役職を持てる層が貴族に限定され、貴族の特権となったのです。
    エリザヴェータの治世では彼女の秘密の夫であるコサック出身のアレクセイ・ラズモフスキイの一族を除いては、低い社会層からの政府に登用された例はありません。
    これは父、ピョートルが能力さえあれば、どんな低い身分のものにでも役職を与えたこととは相反します。
    外国人もめったに起用されることはなく、起用されるとすれば、その役職につくことのできる適当な知識をもったロシア貴族が見つからない場合に限られていました。

    2
    そうしたことよりもエリザヴェータがより関心を寄せたのは次に誰の手に帝位を渡すかということでした。
    とうとうエリザヴェータは当時ドイツにいたピョートル・ウルリヒをペテルブルグに呼び寄せることにします。
    ピョートルはドイツへ輿入れした実の姉の息子にあたり、エリザヴェータにとっては甥っこでした。
    この人物は1742年に帝位についてピョートル3世となります。
    この跡継ぎ問題が片付いたとたん、エリザヴェータは廷臣たちに政治の一切をまかせ、宮中生活の逸楽へとおぼれていきます。
    賢く、美しく、寛容でありながら、同時に支離滅裂なところがあり、わがままなロシアの女性エリザヴェータは、狩、舞踏会、あらゆる楽しみごとに興じました。
    そしてこの魅力的な女性は祖国の信仰心のある伝統を目指しつつも、新たなヨーロッパの現象とその時代の今を結びつけようとしたのです。
    さて、このエリザヴェータの時代の特徴とはいったいどんなものだったのでしょうか? 
    経済、農業において目覚しい発展が見られ、ロシアがスウェーデンとの間に和平を結んで、長きにわたる戦いを終わりにさせると、これがロシア帝国の国際的な立場を著しく強めました。
    そして国民文化は一種のルネッサンス(文芸復興)の時代を迎えたのです。
    科学アカデミーの活動が活発になり、学校の数がぐんと増えました。
    またモスクワとカザンにロシアで初めてのギムナジウムが開校しています。
    1755年にはロモノーソフがモスクワ大学を開校させ、翌、1756年にはヴォルコフが専門的な劇場を創設しました。
    また1758年には芸術アカデミーもスタートしています。
    北方への大掛かりな探検を組織し、北氷洋の沿岸を調べさせました。
    こうした活発な女帝時代を送ったエリザヴェータも1761年12月25日に53歳で息を引き取ります。

    3
    ピョートル3世この次に、ロマノフ朝の玉座についたのはピョートル3世でした。
    ピョートル3世はピョートル1世とエカチェリーナの娘、アンナが嫁ぎ先のホルシュタイン公との間にもうけた子どもです。
    ですからピョートル1世からすれば純然たる孫にあたる存在でした。
    ところがピョートルは同時にスウェーデン王カルル12世の近い親戚にもあたります。
    ですからロシアにくるまでピョートルはスウェーデン王室を継ぐ存在として教育をうけていました。
    ルター派の問答書に学び、スウェーデン語やラテン語の文法を覚えることを強要されて育ってきたのです。
    それがロシア帝国の頂にたつことになってから、エリザヴェータの命令でピョートルはロシア語とロシア正教を学び始めました。
    ところが残念なことにピョートルは勉強が得意ではなかったのです。
    こんなピョートル3世の言動は当時の人にはあまりに無学にうつり反感を買いました。
    この皇帝はプロイセンのフリードリッヒ2世の行った戦の誉れに心酔しきっていて、覚めやらない妄想のようなものを抱いていました。
    ところが憧れの強いピョートルがフリードリッヒ2世を真似てやることはすべてパロディーになってしまい、単なる「兵隊ごっこ」に終わってしまうのです。

    ピョートルが皇帝の座にあったのは、たったの7ヶ月でしたが、それでもこの間に重要な御触れをいくつか出しています。
    秘密官房の廃止、これは諜報機関でKGBみたいなものです。
    「貴族に自由を与える御触れ」。
    これはピョートル1世が命じた貴族に宮廷での職務義務を廃止するものです。
    またロシアを去った旧教徒らに対しても祖国へ戻ることを許可されました。
    このような御触れはこういった命令はピョートルの人気を高めようとしてとられたものでした。
    というのもあたかもピョートル自身はわざとあらゆる社会層を中でも特に聖職者層を敵に回すような行動をとっていたからです。
    たとえばピョートルは教会に聖母マリアとキリストのイコンだけを飾り、聖職者らはひげをそり、ルター派の司祭のような格好をするよう命じています。
    このほかにもピョートルはプロイセンの流儀をロシアの軍隊におしつけようとしました。
    生まれ育ったプロイセンをひいきするピョートル3世はロシアの連盟国であったオーストリアとフランスをあっさり裏切り、プロイセンと同盟を組んでしまいます。
    彼の魂胆はデンマークとの戦いを始めよういうことでした。
    ロシアにはまったく必要のない戦いが準備され、社会に不満が渦を巻きます。
    それがやがて皇室の親衛隊の間で陰謀へと発展していきました。

