シベリア銀河ステーション 165回目 2008年5月31日土曜日
シベリア銀河ステーション 165回目 2008年5月31日土曜日
A.お題
1.【街角レポート】5月1日光明週間〔復活大祭後の1週間〕中の救世主顕栄主教座大聖堂から光と風と鐘の音に包まれながら
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibegin165.html
A.お題
1.【街角レポート】5月1日光明週間〔復活大祭後の1週間〕中の救世主顕栄主教座大聖堂から光と風と鐘の音に包まれながら
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibegin165.html
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各地の話題 2008年5月30日金曜日
各地の話題 2008年5月30日金曜日
A.お題
1.モスクワ・ビルトーゾを率いるバイオリニストのウラジミール・スピバコフ
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.188 - 2008/05/30(Fri) 22:52:45
A.お題
1.モスクワ・ビルトーゾを率いるバイオリニストのウラジミール・スピバコフ
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.188 - 2008/05/30(Fri) 22:52:45
ヤングウエーブ 2008年5月29日木曜日
ヤングウエーブ 2008年5月29日木曜日
A.お題
1.
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.188 - 2008/05/30(Fri) 22:52:45
A.お題
1.
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.188 - 2008/05/30(Fri) 22:52:45
お答えします 2008年5月29日木曜日 (世界遺産)
お答えします 2008年5月29日木曜日
A.お題
世界遺産
参考:
http://japanese.ruvr.ru/2008/05/12/418368/
A.お題
世界遺産
参考:
2008年5月29日木曜日番組表
2008年5月29日木曜日番組表
21時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
お答えします(世界遺産)
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-708.html
22時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
ヤングウエーブ
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2046.html
21時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
お答えします(世界遺産)
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-708.html
22時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
ヤングウエーブ
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2046.html
文化の世界 2008年5月27日火曜日
文化の世界 2008年5月27日火曜日
A.お題
1.「世代別愛唱歌」シリーズ第三弾
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.186 - 2008/05/28(Wed) 05:53:55
A.お題
1.「世代別愛唱歌」シリーズ第三弾
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.186 - 2008/05/28(Wed) 05:53:55
シベリア極東ジャーナル 2008年5月24日土曜日
シベリア極東ジャーナル 2008年5月24日土曜日
A.お題
1.極東民族音楽フェスティヴァル『広いアムールのほとりで』は高度な演奏の技のデモンストレーション
B.選曲
1曲目
-
ジョルジュ・ビゼー - 『アルルの女』より第2組曲の第4曲「ファランドール」
2曲目
-
ピョートル・ブラーホフ - 『私は欲しくありません』
3曲目
-
ジュール・マスネー - 悲歌
4曲目
-
エヴゲーニイ・ヂェルベーンコ - 『黒い瞳』の主題による幻想曲
5曲目
-
モソローフ&ガヴリーロフ - ロシヤ民謡『夕べの鐘』の主題による演奏会用小品
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
A.お題
1.極東民族音楽フェスティヴァル『広いアムールのほとりで』は高度な演奏の技のデモンストレーション
B.選曲
1曲目
-
ジョルジュ・ビゼー - 『アルルの女』より第2組曲の第4曲「ファランドール」
2曲目
-
ピョートル・ブラーホフ - 『私は欲しくありません』
3曲目
-
ジュール・マスネー - 悲歌
4曲目
-
エヴゲーニイ・ヂェルベーンコ - 『黒い瞳』の主題による幻想曲
5曲目
-
モソローフ&ガヴリーロフ - ロシヤ民謡『夕べの鐘』の主題による演奏会用小品
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月23日金曜日
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月23日金曜日
A.トーク
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.185 - 2008/05/24(Sat) 05:10:14
A.トーク
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=12
No.185 - 2008/05/24(Sat) 05:10:14
シベリア極東ジャーナル 2008年5月17日土曜日
シベリア極東ジャーナル 2008年5月17日土曜日
A.お題
1.ハバーロフスクでの日本詩歌フェスティヴァルについての「私たちは私たちの世界が不思議なことを理解するために俳句を書いています」
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
A.お題
1.ハバーロフスクでの日本詩歌フェスティヴァルについての「私たちは私たちの世界が不思議なことを理解するために俳句を書いています」
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
科学と技術 2008年5月12日月曜日
科学と技術 2008年5月12日月曜日
A.お題
1.
情報元:
BCL岩沙さんのお家
http://www.geocities.jp/ka_iwasa/receivelog2008.htm
A.お題
1.
情報元:
BCL岩沙さんのお家
ミュージック・アントラクト 2008年5月12日月曜日
ミュージック・アントラクト 2008年5月12日月曜日
A.トーク
アンナ・ネトレプコの後継者として期待される23歳の若手オペラ歌手、エカテリーナ・バカーノワについて
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/185
A.トーク
アンナ・ネトレプコの後継者として期待される23歳の若手オペラ歌手、エカテリーナ・バカーノワについて
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/185
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月12日月曜日
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月12日月曜日
A.トーク
いちのへアナの初めてのオペラ・・・「エフゲニイ・オネーギン」の後半
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/185
A.トーク
いちのへアナの初めてのオペラ・・・「エフゲニイ・オネーギン」の後半
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/185
2008年5月12日月曜日番組表
2008年5月12日月曜日番組表
21時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
MMMモスクワミュージックマガジン
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-1960.html
22時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
ミュージックアトラクト
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-1961.html
科学と技術
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2565.html
情報元:
BCL 岩沙さんのお家
http://www.geocities.jp/ka_iwasa/receivelog2008.htm
21時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
MMMモスクワミュージックマガジン