    4
    そしてこの陰謀の中心にいたのがピョートル3世の妻で、やはりドイツから輿入れしたエカチェリーナ、後の女帝エカチェリーナ2世です。
    1762年7月、エカチェリーナはクーデターによって即位し、元老院と宗務院が宣誓式を執り行います。
    これにより、夫ピョートル3世は皇帝の座を譲位する命令に署名を余儀なくされました。
    エカチェリーナ2世エカチェリーナ2世のもとで、専制国家ロシアは啓蒙絶対主義の段階へと突入します。
    この政治形態は当時のヨーロッパの多くの国がとっていたものでした。

    エカチェリーナには天から授かった賢さと意志の強い性格がそなわっていました。
    ロシアに輿入れするとこれから生涯暮らすことになるこの国の言語と習慣を身につけようと熱心に学び始めます。
    エカチェリーナは、歴史や哲学を多く学んでおり、その学識の深さでは当時きっての教養の高い女性でした。
    エカチェリーナは自らをヴォルテールの教え子となのり、ヴォルテール以外にもフランスの啓蒙主義者らと文通を行っていました。
    こうした人々の影響をうけ、エカチェリーナはロシア帝国の法体系の変革に乗り出します。

    1768年に創設された参議会は後に女帝に付属した懇談、統治を行う最高機関となりました。
    また1764年には法典編纂委員会が召集されましたが、この討議には貴族、都市市民、国有地農民が参加するという、広い層の意見を代表するものでした。
    委員会の作業は女帝の命令、指示によって指導されるものでしたが、エカチェリーナは18世紀のフランス啓蒙哲学の精神に心酔していたので、こうした「命令、指示書」は啓蒙思想の発祥の地、フランスでさえあまりにリベラルであるとして読むことが禁止された発禁本に数えられていたくらいです。

    ところがリベラルな思潮で始まったエカチェリーナの支配も1770年代のなかば、ドン・コサックのプガチョフの率いる農民戦争がやがて大反乱にまで発展すると、これに大きく痛手をうけ、大きく反動的な方向へと転化していくのです。

    5
    エカチェリーナ2世の治世では医療面での救済が進みました。
    すべての都市がそれぞれ郡ごとに医師を抱え、入院設備をもつ病院をもうけたり不治の病に冒された人、精神病者が暮らせる施設をたてることが義務づけられました。
    ペテルブルグとモスクワで孤児たちが教育をうける養育施設が建てられました。
    またエカチェリーナは女性の教育の基礎を築いています。
    ペテルブルグでは貴族の家庭の女子や都市に住む少女のための学校が開かれました。
    また新たにカデット(陸軍幼年学校)が開設されています。
    1783年ロシア語教育のためにロシア科学アカデミーが開設されると、その総裁に公女ダーシコヴァがすえられました。

    6
    外交政策ではエカチェリーナはトルコとポーランドという1つの大国との関係を長年に渡る紛争問題を引き継ぎ見事解決しています。
    トルコとの問題はロシアが黒海への出口を確保するためにどうしても避けては通れないものだったのです。
    1772年から1774年にかけて行われた第1次露土戦争ではロシアの軍隊が勝利し、クチュクカイナルジ和平条約が結ばれました。
    これによってロシアは黒海とアゾフ海の沿岸へと退き、トルコはクリミアの独立を認めています。
    露土戦争によってロシアの商船がボスポラス、ダーダネルス海峡の通行権を得たことはロシアの貿易の拡大には大きな意味をもたらすものでした。
    その13年後1787年に起きた第2次露土戦争もロシアの勝利におわり、1791年これによってノヴォラッシア(現在のウクライナ)とクリミア、およびオチャコフ城砦の所有権がロシアへ渡ります。
    このころにはすでにポーランドはロシアにとっては脅威をもたらさないほどの存在にはなっていましたが、その間に挟まれたベラルーシとウクライナのドニエストル川の右岸という、長年放置されていた領土問題が残りつづけていました。

    ところが1769年、ロシアにとって非常に好都合なことが成立します。
    ほぼ10年前にエカチェリーナの愛人だったスタニスワフ・ポニャトフスキイが、エカチェリーナのてこ入れでポーランドの王座についたのです。
    ポニャトフスキイはロシアの政治的関心にそうよう行動する人物でした。
    この結果ポーランド分割はスムーズに進み、ロシアはベラルーシを手に入れ、そののちにヴォリンスカヤ郡、ポドリスカヤ郡、ミンスク郡までを手中に収めたのです。
    ポーランドはなんとか政治的独立を保とうとあがき、その結果1795年には第3次ポーランド分割を招いてしまいます。
    これによってロシアはさらにリトアニアとクールランドを獲得しました。
    エカチェリーナはピョートル大帝が行ってきた外交政策を引きつぎ、モスクワの大公たちが何世紀にもわたって続けてきたこと、つまり領土の拡張に励みました。
    そしてロシアがペルシャへの進軍を始めたころ、勇ましかった女帝もとうとう最後のときを迎えたのです。

    7
    パーヴェル1796年11月6日エカチェリーナは穏やかな死を迎えます。
    この母の後に玉座に上ったのは息子のパーヴェルでした。
    エカチェリーナは生前、息子パーヴェルには国を統括する能力がないとみて、国事へ口出しをさせず、自分の跡継ぎには孫のアレクサンドルをたてることを思案していました。
    しかしこれには異議を唱えるものが多かったのです。
    パーヴェルはいい教育を受けたにもかかわらず、神経過敏で、猜疑心の強く、すぐに度を越してかっとなる性格に育ちました。
    また幼いころから軍事パレードに異常な熱中振りをみせるなど軍隊のこまごまとした儀礼に執着を見せます。
    パーヴェルは母、エカチェリーナのやり方にことごとくはむかい、その打ちたてた事業をかたっぱしからつぶすことに力を注ぎました。
    こうしたパーヴェルに反感を抱いた貴族や将校らの間にはますます不満が高まっていきます。
    フランス革命がおきると、それにあまりに過敏に反応したパーヴェルは極端な反動政策をしきます。
    あまりに厳しい検閲が行われ、民間の印刷所が閉鎖を余儀なくされ、外国の書物の輸入が禁止されました。
    そして貴族だろうが、都市の市民だろうが、刑事犯罪を犯した者には恐ろしい体罰が行われるようになりました。
    パーヴェルの出した命令はほとんどが国の政治の無秩序を根絶することを狙いとしていましたが、実際はエカチェリーナの元で築き上げられた体制を破壊しただけだったのです。
    パーヴェルの終わりのない猜疑心はとうとう自分の家族にまで向けられるようになりました。
    こんなパーヴェルを宮中の人間のほとんどは気が触れた人物を見なすようになっていったのです。

    そしてとうとう1800年秋、パーヴェル打倒の陰謀が企てられます。
    1801年3月11日から12日にかけての深夜、クーデターの首謀者たちはパーヴェルが住むミハイロフ城に忍び込み、皇帝の殺害に及びました。
    この事件のあと、将校らは皇帝熨死因について「脳卒中の発作を起こして」亡くなったと御触れを出します。

    8
    パーヴェルが短い帝位を終えたあと、皇帝に即位したのはその長男のアレクサンドル1世です。
    アレクサンドルは父の殺害に関与していたことから生涯、罪の意識からのがれられず、恐怖がついてまわったといわれています。
    祖父、ピョートル3世も殺され、父、パーヴェルも殺されたのですから、無理もありません。
    アレクサンドル1世の治世では前半にほどよくリベラルな改革が行われています。
    まず父によって流刑に処せられていた人々に恩赦が与えられ、拷問が廃止され、いくつかの社会層に剥奪されていた権利が戻されました。
    こうした措置のすべてが、そしてアレクサンドル自身の温厚な魅力があいまって民衆の間で皇帝の人気は高まっていきます。
    1802年、帝国の権力強化のために新しい省、陸軍、海軍、外務、司法、内務、大蔵、通商、文部の8つがもうけられ、国家会議が開設されます。
    そして1803年には「自由農民に関する勅令」が出され、地主が望む場合は有償で農奴を解放する許可をあたえています。
    この時代、教育改革も続行され、ハリコフ、カザン、サンクト・ペテルブルグに大学が創設されました。

    アレクサンドル1世アレクサンドル1世の時代はロシアにとって非常に大きな痕跡を残すことになった戦争が行われています。
    それがナポレオンとの戦争です。
    ナポレオンに対抗する戦争に加わったロシアは1807年にチルジット条約で和平が結びます。
    これによって両国は戦争行動を起こす際、同盟関係を保つことが約束されました。
    ところがその3年後、すでにフランスとロシアは敵対関係になり、1812年に開始された戦争ではフランス軍はモスクワにまで侵攻し、古い都は火の海に包まれました。
    しかしロシア軍は冬将軍を味方につけ、とうとうパリまで敵を追い詰めてヨーロッパを解放したのです。

    アレクサンドル1世はまたトルコとの戦争もスウェーデンとの戦争も勝利に終わらせ、これによってロシアの世界的地位も大きく向上しました。
    この皇帝の時代にグルジア、フィンランド、ベッサラビア、アゼルバイジャンがロシアの領土に組み込まれています。

    9
    さて国内政策に関しては1812年、かなり反動的なアラクチェーエフ伯爵が起用されてからがらりと様相がかわります。
    地主貴族は農奴を裁判なしにシベリア送りにすることができるという権利が復活し、屯田制がひかれました。
    この時代、ロシアの社会のなかには政府のやり方に反対するグループが多くが存在していました。
    君主制主義者から急進的共和制を唱えるものまで種類はさまざまでしたが、そのうちの一部は地下にもぐり反政府活動を行っていました。
    そんななか1825年、タガンローグへむかうたびの途中、アレクサンドル1世は風邪をこじらせ、11月19日これが原因で亡くなります。