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-1960.html
22時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
ミュージックアトラクト
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-1961.html
科学と技術
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2565.html
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BCL 岩沙さんのお家
お便りスパシーバ 2008年5月10日土曜日
お便りスパシーバ 2008年5月10日土曜日
担当:
A.トーク
B.選曲
1曲目
オクジャヴァの「ベラルーシ駅」
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=13
No.181 - 2008/05/10(Sat) 22:39:21
担当:
A.トーク
B.選曲
1曲目
オクジャヴァの「ベラルーシ駅」
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=13
No.181 - 2008/05/10(Sat) 22:39:21
シベリア極東ジャーナル 2008年5月10日土曜日
シベリア極東ジャーナル 2008年5月10日土曜日
A.お題
1.ハバーロフスクでの国際フェスティヴァル『新人たち(ニュー・ネームズ)』について
B.選曲
1曲目
-
ヨハン・シュトラウス - 『春のワルツ』
2曲目
-
ジョヴァンニ・バチスタ・ペルゴレージ - 歌劇『奥様になった女中』よりウベルトとセルピーナの二重唱
3曲目
-
マックス・ブルッフ - ヴァイオリン協奏曲ト短調より第2楽章
4曲目
-
フリッツ・クライスラー - 中国の太鼓・作品3
5曲目
-
アレクサーンドル・ノーヴィコフ - 『ヴィヴァ、アカデミー!』
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
A.お題
1.ハバーロフスクでの国際フェスティヴァル『新人たち(ニュー・ネームズ)』について
B.選曲
1曲目
-
ヨハン・シュトラウス - 『春のワルツ』
2曲目
-
ジョヴァンニ・バチスタ・ペルゴレージ - 歌劇『奥様になった女中』よりウベルトとセルピーナの二重唱
3曲目
-
マックス・ブルッフ - ヴァイオリン協奏曲ト短調より第2楽章
4曲目
-
フリッツ・クライスラー - 中国の太鼓・作品3
5曲目
-
アレクサーンドル・ノーヴィコフ - 『ヴィヴァ、アカデミー!』
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
2008年5月10日土曜日番組表
2008年5月10日土曜日番組表
21時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
シベリヤ極東ジャーナル
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2558.html
22時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
お便りスパシーバ
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2043.html
21時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
シベリヤ極東ジャーナル
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2558.html
22時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
お便りスパシーバ
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-2043.html
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月9日金曜日
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月9日金曜日
A.トーク
戦勝記念日に寄せて-「カチューシャ」や「鶴」など戦争をテーマにしながらも、人間的な共感を呼ぶ名曲の数々をご紹介
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/185
A.トーク
戦勝記念日に寄せて-「カチューシャ」や「鶴」など戦争をテーマにしながらも、人間的な共感を呼ぶ名曲の数々をご紹介
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/185
お答えします 2008年5月8日木曜日 (別荘ダーチャについて)
お答えします 2008年5月8日木曜日
A.お題
ロシアの別荘ダーチャについて
https://web.archive.org/web/20140405202629/http://japanese.ruvr.ru/2008/10/29/418557/
http://japanese.ruvr.ru/2008/11/05/418560/
翻訳アナウンス:真野・菅
メロディ=1-1
再放送日時
2014年4月24日21時台
B.選曲
1曲目
Группа Белый орел - Как упоительны в России вечера
グループ白い鷲 - なんと素晴らしいロシアの夕べ
http://www.youtube.com/watch?v=Ep2_eHqk1L4
C.本文
5月の連休を迎えるとロシアにはダーチャ・シーズン(郊外にある家、別荘で休暇を過ごすシーズン)が致来します。
金曜日の夜ともなるとモスクワやサンクト・ペテルブルグなどの大都市や、そこそこの人口の中都市から伸びる街道は生活用具を積んでダーチャへ向かう車の行列で大混雑します。
道路だけではありません。
車を持たない人々は電車にのってダーチャへと向かいますが、そうした列車も大荷物を抱えた人々でぎゅうぎゅうづめです。
ではいったいロシアのダーチャとはどんなものなのでしょうか?
ダーチャという言葉の由来は実は古いもので、ダーチ、ダヴァーチ(与える)という動詞から派生しています。
17世紀ダーチャという言葉は戦争での功労を讃えられ、または何かの功績を讃えられてツァーリから賜った土地のことを意味しました。
18世紀の終わりから19世紀初頭になると、そうしたダーチャ、つまり土地の区画にさほど大きくない貴族の館や夏を過ごす用の郊外の別宅が作られるようになったのです。
ピョートル1世の時代、貴族のダーチャが盛んに建てられます。
それはまさに国の役職にたずさわる者たちのなかでも、田舎の村出身の貴族たちがまずダーチャ生活に力を注ぐようになりました。
ペテルブルグの気候は健康には適していないものでしたから、こういった田舎貴族たちは都会の生活で決して満たされない要素をダーチャにさかんに求めたのです。
また貴族たちは単なる家ではなく、宮殿や館のような豪華な建築をダーチャとして建てたのでした。
このような貴族のダーチャにはプロの建築家がその設計にたずさわりました。
最も人気があったのはロシアの伝統家屋の建築様式で作られたダーチャで、正面のファッサードは彫り物を施した板で飾られ、窓には教会の屋根飾りのような縁がめぐらされ、屋根の上には繁殖の力を象徴する木馬がついたものが好まれました。
こうした館は木造に限らずレンガ造りのもの、石造りのものもあり、豪華な嵌め木の床の広々とした部屋には暖炉がきられ、大きなバルコニーがついていました。
また召使たち、料理人、執事のためには別の部屋がしつらえてあります。
こういったダーチャは高い木立や林に囲まれており、これによって内部の生活は外からは見えないようになっていました。
もちろんこんな貴族のたてた高級なダーチャは数の上では多くありません。
19世紀を迎える頃には裕福な市民がダーチャを建て始めました。
そういったものは夏を過ごすようの木造で質素な作りの家とつくられ、数の上では貴族のものよりはるかに多かったのです。
その頃に資料によりますと、たとえば1888年モスクワ近郊の村178か所にはすでに6000近くのダーチャがあり、夏になると4万人の人々がここを訪れていたことがわかります。
この4万人の内訳はモスクワに住む貴族、役人、商人、外国人、そして新興雑階級のほぼ4分の1にあたり、19世紀も終わりになると、」こういった様々な層の人がダーチャの生活を楽しんでいたことがわかります。
かといって家族全員がそろってダーチャに繰り出したかというと、そうではなく一家の主は仕事のあるモスクワにのこり、週末の休みのときだけダーチャにいる家族のもとを訪れていたわけで、この構図は現在でもかわりありません。
そんなわけで、夏の間郊外へと出る習慣が始まったのはだいたい19世紀からなのです。
夏到来とともに、町暮らしの人間は自然のなかにあるダーチャへと繰り出します。
その光景はなかなか見もので、マンションに入りきれないがらくたや家具までをダーチャに持ち出そうとする人たちで、道路はごったがえします。
昔は荷車に積んだ荷物をギィギィと曳いていく姿が見られましたが、今はさすがにトラックで荷台にはタンス、ひきだし、イスなどの家財道具のいっさいがひしめいています。
またマンションで使うような家具を惜しんで、ダーチャには安物の家具を揃える人もいます。
ともかく1920年代まではダーチャといえばそのほとんどはモスクワ、サンクト・ペテルブルグ、エカチェリンブルグなど大都市のまわりにあったものでした。
それでは豪邸の別荘を建てた貴族と違い、一般の人がダーチャとしたのはどんな建物だったのでしょうか?