    10
    ニコライ1世世継ぎのないアレクサンドル1世の崩御したあと、およそ一月(ひとつき)にわたってロシアは玉座がからのままの状態がつづきます。
    そして12月14日に、アレクサンドル1世の弟、ニコライ1世の即位が決まったとたん、その同日にロシアを恐ろしいクーデターが襲ったのです。
    これが(12月党)デカブリストの乱でした。
    貴族など知識人の間で起こった国家転覆の試みはニコライ1世の心に大きな痕跡を残します。
    そして彼の治世を通してこれが大きく影響し続けたおかげで、ニコライ1世の時代は絶対君主主義が軍事的官僚体制のなかで最も花開いた時期となりました。
    国の統制は軍事的要素にみち、ほとんどの支出が役人、軍隊への支給に消えました。
    こうした軍事色のつよいニコライ1世の治世は同時にロシア帝国のすべての法律の編纂作業が行われた時代でもありました。
    1835年までに建てられた法律のすべてがここに編纂されたのです。

    そして1842年、ロシア史上画期的な法律が出されます。
    地主貴族に農民を解放する可能性が生まれたのです。
    ニコライ1世自身は農奴制は悪だと考えていました。
    ただし、いわゆる農奴解放はこれにあたらず、実際の解放令が出されたのは、ニコライ1世の次の皇帝、息子のアレクサンドル2世の時代です。
    ニコライ1世のおかげで大街道の建設がすすむようになりました。
    またロシアで初めての鉄道が開設されたのもこの時代です。
    初めての鉄道は首都サンクト・ペテルブルグと皇帝の夏の離宮のあるツァールスコエ・セローを結ぶもので1837年に、またペテルブルグとモスクワを結ぶ線はその14年後の1851年に開通しています。
    この初の鉄道敷設から、昨年2007年は170年目にあたるとして、さまざまな行事が行われていたことは番組でもお伝えしました。

    1853年、ドナウ諸国とカフカスで勃発した戦争はクリミア半島に飛び火します。
    そこではロシアを敵視するイギリス、フランス、トルコ、サルジニアがロシア黒海艦隊のあるセバストーポリにすでに上陸していました。
    このクリミア戦争はロシアの敗北に終わります。
    黒海は中立水域となり、もちろんロシアはここに艦隊を持つ権利を失いました。
    この権利がようやくロシアに復帰するのは戦後15年以上あとの1871年のことです。

    11
    アレクサンドル2世1855年2月18日、ニコライ1世はあっけなくこの世を去ります。
    このあと皇帝の座を継いだのは長男のアレクサンドル2世です。
    アレクサンドル2世は農奴解放を行ったので「解放者のツァーリ」という呼び名で愛されました。
    対外的にはアレクサンドル2世の時代、1864年にカフカス征服が終了します。
    また中国との国境についてはアムール地方とウスリー地方を得ることで決着がつきました。
    1867年、ロシアはアメリカに対し、アラスカとアリューシャン列島を売却します。
    しかしこういった対外政治のなかでもっともこの時代重要な事件といえば、やはり1877年から翌年78年までに行われた露土戦争でしょう。
    この戦争はロシアの勝利に終わりました。
    その結果、セルビアとルーマニア、モンテネグロが独立を果たしています。
    しかし解放者のツァーリと愛されたアレクサンドル2世の最後は悲劇的でした。
    ロシアの皇帝の歴史ではじめて国民の間から出たテロリストによって殺されたからです。
    1881年3月1日、ペテルブルグのモイカ運河沿いを馬車にのって走っていたアレクサンドル2世は手榴弾を投げこまれ致命傷を負って亡くなりました。

    12
    アレクサンドル2世には最初の妻との間に7人かの子供が生まれていますが、長男のニコライ皇太子が21歳の若さで急逝したので、父のあと皇帝の座についたのは次男のアレクサンドル3世でした。
    アレクサンドル3世アレクサンドル3世はより保守的な貴族層の利益を代表し、専制政治を著しく強めることで土地所有者の生活習慣を維持することに努力を傾けました。
    ところが資本主義が勃興しつつあったこの時代に皇帝も新しい経済の現実に直面せざるを得なくなったのです。
    新たな土地の開墾、開発を図るため、アレクサンドル3世の時代、シベリアへの農民の移住が急速な勢いで進められました。
    政府はまた労働者の生活条件を向上させるため、ある程度の配慮を行い、年少者、女性が労働につくことが制限されました。
    このアレクサンドル3世は1894年秋に49歳で崩御します。

    13
    アレクサンドル3世のあと玉座についたのが、長男でこのロマノフ王朝の最後の皇帝となるニコライ2世です。
    ニコライ2世の生涯は終始一貫して革命の動きが高まる中ですぎました。
    1905年、ロシアに革命が勃発します。
    これは自由主義へ改革を求めておきたものの発端でした。
    1905年10月17日、市民の自由が根底となってあまれたマニフェスト(宣言)が出され、個人の不可侵、言論、集会、結社の自由が保障されなければならないと明記されます。
    さらに国家会議が創設され、この承認を得ることなしにいかなる法律も発効することができなくなりました。
    外国政策においてはニコライ2世は国際関係の安定化にある程度前向きな動きを行います。
    1899年、1907年にはハーグ会議が開催され、ここでの取り決めのなかには今日でも有効なものがあります。

    1904年日本はロシアに宣戦を布告します。
    この戦争は翌1905年にロシアの敗退で終わっています。
    そして1914年、第1次世界大戦に参戦。
    疲弊し経済破綻を起こしているロシアにおいて革命の動きはますます高まり、当時多くの人々が貧困と不幸せの根源だとみなしていた専制をとうとう押し流したのです。
    1917年3月2日、ニコライ2世は皇帝の座を降りました。
    そして1週間後の3月9日、皇帝とその一家は逮捕され、翌年1918年の7月17日にエカチェリンブルグ郊外において秘密警察の手によって銃殺されました。
    これまで自発的に皇帝一家につきそってきた医師、そして召使も同じように殺されています。
    これがロシアの王朝のたどりついた悲劇的な最後でした。

    ロシアを治めた皇帝たちのそれぞれの人生はドラマと事件にみちあふれています。
    番組では300年に渡って続いたこの王朝をたった2度の番組でお伝えすることは簡単ではありません。
    それでもこれによってみなさんが何らかのイメージをもっていただければ幸いです。

    臨時企画 2008年1月X日X曜日 カレンダーリ・文化の世界版

    臨時企画 2008年1月X日X曜日

    A.テーマ
    カレンダーリ・文化の世界版 культура - юбилеи
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2008/01/21/418300/


    C.本文

    『カレンダーリ』は今年最初の『文化の世界』は2008年の文化界の記念日をご紹介する『カレンダーリ・文化の世界版』をお送りしたいと思います。

    ☆ ☆ ☆

    2008年1月、新年早々ロシアの文化界から悲しいニュースが飛び込んできました。
    モスクワのレンコム劇場で活躍する有名な俳優で芸術監督代理のアレクサンドル・アブドゥーロフさんが逝去したのです。
    まだ54歳という若さでした。
    俳優仲間たちによりますと、アブドゥーロフさんは2008年の2月に舞台復帰を予定していたということで、復帰第一弾の演目はゴーゴリの「結婚」となるはずでした。
    「人生の長さを決めるのは神アレクサンドル・アブドゥーロフであり、自分自身で決められることがあるとすれば、それは人生の幅の広さである」アブドゥーロフさんは生前よくこんな言葉を口にしていたといいます。
    1月5日に劇場で執り行われた追悼祈祷式に訪れた人々はアブドゥーロフさんの人生や創作の広さと気前の良さについて語り、人間味溢れる俳優の死を惜しみました。
    3時間半に亘って行われた追悼祈祷式にはアブドゥーロフさんの知り合いやファンなど合わせて数千人の人々が足を運びました。
    素晴らしい俳優に最後の別れを告げようと集まったファンの数があまりに多すぎたため、レンコム劇場のあるマーラヤ・ドミトロフカ通りは一時通行止めとなったほどでした。

    アレクサンドル・アブドゥーロフは1975年にレンコム劇場で活動を開始し、以来このレンコム劇場とともに俳優としての人生を歩んできました。
    レンコム劇場でアブドゥーロフは劇場の名刺代わりともいえるいくつもの人気キャラクターを生み出しました。
    しかしアブドゥーロフがロシア全土で広く知られるようになったのは映画、ドラマへの出演でした。
    マルク・ザハロフ演出によるテレビドラマ「普通の奇跡」のメドヴェージ役でアブドゥーロフは広い名声を獲得しています。
    そして以降、アブドゥーロフは合わせて120作品に出演しました。
    アレクサンドル・アブドゥーロフはその創作活動においていくつもの賞や称号を獲得しています。
    1986年にはロシア功労アーティスト、また1991年にはロシア人民アーティストの称号を授与されています。
    さらに昨年2007年12月、アブドゥーロフはウラジーミル・プーチン大統領から第4等「祖国功労賞」を贈られています。

    さて続いての1月の記念日ですが、まずは24日。
    今年1月24日は大作の歴史画を得意としたロシアの有名な画家、ワシーリー・スリコフの生誕160周年にあたっています。
    ワシーリー・スリコフは1848年に中央シベリアのクラスノヤルスクのコサックの家庭に生まれました。
    スリコフはペテルブルグの帝国美術アカデミーで学んだあと、モスクワに移り住み、そこで救世主キリスト大聖堂のフレスコ画の制作に参加しました。
    スリコフの作品の中でもっとも興味深いものとされているのが、モスクワのトレチャコフ美術館に展示されている歴史画「モロゾワ夫人」や「銃殺の朝」です。
    スリコフの名は現在、モスクワの芸術大学の名称となっており、一方故郷のクラスノヤルスクではスリコフの家博物館が開館しています。