一般人は普通の農家を夏の間だけ借りていました。
需要が供給を生むという構図どおり、こんなふうに貸家となる農家の裏庭に、やがて小屋のような、また小屋を作り直したようなダーチャが出現するようになったのです。
もちろんこんな家屋の質はおしてしるべしで、しかも生活に必要な水、トイレ、下水、電気などは、もちろんないも同然でした。
そんななかで、農家を丸ごと一軒借りた人が一番いい条件で暮らしていたのです。
普通2部屋から3部屋のほかに一間大きな部屋があり、これは食事をしたり、お客さんを招きいれたりする食堂として使われました。
部屋の壁紙は一番安いものか、ただ単に新聞紙をはっただけという作りもありました。
ぐらぐらする床は踏むたびに音がし、夜の明かりといえば、ろうそくかオイルランプだけでした。
ダーチャのなかでもベランダやバルコニーのついているものが特にはやりました。
ダーチャを建てる時、大工の棟梁との話はよく、「テラスはつけるのかい?」という問いで始まったものです。
ダーチャを魅力あるものにしようと、2階部分にバルコニーをつけたり、テラスをつけたりする例が増えました。
村の人の多くにとっては、ダーチャを都会のものに貸すことは主たる現金収入を得る手段でした。
ダーチャブームに沸いたのは特にモスクワ近郊で、モスクワに近い村々はしだいにダーチャに囲まれるようになりました。
あまりにダーチャが増えていったため、地元政府はダーチャ建設のために、土地を貸し出すようになりました。
そしてこういう土地に暮らし始めたのが作家や作曲家、画家、そして中流階級の勤め人や教師、役人だったのです。
ダーチャが栄えたほかの理由は経済でした。
夏の家を3,4か月借りて暮らすほうが、同じ期間町で暮らすより安くついたのです。
ダーチャの数はますます増えていきました。
ときにはダーチャどおしがあまりに接近して建てられたため、隣通しで窓越しにおしゃべりができただけでなく、アマチュア大工の腕を発揮して作ったしかけで、お茶のカップやピロシキまで交換できるくらいでした。
最初のうちはダーチャはなんの建設計画もないまま建てられたので、区画がはっきりせずカオス的でした。
それを地元政府が徐々に整備し、ダーチャ区画用の計画を立て、その特別な規則を作りました。
ちょうどそのころ、土地を同じような正方形に分けていく測量法がはやったのです。
そして第2次世界大戦後は、ダーチャの区画は平均で20メートルかける30メートルの600平方メートル前後に収まりました。
ただし国家に大きな貢献をした人には数ヘクタールに及ぶ土地が割り当てられたものです。
ダーチャに出かけるということはいつの時代でも保養のひとつのかたちであっただけではありません。
夏の間もダーチャにおいて社会的なコンタクトを持ち続けることは欠かせなかったのです。
19世紀ダーチャに暮らす人々、ダーチャ族は町を離れ、自然の懐で愉快に暮らしていました。
お祭りや縁日をたてたり、水浴びをしたり、舞踏会を開いたり、芝居好きの者たちが集まって、アマチュア劇を催したりしていたのです。
どんなダーチャでも、1917年の社会主義革命までは軽音楽のコンサートや劇のほか、クロケットやテニスコートがありサッカー場があって、スポーツ競技が行われていたものです。
かの有名なオペラ歌手のシャリャーピンですが、夏の間はモスクワ郊外のダーチャ村に何度も出演していたとはよく知られている話です。
ですからよくブーニンやチェーホフの作品のなかで何と夏のダーチャは退屈なのだろうと嘆くシーンが出てきますが、そんな風に嘆く割には本人たちのダーチャ生活はしごく魅力的なものでした。
ダーチャの生活のなかから、たくさんの文学作品が書かれ、音楽が生まれ、絵が描かれました。
そうした芸術家たちがまとまって暮らしたダーチャ村としてよく知られているのがペレジェルキノでエレンブルグ、パステルナーク、ファデーエフ、シーモノフ、エフトゥシェンコ、オクジャワなど、作家、詩人でも有名な人々のダーチャが今でも残っています。
そして革命前の大資本家で芸術のメセナとして名高いサーヴァ・マーモントフも素晴らしいダーチャを持っていたことで知られています。
マーモントフはアブランツェヴォという、セルゲーエフ・ポサードの大修道院に近い場所に大きなダーチャをかまえ、貧しい画家を招いて住まわせては、自然の中で創造のインスピレーションが得られるよう、芸術活動を助けたのでした。
さて19世紀のこうした時代、興味深いことにモスクワのダーチャ村にはそこに暮らす人たちからしてみればけしからん輩が出没しました。
彼らは今でいうところのパパラッツィと暴走族の自転車バージョンでこれには大半の人々が嫌な思いをしたそうです。
カメラを手にしたパパラッツィは昆虫学者に身をやつし、待ち伏せをして面白い場面を、そう、水浴びの場面など特に好んで写しました。
もう一方の自転車族は激しい勢いで飛ばすわ、ベルをリンリン鳴らしてうるさいわでやはりみんなの嫌われ者でした。
なぜここまで嫌われたかといいますと、特にせっかくきれいな格好をしておきながら、自転車にのると、服がつれて、おかしくなるというのがその理由の筆頭だったようです。
一家の主からは「こんな変な恰好でうちに来ないでください! うちには、いい年した娘がいるんですから!」などといわれたそうです。
食糧、薪、または食事を作る燃料のランプのアルコールはダーチャの村で屋台で売っていて簡単に手に入りました。
サラダにつかう野菜もみんな買うことができたくらいなのです。
ダーチャ族は野菜を作る菜園など全く作っていませんでした。
菜園など必要なく役にも立たないと彼らは考えていたのです。
たしかにその辺の屋台や市場で買うほうがずっと楽で安くつきました。
屋台の八百屋は夏の間つけで売り、ダーチャの季節が終わる頃に清算をしたものです。
付けを払いながら一家の主人は夏のたった3-4か月の間にどうやったらこうも多量の野菜を消費できたのだろうと首をかしげることもしばしばでした。
飲み水や調理用の水はよく川から汲みました。
そのころは河川の水は十分にきれいだったのです。
水を運んでくるサービスもあり、それを利用するところもありましたが、たいていは井戸から汲んでいました。
こんなふうにダーチャが保養したり、ゆったりをくつろぐ場所としてではなく、家族全員の食べる食料を確保するため、その畑や菜園として機能し始めたのは、1917年の社会主義革命のあと、ロシアを内戦の嵐が吹き荒れた時代からです。
テロと飢えから自分の身を守るために、多くの市民は自らの手でダーチャの区画に野菜を植え、それによって生きながらえたのでした。
それまでダーチャの土地では家以外の場所は庭園で花が咲き乱れていたのですが、20世紀になってからは野菜を植える面積が増え、鑑賞用の花は隅に追いやられるようになったのです。
これは当然でしょう。
果実や木イチゴはデザートにしかなりえませんが、じゃがいもや野菜は純然たる主食だからです。
この時代ほとんどの人たちが自分の栽培した食糧で糊口をしのいでいました。
それでも、庭がすべて野菜にとってかわられたわけではありません。
畑の畝の間をぬって砂利や砂を敷いた道がつくられ、花壇を作ったりライランクやアカシアを植えるという光景はよく見られました。
そして1920年代。
この時代はいままで個人の所有する土地であったダーチャの区画が国の所有へと切り替えられた時期です。
「余計な所有は許さない」という原則のもと国にしかるべく貢献を行った人物にのみ、一軒のダーチャの所有が許され、あとはすべて没収されました。
またモスクワに近い場所にあった大きなダーチャは労働者のための保養施設として召し上げられています。
5月の連休を迎えるとロシアにはダーチャ・シーズン(郊外にある家、別荘で休暇を過ごすシーズン)が致来します。
そして次に襲った苦難の時代、第2次世界大戦ではダーチャが再びロシア人の生活には欠かせないものとなります。
政府系の国営ダーチャ、ダーチャ公団、いわゆる「庭仕事協会」とよばれるものなど、いくつかの種類のダーチャができ、こういったダーチャで食料不足の時代、自分の手で食べ物をつくられていたのです。
こういったなかでも多少整備され、住み心地のよい国営ダーチャは社会団体の幹部たちのためにあてがわれていました。
それでもこういった幹部たちも定年がきて職場を去るとすぐにダーチャも没収されていたのです。
それよりももっと簡素なつくりのダーチャ公団や「庭仕事協会」のダーチャは所有者が日曜大工で建てたか、または職場でそんなに高い地位を占めていない人、まったくそういった地位とは無縁な人が所有していたものです。
こんなわけで現在のように土地の所有化が行われるようになるはるか前の時代にすでにソ連のほとんどの人はインテリも労働者も役人も学者もみんな小さな土地の所有者であったのです。
そんなわけでダーチャの土地は生活を支える手段としても、また野外で体を使う仕事に従事することで気分転換し、活力を養う場としても活躍しました。
都市で生まれずっとそこに暮らしている人々は高層住宅のアパート住まいです。
地面から離れた生活をしている都会っ子は早く週末になって額に汗して自分の土地を耕したいとその日が来るのを指折り数えてまったものです。
ソ連時代、こういた一般人を結びつけ、ひとつにしていたものはシャベル、フォーク、肥を運ぶ手押し車のような、原始的な道具でした。
19世紀のダーチャ族とは違い、ソ連時代のダーチャ暮らしは単にスポーツに興じたり、散策したりといった娯楽的目的に限定されたものではなく、それとはまったく逆に野菜や菜っ葉を植えるため畝を耕す作業に嬉々としていたわけです。
こんなふうに手塩にかけて畝を耕し、木イチゴの垣根を作っているうちに、しだいにその土地を私的に所有しているのだという感覚や、自分の手で心に描くことを実現化し、その収穫を得ているのだという気持ちが芽生えてきてもおかしくありません。
そしてその後のペレストロイカの時代、1990年代の経済改革のころに、一気に「コッテージ・ブーム」が始まり、それが今に至るまで続いているわけですが、従来の原始的で水道ガス電気、トイレなど、生活に必要な機能にとぼしいダーチャのとなりに、いきなり豪華なヴィラやエリート・ダーチャ村が出現するという、ちぐはぐな光景が見られるようになりました。
この経済改革の時代に、荒稼ぎをして急にお金持ちになった、いわゆる「ニュー・リッチ」たちは、単なるダーチャではなく、豪邸をたてることもできました。
郊外に家を構えるというのは不動産の投資として有利であるだけではなく、都会の騒音やスモッグから、またあくせくして、せまくるしいメガロポリスから抜け出たいという願望の表れでもあったのです。
こんな風にして生まれたお金持ちの住むダーチャの区画では、モスクワ郊外ではバルビーハ、ニコーリナ・ガラー、ゴールキ、ラズドールィ、ルブリョーヴァなどが有名ですが、こういった土地の名前が、そのまま、成功と美しい生活の象徴となっています。
たとえば、ルブリョーヴァ=ウスペンスク街道はモスクワから修道院で有名なズヴェニーゴロドへと続く道ですが、この道沿いが、いま郊外の生活の場としては一番の憧れの対象となっています。
この街道は昔から、だてに「ツァーリの道」と呼ばれていたわけではありません。
風光明媚な土地、豊かな森、そこに棲む野生動物、流れる川、聖なる場所が、いつの時代もロシアの修道士たちをひきつけてやまなかったのです。
19世紀、ウーソヴォとイリインスコエという二つの村にいわゆる「おかみのダーチャ」の名前で有名な皇帝の構えた屋敷が登場しました。
そして1917年以後はもちろん共産党の幹部や上層部の役人がこういった屋敷を占領します。
革命を起こした指導部たちでもこういったダーチャをなおざりにはしませんでした。
レーニンの住んだコスチノのダーチャは今でも残されていますし、スターリンの用いた数軒のダーチャも保存されています。
政府の役人用の特別のダーチャは今でも健在です。
プーチン元大統領、現首相のお気に入りのダーチャは、黒海沿岸の保養地ソチの市外にある「ボチャロフ・ルチェイ」官邸ですが、メドゥヴェージェフ新大統領が休息をとり、非公式な会談を行う場としてどんなところを選ぶかは、まだ明らかにされていません。
いまやモスクワ郊外の一等地にあるダーチャはヨーロッパの古いお城などより高いことがあるくらいです。
このような場所にはいわゆる「エリート」ロシア人が暮らしています。
新興財閥たちは、あたりを成金の豪邸に囲まれ、高く張り巡らした壁の向こうで一体何をどうしようというのでしょう?
こういった人たちに対する社会のまなざしは2通りあり、「いいじゃないか、建物を建てるだけで壊すわけじゃないし」というものから、「昔のダーチャ族のほうが、環境をもっと大事にして、100軒のダーチャが建てられようと、自然の一部であるように暮らしたもんだ」というものまで分かれます。
たしかにエリートのこうした新しい住人たちは森を丸々伐採したり、湧き水を枯らしてしまったり、花の咲き乱れる草原にアスファルトを敷いたりするのにも良心はとがめず、川の水浴び場まで自宅の柵で覆ってしまう始末です。
結局はこういったエリート別荘地が出現することで珍しい種類の木々が生えていた森や沼、草原が姿を消したり、環境が悪化した例もあるのです。
昔はその辺に普通に生えていた草花や動物が今やレッドブックに記載される希少な存在になってしまいました。
かつて画家たちが美しさに感動し、絵筆をとったり、詩人が歌に詠んだ場所の多くが、面積をせばめられたり、コッテージが建てこんでさえぎられてしまったりしています。
そんなダーチャの間にかろうじて昔ながらのロシアの農村風景がひっそりと残っています。
遅かれ早かれ、ひとはどんなに壁や柵で囲ったところで、中でぬくぬく快適に暮らせるわけではなく、自分の子供や孫のためには環境を大事にしなければならないということがわかるようになるでしょう。
どんな家でもマンション、アパートではなく、都市から離れたところにあればそれはロシアでは「ダーチャ」といわれます。
もちろん規模からいって建築物とは言い難いものです。
大方の一般の人々の持つダーチャとは平屋か2階建ての木造またはレンガつくりの家で4月の声を聞いたとたん、週末になれば出かけて行き11月の初雪のころには閉めてしまいます。
また小さい子どものいる家庭はおじいちゃん、おばあちゃんにひと夏ダーチャに子供と一緒に住んでもらい、世話を一切任せ、週末にだけ、親が町から尋ねるのが普通です。
いまは食糧の補給基地としての切迫した機能はダーチャから失われつつあり、かわりに自分の満足のために菜園作りをするようになりました。
やはり取り立ての新鮮なきゅうりのほうがスーパーで買ったものより味も香りもいいのは当然でしょう。
最近は造園や花壇作りに凝る傾向があります。
どんな花が植えられているかはあげたらきりがありません。
そんなわけで毎週週末になるとロシア人はいそいそと自分の庭のあるダーチャへと向かうわけです。
とはいっても、いそいそと簡単にダーチャにたどりつけるわけではありません。
ダーチャへとむかう大きな街道はどこもここも金曜日には大渋滞となるからなのです。