    さて翌1月25日は聖タチヤナの日です。
    この「タチヤナの日」はモスクワの学生たちの間でとくに敬われている日です。
    というのも聖タチヤナはモスクワ大学の守護神とされているからです。
    同じく1月25日、ロシアでは詩人で俳優でシンガーソングライターのウラジーミル・ヴィソツキーの生誕70年が祝われます。
    ヴィソツキーがかつて活動していた「タガンカ劇場」ではヴィソツキーよりも優れた「ハムレット」役を演じることのできる俳優はいないと言われています。
    しかしヴィソツキーがさらに大きな人気を博したのが吟遊詩人としての活動です。
    ヴィソツキーは1960年代、ギターを手に独特の「しわがれ声」で自作曲の弾き語りを始めました。
    1970年代、そんなヴィソツキーの歌を聴こうとソ連の市民の誰もが当時はかなり高価だったテープレコーダーを買ったものでした。
    彼の作品は市民の手によってコピーされ、人の手から手へと渡され、そして皆に愛されソ連全土の市民たちによって歌われるようになりました。
    当時、彼の歌も、彼の名前もプレスではほぼ発表されていなかったのにもかかわらずです。
    ヴィソツキーはおよそ700の歌と詩を書き、そして劇場や映画ではおよそ30の役を演じ、ロシアでそして世界でコンサートを開きました。
    ヴィソツキーは「ソ連のジョン・レノン」と呼ばれています。
    ヴィソツキーとジョン・レノンは同じ1980年にこの世を去りました。
    いくつかの資料によればタガンカ劇場の脇で行われたヴィソツキーの葬儀には10万人の人が集まったというデータも残っています。

    ☆ ☆ ☆

    続いては2月です。
    2月18日、ロシアの映画界はソ連の有名な映画監督で戯曲家、そしてソ連人民アーティストの称号を持つアレクサンドル・ザルヒの生誕100周年を祝います。
    ザルヒ監督の初期のアレクサンドル・ザルヒ作品「バルト海の議員」は1937年に開催されたパリ国際映画祭でグランプリを受賞しています。
    一方、アレクサンドル・ザルヒの作品の中でもっとも有名なものとして挙げられるのが1967年に撮影された「アンナ・カレーニナ」です。
    トルストイの同名の小説を基にした映画作品はいくつも制作されていますが、評論家たちはそんな中でもこの「アンナ・カレーニナ」がもっとも優れたものだと評価しています。
    この映画に対してはとくに大きな賞は与えられていませんが、素晴らしい俳優陣と歴史の描き方において深い感銘を与える一作となっています。
    ロシア内外の多くの評論家はアンナ・カレーニナ役を演じるのに、タチヤナ・サモイロワほど心を打つ女優は世界のどこにもいないと指摘しています。

    このほか2月にはロシアの有名な歌手、フョードル・シャリャーピンの生誕135年、そして演劇家エヴゲーニー・バフタンゴフの生誕125年という記念日があります。
    ちなみに現在モスクワのアルバート通りにはバフタンゴフの名を冠した劇場があります。

    ☆ ☆ ☆

    続いて3月の大きな記念日といえばロシアバレエのスタイルを完成させたマリウス・プチパの生誕190周年です。
    フランス出身のダンサーで振付師のマリウス・プチパはロシア政府の招聘により1847年にペテルブルグの帝室マリインスキー劇場の主席ダンサーとして活動を開始しました。
    ロシアはそれまでヨーロッパなどからバレエのダンサーや教師を招いていましたが、プチパは生涯をかけてロシアをバレエの一大中心地に変えました。
    プチパはダンサーとして、教育者として、そして後には振付師としても活躍しました。
    先週ニュースやラジオジャーナルでもお伝えしましたように、プチパによって振り付けられた「海賊」は最近、改訂版として新たによみがえり、パリでの客演で大成功を収めています。

    同じく3月、バレエ界ではもうひとつ記念日があります。
    それは世界を魅了したダンサー、ルドルフ・ヌレエフの生誕70年です。
    ヌレエフは彗星のごとくバレエ界に姿を現し、流星のごとく短い人生を駆け抜けました。
    ヌレエフは1938年3月17日に父親の赴任先を目指して、中央アジアとモンゴル草原の間から極東に向かって走りぬけるシベリア鉄道の車内で産声をあげました。
    ヌレエフが舞踊を始めたのは5歳のとき。
    17歳のときにはワガノワバレエ学校に編入、そしてその後、ソリストとしてレニングラードのキーロフ・バレエに入団します。
    1961年6月16日、ヌレエフはパリ公演の途中で亡命しますが、このニュースは世界中にショックを与えました。
    そしてヌレエフはその後ソ連に戻ることはありませんでした。
    ヌレエフは15年間にわたってイギリス、ロイヤル・バレエのソリストとして活躍し、1986年にはパリ・オペラ座の芸術監督に就任。
    こうしてヌレエフは30年以上もの間、世界を舞台に活躍しましたが、1993年フランスで逝去し、パリ郊外にあるロシア人墓地に埋葬されました。
    しかしそれでもイギリスで発表された彼の自伝はレニングラードへの愛に満ち溢れています。
    またダンサーとしての自身の成功はロシアバレエのスタイルと伝統に支えられたものだったと告白しています。