最近車の数が急激に増え、昔は鉄道を使っていた人たちが、道路へとなだれ込んだことも渋滞を作り出しているのですが、そのほかにも、政府官僚たちは、自分の住むダーチャ村へは、渋滞に巻き込まれるのをさけるため、道路を30分でも1時間でも閉鎖して通過するので、その黒塗りの車が通り過ぎるまでは普通の市民は辛抱させられることがよくあります。
昔はダーチャに向かう交通手段といえばもっとも高級なのが御者の曳く馬車、そして、今の乗り合いタクシーに似たリネイカというものがありました。
リネイカは8人から10人乗りでモスクワの中心部に停車場があり、お客が集まると発車したものです。
モスクワに近いところにあるダーチャへは「馬車鉄道」といわれる乗りもので行くこともできました。
これはレールの上を車両が走るのですが、曳くのは馬というしろものでした。
もちろん鉄道がしかれるようになってからは、ダーチャまでの移動はずっと快適で早くなります。
車で行くのは一見一番快適そうに思えますが、何キロも続くあの渋滞をくぐりぬけないとダーチャに行けないのならば、それは苦難に等しくなります。
それでも「あの、いとしの我が家、ダーチャにいけるなら!」延々と続く渋滞も、なんのそのなわけです。
ロシアのダーチャはこんなふうに単に別荘とは訳せるものではなく、ダーチャはダーチャとしかいいようのない存在なのです。
日本の熟年層の旅行者は、特に沿海地方やハバーロフスク州のダーチャを訪れるツアーに参加する人が多いです。
お金を払いツアーに参加してロシア人のダーチャで雑草取りにいそしみ、じゃがいもに土寄せをし、木を切って薪つくりに専念して、大満足なんだそうです。
おそらくこうして肉体労働にいそしむことで若い頃、日の出から日の入りまで汗して働いた思い出をかみしめていらっしゃるのではないかと思います。
さてそんなダーチャのシーズンも8月の終わりともなると終幕を迎えます。
ダーチャにずっと住みついていたほとんどの人が都会のアパートへと戻り、さらに週末だけまだダーチャ通いを続けるのです。
そして冬の間はダーチャでの毎日の仕事も移動の大変さも雨漏りする屋根も隙間風もそれから付き合いの悪い隣りとの口げんかもみんなみんな忘れて暮らします。
そして!4月、春の明るい日差しが窓から差し込んだら!
さぁ、また都会の人間はもうそわそわしはじめ、一日も早くダーチャ生活を開始しようと夢を膨らませるのです。
ダーチャの夕暮れ、一日の肉体労働を終え、満ち足りた気持ちでテラスに腰掛け、いっぱいのお茶を、もしかしたらビールかいいワインを片手にゆったりと時間を過ごす。
これに勝る醍醐味はありません。
ロシアの夕暮れの魅惑のひととき。
これはきっとおわかりいただけるでしょう。
A.お題
ロシアの別荘ダーチャについて
https://web.archive.org/web/20140405202629/http://japanese.ruvr.ru/2008/10/29/418557/
翻訳アナウンス:真野・菅
メロディ=1-1
再放送日時
2014年4月24日21時台
B.選曲
1曲目
Группа Белый орел - Как упоительны в России вечера
グループ白い鷲 - なんと素晴らしいロシアの夕べ
http://www.youtube.com/watch?v=Ep2_eHqk1L4
C.本文
5月の連休を迎えるとロシアにはダーチャ・シーズン(郊外にある家、別荘で休暇を過ごすシーズン)が致来します。
金曜日の夜ともなるとモスクワやサンクト・ペテルブルグなどの大都市や、そこそこの人口の中都市から伸びる街道は生活用具を積んでダーチャへ向かう車の行列で大混雑します。
道路だけではありません。
車を持たない人々は電車にのってダーチャへと向かいますが、そうした列車も大荷物を抱えた人々でぎゅうぎゅうづめです。
ではいったいロシアのダーチャとはどんなものなのでしょうか?
ダーチャという言葉の由来は実は古いもので、ダーチ、ダヴァーチ(与える)という動詞から派生しています。
17世紀ダーチャという言葉は戦争での功労を讃えられ、または何かの功績を讃えられてツァーリから賜った土地のことを意味しました。
18世紀の終わりから19世紀初頭になると、そうしたダーチャ、つまり土地の区画にさほど大きくない貴族の館や夏を過ごす用の郊外の別宅が作られるようになったのです。
ピョートル1世の時代、貴族のダーチャが盛んに建てられます。
それはまさに国の役職にたずさわる者たちのなかでも、田舎の村出身の貴族たちがまずダーチャ生活に力を注ぐようになりました。
ペテルブルグの気候は健康には適していないものでしたから、こういった田舎貴族たちは都会の生活で決して満たされない要素をダーチャにさかんに求めたのです。
また貴族たちは単なる家ではなく、宮殿や館のような豪華な建築をダーチャとして建てたのでした。
このような貴族のダーチャにはプロの建築家がその設計にたずさわりました。
最も人気があったのはロシアの伝統家屋の建築様式で作られたダーチャで、正面のファッサードは彫り物を施した板で飾られ、窓には教会の屋根飾りのような縁がめぐらされ、屋根の上には繁殖の力を象徴する木馬がついたものが好まれました。
こうした館は木造に限らずレンガ造りのもの、石造りのものもあり、豪華な嵌め木の床の広々とした部屋には暖炉がきられ、大きなバルコニーがついていました。
また召使たち、料理人、執事のためには別の部屋がしつらえてあります。
こういったダーチャは高い木立や林に囲まれており、これによって内部の生活は外からは見えないようになっていました。
もちろんこんな貴族のたてた高級なダーチャは数の上では多くありません。
19世紀を迎える頃には裕福な市民がダーチャを建て始めました。
そういったものは夏を過ごすようの木造で質素な作りの家とつくられ、数の上では貴族のものよりはるかに多かったのです。
その頃に資料によりますと、たとえば1888年モスクワ近郊の村178か所にはすでに6000近くのダーチャがあり、夏になると4万人の人々がここを訪れていたことがわかります。
この4万人の内訳はモスクワに住む貴族、役人、商人、外国人、そして新興雑階級のほぼ4分の1にあたり、19世紀も終わりになると、」こういった様々な層の人がダーチャの生活を楽しんでいたことがわかります。
かといって家族全員がそろってダーチャに繰り出したかというと、そうではなく一家の主は仕事のあるモスクワにのこり、週末の休みのときだけダーチャにいる家族のもとを訪れていたわけで、この構図は現在でもかわりありません。
そんなわけで、夏の間郊外へと出る習慣が始まったのはだいたい19世紀からなのです。
夏到来とともに、町暮らしの人間は自然のなかにあるダーチャへと繰り出します。
その光景はなかなか見もので、マンションに入りきれないがらくたや家具までをダーチャに持ち出そうとする人たちで、道路はごったがえします。
昔は荷車に積んだ荷物をギィギィと曳いていく姿が見られましたが、今はさすがにトラックで荷台にはタンス、ひきだし、イスなどの家財道具のいっさいがひしめいています。
またマンションで使うような家具を惜しんで、ダーチャには安物の家具を揃える人もいます。
ともかく1920年代まではダーチャといえばそのほとんどはモスクワ、サンクト・ペテルブルグ、エカチェリンブルグなど大都市のまわりにあったものでした。
それでは豪邸の別荘を建てた貴族と違い、一般の人がダーチャとしたのはどんな建物だったのでしょうか?