    ☆ ☆ ☆

    4月に入って世界の音楽界でいくつかの大きな記念日が祝われます。
    まずは有名なオーストリア出身の指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕100周年。
    そしてソ連の作曲家、ヴァノ・ムラデリのヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100周年、作曲家セルゲイ・ラフマニノフの生誕135周年、それから作曲家で指揮者、そしてソ連赤軍舞踊合唱団の芸術監督でもあったアレクサンドル・アレクサンドロフの生誕125周年です。
    アレクサンドル・アレクサンドロフは交響曲やオペラ「イワン雷帝の死」など数えきれないほどの作品を残しています。
    しかしアレクサンドロフといって真っ先に思い出すのはやはりソ連国歌のメロディ、つまり現在のロシア国歌でしょう。

    ☆ ☆ ☆

    アリョーヌシュカ続いて5月の記念日をご紹介しましょう。
    5月はロシアの画家、ヴィクトル・ヴァスネツォフの生誕160周年が祝われます。
    ヴァスネツォフは幅広いジャンルの作品を残していますが、神話や宗教、歴史を題材とした絵画を専門としています。
    ヴァスネツォフの作品「アリョーヌシュカ」や「3人の勇士たち」、「イワン雷帝」、「灰色のオオカミに乗ったイワン王子」などはモスクワのトレチャコフ美術館に飾られています。
    しかもトレチャコフ美術館の入り口は実はヴァスネツォフの作品で仕上げられています。
    またヴァスネツォフの作品はキエフのウラジーミル聖堂やサンクト・ペテルブルグのヴァスクレセーニエ(復活)教会でも目にすることができます。

    さらに5月にはロシアの有名な戯曲家、アレクセイ・アルブーゾフの生誕100周年が祝われます。
    1935年にモスクワとレニングラード、その他の都市で上演され、観客と批評家に広く認められたアルブーゾフの最初の戯曲は「6人の愛しい人」でした。
    その後アルブーゾフはロシアでもっとも有名な戯曲家のひとりに数えられるようになり、彼の作品は現在もなお多くの劇場で上演されています。
    それはたとえば「イルクーツク物語」や「12時」、「失われた息子」などです。
    また「幸せな人の幸せな日々」や「時代遅れのコメディ」といったアルブーゾフの作品はパリやロンドンでも上演されています。
    またアルブーゾフの書いた「旧正月」というタイトルを持つ感動的なストーリーは現在テレビドラマとしてテレビ放映されています。

    ☆ ☆ ☆

    6月の文化界最大の記念日といえばロシアの作曲家で教師で指揮者であったニコライ・リムスキー=コルサコフの没後100年でしょう。
    モスクワ音楽院の大ホールにもその写真が飾られている偉大な作曲家、リムスキー=コルサコフについては、ここでは詳しくご紹介しませんが、彼は15のオペラ、3つのシンフォニー、そして協奏曲、カンタータ、室内楽、声楽曲、宗教音楽などを書きました。

    ☆ ☆ ☆

    7月17日は帝政ロシア最後の皇帝、ニコライ2世にちなんだ記念日です。
    今から90年前の7月16日から17日にかけての深夜、エカチェリンブルグ郊外で皇帝ニコライ2世の一家と医師、侍従らが銃殺されました。
    ニコライ2世一家の埋葬については謎が多く、ニコライ2世の娘アナスタシヤが生き残っているのではないかという説については数多くの見解が生まれました。
    しかし今のところ、このことを真実だと裏付ける証拠は何も見つかっていません。

    7月、ロシアの映画監督、アレクセイ・ゲルマンが70歳の誕生日を迎えます。
    「我が友イワン・ラプシン」や「フルスタリョフ、車を」、また「戦争のない20日間」といった彼の作品はいずれも世代を超えてアレクセイ・ゲルマン観衆の心に訴えかけてきました。
    また7月にはロシアの人気俳優、アンドレイ・ミャフコフが70歳の誕生日を祝います。
    昨年12月に封切られた「運命の皮肉、続編」でミャフコフはスクリーンに復帰しています。

    ☆ ☆ ☆

    8月に入って生誕195年を祝うのが作家で戯曲家のフョードル・ソログープです。
    ソログープというのは、昨年「文化の世界」の中で朗読でご紹介しました作品「輪回し」の作者です。
    また8月は作家・アレクサンドル・アヴデーエンコの生誕100周年という記念日もあります。
    日本のリスナーの皆さんにはほとんど馴染みのない名前だと思いますが、ロシアでは40以上の作品を書いた作家として、また社会評論家として、戯曲家として、映画の脚本家としても非常によく知られています。