一般人は普通の農家を夏の間だけ借りていました。
需要が供給を生むという構図どおり、こんなふうに貸家となる農家の裏庭に、やがて小屋のような、また小屋を作り直したようなダーチャが出現するようになったのです。
もちろんこんな家屋の質はおしてしるべしで、しかも生活に必要な水、トイレ、下水、電気などは、もちろんないも同然でした。
そんななかで、農家を丸ごと一軒借りた人が一番いい条件で暮らしていたのです。
普通2部屋から3部屋のほかに一間大きな部屋があり、これは食事をしたり、お客さんを招きいれたりする食堂として使われました。
部屋の壁紙は一番安いものか、ただ単に新聞紙をはっただけという作りもありました。
ぐらぐらする床は踏むたびに音がし、夜の明かりといえば、ろうそくかオイルランプだけでした。
ダーチャのなかでもベランダやバルコニーのついているものが特にはやりました。
ダーチャを建てる時、大工の棟梁との話はよく、「テラスはつけるのかい?」という問いで始まったものです。
ダーチャを魅力あるものにしようと、2階部分にバルコニーをつけたり、テラスをつけたりする例が増えました。
村の人の多くにとっては、ダーチャを都会のものに貸すことは主たる現金収入を得る手段でした。
ダーチャブームに沸いたのは特にモスクワ近郊で、モスクワに近い村々はしだいにダーチャに囲まれるようになりました。
あまりにダーチャが増えていったため、地元政府はダーチャ建設のために、土地を貸し出すようになりました。
そしてこういう土地に暮らし始めたのが作家や作曲家、画家、そして中流階級の勤め人や教師、役人だったのです。
ダーチャが栄えたほかの理由は経済でした。
夏の家を3,4か月借りて暮らすほうが、同じ期間町で暮らすより安くついたのです。
ダーチャの数はますます増えていきました。
ときにはダーチャどおしがあまりに接近して建てられたため、隣通しで窓越しにおしゃべりができただけでなく、アマチュア大工の腕を発揮して作ったしかけで、お茶のカップやピロシキまで交換できるくらいでした。
最初のうちはダーチャはなんの建設計画もないまま建てられたので、区画がはっきりせずカオス的でした。
それを地元政府が徐々に整備し、ダーチャ区画用の計画を立て、その特別な規則を作りました。
ちょうどそのころ、土地を同じような正方形に分けていく測量法がはやったのです。
そして第2次世界大戦後は、ダーチャの区画は平均で20メートルかける30メートルの600平方メートル前後に収まりました。
ただし国家に大きな貢献をした人には数ヘクタールに及ぶ土地が割り当てられたものです。
ダーチャに出かけるということはいつの時代でも保養のひとつのかたちであっただけではありません。
夏の間もダーチャにおいて社会的なコンタクトを持ち続けることは欠かせなかったのです。
19世紀ダーチャに暮らす人々、ダーチャ族は町を離れ、自然の懐で愉快に暮らしていました。
お祭りや縁日をたてたり、水浴びをしたり、舞踏会を開いたり、芝居好きの者たちが集まって、アマチュア劇を催したりしていたのです。
どんなダーチャでも、1917年の社会主義革命までは軽音楽のコンサートや劇のほか、クロケットやテニスコートがありサッカー場があって、スポーツ競技が行われていたものです。
かの有名なオペラ歌手のシャリャーピンですが、夏の間はモスクワ郊外のダーチャ村に何度も出演していたとはよく知られている話です。
ですからよくブーニンやチェーホフの作品のなかで何と夏のダーチャは退屈なのだろうと嘆くシーンが出てきますが、そんな風に嘆く割には本人たちのダーチャ生活はしごく魅力的なものでした。
ダーチャの生活のなかから、たくさんの文学作品が書かれ、音楽が生まれ、絵が描かれました。
そうした芸術家たちがまとまって暮らしたダーチャ村としてよく知られているのがペレジェルキノでエレンブルグ、パステルナーク、ファデーエフ、シーモノフ、エフトゥシェンコ、オクジャワなど、作家、詩人でも有名な人々のダーチャが今でも残っています。
そして革命前の大資本家で芸術のメセナとして名高いサーヴァ・マーモントフも素晴らしいダーチャを持っていたことで知られています。
マーモントフはアブランツェヴォという、セルゲーエフ・ポサードの大修道院に近い場所に大きなダーチャをかまえ、貧しい画家を招いて住まわせては、自然の中で創造のインスピレーションが得られるよう、芸術活動を助けたのでした。
さて19世紀のこうした時代、興味深いことにモスクワのダーチャ村にはそこに暮らす人たちからしてみればけしからん輩が出没しました。
彼らは今でいうところのパパラッツィと暴走族の自転車バージョンでこれには大半の人々が嫌な思いをしたそうです。
カメラを手にしたパパラッツィは昆虫学者に身をやつし、待ち伏せをして面白い場面を、そう、水浴びの場面など特に好んで写しました。
もう一方の自転車族は激しい勢いで飛ばすわ、ベルをリンリン鳴らしてうるさいわでやはりみんなの嫌われ者でした。
なぜここまで嫌われたかといいますと、特にせっかくきれいな格好をしておきながら、自転車にのると、服がつれて、おかしくなるというのがその理由の筆頭だったようです。
一家の主からは「こんな変な恰好でうちに来ないでください! うちには、いい年した娘がいるんですから!」などといわれたそうです。
食糧、薪、または食事を作る燃料のランプのアルコールはダーチャの村で屋台で売っていて簡単に手に入りました。
サラダにつかう野菜もみんな買うことができたくらいなのです。
ダーチャ族は野菜を作る菜園など全く作っていませんでした。
菜園など必要なく役にも立たないと彼らは考えていたのです。
たしかにその辺の屋台や市場で買うほうがずっと楽で安くつきました。
屋台の八百屋は夏の間つけで売り、ダーチャの季節が終わる頃に清算をしたものです。
付けを払いながら一家の主人は夏のたった3-4か月の間にどうやったらこうも多量の野菜を消費できたのだろうと首をかしげることもしばしばでした。
飲み水や調理用の水はよく川から汲みました。
そのころは河川の水は十分にきれいだったのです。
水を運んでくるサービスもあり、それを利用するところもありましたが、たいていは井戸から汲んでいました。