    ☆ ☆ ☆

    9月もたくさんの記念日があります。
    まずはロシアの文豪、レフ・トルストイの生誕180周年、有名なヴァイオリニストで指揮者のダヴィド・オイストラフの生誕100周年、女流ピアニスト、マリヤ・グリンベルグの生誕100周年、そしてロシアの優れた指揮者で作曲家のエヴゲーニー・スヴェトラーノフの生誕80周年です。
    スヴェトラーノフはボリショイ劇場の主席指揮者で、ソ連国立シンフォニー・オーケストラの主任指揮者として活躍し、ソ連国立シンフォニー・オーケストラを世界的なレベルに押し上げたことで知られ、日本でも数多くの公演を行いました。
    リスナーの皆さんの中にもスヴェトラーノフは知っているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
    しかしマリヤ・グリンベルグについてはほとんど聞いたこともないという人の方が多いでしょう。
    しかしこのグリンベルグ、当時はソ連でも、そして世界でも最高レベルのピアニストと考えられていました。
    とくにグリンベルグは1952年9月にモスクワ音楽院の小ホールでショスタコーヴィッチ本人が見守る中、彼のプレリュードとフーガの初演を行ったことピアニストとして有名になりました。
    残念ながらグリンベルグの演奏は今ではほとんど残されておらず、CDは1枚も存在しないというのが現状です。

    ☆ ☆ ☆

    10月15日はロシア映画界にとって重要な記念日があります。
    それはロシア最初の映画「ステンカ・ラージン」が公開されてから100周年というものです。
    この「ステンカ・ラージン」が公開された10月15日はロシア映画誕生の日とされています。

    ☆ ☆ ☆

    11月にはイワン・ツルゲーネフの生誕190周年という文学界にとって大切な記念日があります。
    ツルゲーネフの優しい叙情性と詩的な自然描写はプラグマティックな現代の若者の共感をも呼ぶものとなっています。
    ツルゲーネフの作品を基にした芝居や映画は彼の個人的な生活の出来事に基づいたものであることから、多くの観衆の胸を打っており、これこそが芸術の力と呼べるものです。
    ツルゲーネフは日本でも広く親しまれていると思います。

    ☆ ☆ ☆

    そしておしまいの月、12月ですが、12月のもっとも大きな記念日は12月11日に祝われる優れたロシアの作家で社会活動家、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの90歳の誕生日でしょう。
    1964年、ソルジェニーツィンの書いた「イワン・デニーソヴィッチの1日」はレーニン賞にノミネートされます。
    しかしソ連政府はソルジェニーツィンにこのレーニン賞を授与しませんでした。
    政府はスターリンのテロルに関する記録を消滅したいと考えていたからでした。
    一方、1970年にソルジェニーツィンは偉大なるロシア文学の伝統が汲み取られた道徳の力が評価され、ノーベル文学賞を受賞します。
    しかしソ連の市民権を剥奪される恐れがあるとして授賞式には出席しませんでした。
    そしてついに1974年2月12日、ソルジェニーツィンは逮捕され、1昼夜のちにソ連から西ドイツへと国外追放されました。
    国外追放の直接の原因はパリで「収容所群島」第一巻を出版したことでした。
    これは収容所制度、テロリズム、KGBなどをソ連体制の構造的な問題として批判しながら、収容所にとらわれた苦しんだ人々について描いた厖大な記録文学でした。
    ペレストロイカ時代の1994年5月、ソルジェニーツィンは祖国ロシアに戻り、現在はロシアにとってもっとも差し迫った問題について講演を行っています。

    お答えします 2008年スケジュール予定

    お答えします 2008年スケジュール予定


    1月03日:臨時企画休止
    1月10日:
    1月17日:
    1月24日:
    1月31日:


    2月07日:
    2月14日:
    2月21日:
    2月28日:


    3月06日:
    3月13日:バイコヌール宇宙船発射基地
    3月20日:
    3月27日:作曲家 ツェーザリ キュイ


    4月03日:
    4月10日:
    4月17日:
    4月24日:

    http://japanese.ruvr.ru/2008/05/12/418368/
    5月01日:(再)バイコヌール宇宙船発射基地 (2008年3月13日)
    5月08日:ダーチャ
    5月15日:(再)作曲家 ツェーザリ キュイ (2008年3月27日)
    5月22日:ロシアの少数民族 その2
    5月29日:世界遺産

    http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-899.html
    6月05日:
    6月12日:
    6月19日:
    6月26日:
    ?(再)ロシアの温泉 (2006年3月2日)
    ?カムチャッカ


    7月03日:
    7月10日:
    7月17日:
    7月24日:
    7月31日:詩人オシプ・マンデリシターム


    8月07日:
    8月14日:ボリス・パステルナーク
    8月21日:
    8月28日:モスクワの公共交通機関
    ?(再)セルゲイ・コロリョフ (2006年以前)


    9月04日:
    9月11日:詩人フョードル・チュッチェフ
    9月18日:
    9月25日:

    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2009/04/01/419188/
    10月02日:(再)働く女性 (2006年以前)
    10月09日:ペトロパヴロフスク・カムチャツキー
    10月16日:
    10月23日:ロシアの仏教
    10月30日:


    11月06日:教育システム
    11月13日:
    11月20日:ロシアの家族像
    11月27日:


    12月04日:
    12月11日:イルクーツク
    12月18日:(再)ロシアのジャズ (2005年9月17日)
    12月25日:臨時企画休止

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