こんなふうにダーチャが保養したり、ゆったりをくつろぐ場所としてではなく、家族全員の食べる食料を確保するため、その畑や菜園として機能し始めたのは、1917年の社会主義革命のあと、ロシアを内戦の嵐が吹き荒れた時代からです。
テロと飢えから自分の身を守るために、多くの市民は自らの手でダーチャの区画に野菜を植え、それによって生きながらえたのでした。
それまでダーチャの土地では家以外の場所は庭園で花が咲き乱れていたのですが、20世紀になってからは野菜を植える面積が増え、鑑賞用の花は隅に追いやられるようになったのです。
これは当然でしょう。
果実や木イチゴはデザートにしかなりえませんが、じゃがいもや野菜は純然たる主食だからです。
この時代ほとんどの人たちが自分の栽培した食糧で糊口をしのいでいました。
それでも、庭がすべて野菜にとってかわられたわけではありません。
畑の畝の間をぬって砂利や砂を敷いた道がつくられ、花壇を作ったりライランクやアカシアを植えるという光景はよく見られました。
そして1920年代。
この時代はいままで個人の所有する土地であったダーチャの区画が国の所有へと切り替えられた時期です。
「余計な所有は許さない」という原則のもと国にしかるべく貢献を行った人物にのみ、一軒のダーチャの所有が許され、あとはすべて没収されました。
またモスクワに近い場所にあった大きなダーチャは労働者のための保養施設として召し上げられています。
5月の連休を迎えるとロシアにはダーチャ・シーズン(郊外にある家、別荘で休暇を過ごすシーズン)が致来します。
そして次に襲った苦難の時代、第2次世界大戦ではダーチャが再びロシア人の生活には欠かせないものとなります。
政府系の国営ダーチャ、ダーチャ公団、いわゆる「庭仕事協会」とよばれるものなど、いくつかの種類のダーチャができ、こういったダーチャで食料不足の時代、自分の手で食べ物をつくられていたのです。
こういったなかでも多少整備され、住み心地のよい国営ダーチャは社会団体の幹部たちのためにあてがわれていました。
それでもこういった幹部たちも定年がきて職場を去るとすぐにダーチャも没収されていたのです。
それよりももっと簡素なつくりのダーチャ公団や「庭仕事協会」のダーチャは所有者が日曜大工で建てたか、または職場でそんなに高い地位を占めていない人、まったくそういった地位とは無縁な人が所有していたものです。
こんなわけで現在のように土地の所有化が行われるようになるはるか前の時代にすでにソ連のほとんどの人はインテリも労働者も役人も学者もみんな小さな土地の所有者であったのです。
そんなわけでダーチャの土地は生活を支える手段としても、また野外で体を使う仕事に従事することで気分転換し、活力を養う場としても活躍しました。
都市で生まれずっとそこに暮らしている人々は高層住宅のアパート住まいです。
地面から離れた生活をしている都会っ子は早く週末になって額に汗して自分の土地を耕したいとその日が来るのを指折り数えてまったものです。
ソ連時代、こういた一般人を結びつけ、ひとつにしていたものはシャベル、フォーク、肥を運ぶ手押し車のような、原始的な道具でした。
19世紀のダーチャ族とは違い、ソ連時代のダーチャ暮らしは単にスポーツに興じたり、散策したりといった娯楽的目的に限定されたものではなく、それとはまったく逆に野菜や菜っ葉を植えるため畝を耕す作業に嬉々としていたわけです。
こんなふうに手塩にかけて畝を耕し、木イチゴの垣根を作っているうちに、しだいにその土地を私的に所有しているのだという感覚や、自分の手で心に描くことを実現化し、その収穫を得ているのだという気持ちが芽生えてきてもおかしくありません。
そしてその後のペレストロイカの時代、1990年代の経済改革のころに、一気に「コッテージ・ブーム」が始まり、それが今に至るまで続いているわけですが、従来の原始的で水道ガス電気、トイレなど、生活に必要な機能にとぼしいダーチャのとなりに、いきなり豪華なヴィラやエリート・ダーチャ村が出現するという、ちぐはぐな光景が見られるようになりました。
この経済改革の時代に、荒稼ぎをして急にお金持ちになった、いわゆる「ニュー・リッチ」たちは、単なるダーチャではなく、豪邸をたてることもできました。
郊外に家を構えるというのは不動産の投資として有利であるだけではなく、都会の騒音やスモッグから、またあくせくして、せまくるしいメガロポリスから抜け出たいという願望の表れでもあったのです。
こんな風にして生まれたお金持ちの住むダーチャの区画では、モスクワ郊外ではバルビーハ、ニコーリナ・ガラー、ゴールキ、ラズドールィ、ルブリョーヴァなどが有名ですが、こういった土地の名前が、そのまま、成功と美しい生活の象徴となっています。
たとえば、ルブリョーヴァ=ウスペンスク街道はモスクワから修道院で有名なズヴェニーゴロドへと続く道ですが、この道沿いが、いま郊外の生活の場としては一番の憧れの対象となっています。
この街道は昔から、だてに「ツァーリの道」と呼ばれていたわけではありません。
風光明媚な土地、豊かな森、そこに棲む野生動物、流れる川、聖なる場所が、いつの時代もロシアの修道士たちをひきつけてやまなかったのです。
19世紀、ウーソヴォとイリインスコエという二つの村にいわゆる「おかみのダーチャ」の名前で有名な皇帝の構えた屋敷が登場しました。
そして1917年以後はもちろん共産党の幹部や上層部の役人がこういった屋敷を占領します。
革命を起こした指導部たちでもこういったダーチャをなおざりにはしませんでした。
レーニンの住んだコスチノのダーチャは今でも残されていますし、スターリンの用いた数軒のダーチャも保存されています。
政府の役人用の特別のダーチャは今でも健在です。
プーチン元大統領、現首相のお気に入りのダーチャは、黒海沿岸の保養地ソチの市外にある「ボチャロフ・ルチェイ」官邸ですが、メドゥヴェージェフ新大統領が休息をとり、非公式な会談を行う場としてどんなところを選ぶかは、まだ明らかにされていません。
いまやモスクワ郊外の一等地にあるダーチャはヨーロッパの古いお城などより高いことがあるくらいです。
このような場所にはいわゆる「エリート」ロシア人が暮らしています。
新興財閥たちは、あたりを成金の豪邸に囲まれ、高く張り巡らした壁の向こうで一体何をどうしようというのでしょう?
こういった人たちに対する社会のまなざしは2通りあり、「いいじゃないか、建物を建てるだけで壊すわけじゃないし」というものから、「昔のダーチャ族のほうが、環境をもっと大事にして、100軒のダーチャが建てられようと、自然の一部であるように暮らしたもんだ」というものまで分かれます。
たしかにエリートのこうした新しい住人たちは森を丸々伐採したり、湧き水を枯らしてしまったり、花の咲き乱れる草原にアスファルトを敷いたりするのにも良心はとがめず、川の水浴び場まで自宅の柵で覆ってしまう始末です。
結局はこういったエリート別荘地が出現することで珍しい種類の木々が生えていた森や沼、草原が姿を消したり、環境が悪化した例もあるのです。
昔はその辺に普通に生えていた草花や動物が今やレッドブックに記載される希少な存在になってしまいました。
かつて画家たちが美しさに感動し、絵筆をとったり、詩人が歌に詠んだ場所の多くが、面積をせばめられたり、コッテージが建てこんでさえぎられてしまったりしています。
そんなダーチャの間にかろうじて昔ながらのロシアの農村風景がひっそりと残っています。
遅かれ早かれ、ひとはどんなに壁や柵で囲ったところで、中でぬくぬく快適に暮らせるわけではなく、自分の子供や孫のためには環境を大事にしなければならないということがわかるようになるでしょう。
どんな家でもマンション、アパートではなく、都市から離れたところにあればそれはロシアでは「ダーチャ」といわれます。
もちろん規模からいって建築物とは言い難いものです。
大方の一般の人々の持つダーチャとは平屋か2階建ての木造またはレンガつくりの家で4月の声を聞いたとたん、週末になれば出かけて行き11月の初雪のころには閉めてしまいます。
また小さい子どものいる家庭はおじいちゃん、おばあちゃんにひと夏ダーチャに子供と一緒に住んでもらい、世話を一切任せ、週末にだけ、親が町から尋ねるのが普通です。
いまは食糧の補給基地としての切迫した機能はダーチャから失われつつあり、かわりに自分の満足のために菜園作りをするようになりました。
やはり取り立ての新鮮なきゅうりのほうがスーパーで買ったものより味も香りもいいのは当然でしょう。
最近は造園や花壇作りに凝る傾向があります。
どんな花が植えられているかはあげたらきりがありません。
そんなわけで毎週週末になるとロシア人はいそいそと自分の庭のあるダーチャへと向かうわけです。
とはいっても、いそいそと簡単にダーチャにたどりつけるわけではありません。
ダーチャへとむかう大きな街道はどこもここも金曜日には大渋滞となるからなのです。
最近車の数が急激に増え、昔は鉄道を使っていた人たちが、道路へとなだれ込んだことも渋滞を作り出しているのですが、そのほかにも、政府官僚たちは、自分の住むダーチャ村へは、渋滞に巻き込まれるのをさけるため、道路を30分でも1時間でも閉鎖して通過するので、その黒塗りの車が通り過ぎるまでは普通の市民は辛抱させられることがよくあります。
昔はダーチャに向かう交通手段といえばもっとも高級なのが御者の曳く馬車、そして、今の乗り合いタクシーに似たリネイカというものがありました。
リネイカは8人から10人乗りでモスクワの中心部に停車場があり、お客が集まると発車したものです。
モスクワに近いところにあるダーチャへは「馬車鉄道」といわれる乗りもので行くこともできました。
これはレールの上を車両が走るのですが、曳くのは馬というしろものでした。
もちろん鉄道がしかれるようになってからは、ダーチャまでの移動はずっと快適で早くなります。
車で行くのは一見一番快適そうに思えますが、何キロも続くあの渋滞をくぐりぬけないとダーチャに行けないのならば、それは苦難に等しくなります。
それでも「あの、いとしの我が家、ダーチャにいけるなら!」延々と続く渋滞も、なんのそのなわけです。
ロシアのダーチャはこんなふうに単に別荘とは訳せるものではなく、ダーチャはダーチャとしかいいようのない存在なのです。
日本の熟年層の旅行者は、特に沿海地方やハバーロフスク州のダーチャを訪れるツアーに参加する人が多いです。
お金を払いツアーに参加してロシア人のダーチャで雑草取りにいそしみ、じゃがいもに土寄せをし、木を切って薪つくりに専念して、大満足なんだそうです。
おそらくこうして肉体労働にいそしむことで若い頃、日の出から日の入りまで汗して働いた思い出をかみしめていらっしゃるのではないかと思います。
さてそんなダーチャのシーズンも8月の終わりともなると終幕を迎えます。
ダーチャにずっと住みついていたほとんどの人が都会のアパートへと戻り、さらに週末だけまだダーチャ通いを続けるのです。
そして冬の間はダーチャでの毎日の仕事も移動の大変さも雨漏りする屋根も隙間風もそれから付き合いの悪い隣りとの口げんかもみんなみんな忘れて暮らします。
そして!4月、春の明るい日差しが窓から差し込んだら!
さぁ、また都会の人間はもうそわそわしはじめ、一日も早くダーチャ生活を開始しようと夢を膨らませるのです。
ダーチャの夕暮れ、一日の肉体労働を終え、満ち足りた気持ちでテラスに腰掛け、いっぱいのお茶を、もしかしたらビールかいいワインを片手にゆったりと時間を過ごす。
これに勝る醍醐味はありません。
ロシアの夕暮れの魅惑のひととき。
これはきっとおわかりいただけるでしょう。
文化の世界 2008年5月6日火曜日
文化の世界 2008年5月6日火曜日
A.お題
1.シヴィリードフの合唱音楽と教会のすばらしいモザイク壁画のビデオ上映を組み合わせた「パスハ音楽プロジェクト・復活の国」
2.「第5回プロコフィエフ記念国際音楽コンクールの結果について」
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
A.お題
1.シヴィリードフの合唱音楽と教会のすばらしいモザイク壁画のビデオ上映を組み合わせた「パスハ音楽プロジェクト・復活の国」
2.「第5回プロコフィエフ記念国際音楽コンクールの結果について」
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
ビジネス情報 2008年5月6日火曜日
ビジネス情報 2008年5月6日火曜日
A.お題
1.モスクワ州の投資誘致策と日本関連の話題
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
A.お題
1.モスクワ州の投資誘致策と日本関連の話題
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http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
2008年5月6日火曜日番組表
2008年5月6日火曜日番組表
21時台
ニュース
ラジオジャーナル今日の話題
ビジネス情報
http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-1964.html
22時台
ニュース
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文化の世界
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ミュージック・アントラクト 2008年5月5日月曜日
ミュージック・アントラクト 2008年5月5日月曜日
A.トーク
第1回モスクワイズマイロフ・パスハの鐘フェスティバルについて
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
A.トーク
第1回モスクワイズマイロフ・パスハの鐘フェスティバルについて
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月5日月曜日
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月5日月曜日
A.トーク
こどもの日特集-子供のために作られた名曲の数々
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
A.トーク
こどもの日特集-子供のために作られた名曲の数々
情報元:
http://8429.teacup.com/matsu6446/bbs/184
シベリア極東ジャーナル 2008年5月3日土曜日
シベリア極東ジャーナル 2008年5月3日土曜日
A.お題
1.ハバーロフスク地方でのフェスティヴァル『私の家族は私のロシヤ』について
B.選曲
1曲目
-
音の絵『ロシヤの冬』
2曲目
-
セルゲーイ・ラフマーニノフ〔露〕作曲・6つの歌曲・作品38、第1曲『夜ふけに私の庭で』
3曲目
-
ウクライナ語の歌
4曲目
-
自然と人々は一つという内容のナナイ民謡
5曲目
-
ナナイ人の民族的な作品
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
A.お題
1.ハバーロフスク地方でのフェスティヴァル『私の家族は私のロシヤ』について
B.選曲
1曲目
-
音の絵『ロシヤの冬』
2曲目
-
セルゲーイ・ラフマーニノフ〔露〕作曲・6つの歌曲・作品38、第1曲『夜ふけに私の庭で』
3曲目
-
ウクライナ語の歌
4曲目
-
自然と人々は一つという内容のナナイ民謡
5曲目
-
ナナイ人の民族的な作品
情報元:
http://www.eonet.ne.jp/~speedbird/sibekyoku200805.html
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月2日金曜日
MMMモスクワミュージックマガジン 2008年5月2日金曜日
A.トーク
情報元:
http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=13
No.174 - 2008/05/03(Sat) 19:09:01
A.トーク
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http://www2.rocketbbs.com/200/bbs.cgi?id=matsu&page=13
No.174 - 2008/05/03(Sat) 19:09:01