お便りスパシーバ 2013年8月31日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年8月31日土曜日

    担当:


    A.トーク




    情報元:
    potatoのラジオ受信記録
    http://potato1013.blog22.fc2.com/?mode=m&no=1212
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    お便りスパシーバ 2013年8月24日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年8月24日土曜日

    担当:


    A.トーク
    短波の今後



    情報元:
    国際短波放送情報
    http://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/33047564.html

    お便りスパシーバ 2013年8月17日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年8月17日土曜日

    担当:


    A.トーク




    情報元:
    potatoのラジオ受信記録
    http://potato1013.blog22.fc2.com/?mode=m&no=1205

    臨時企画 2013年8月16日金曜日 マトリョミンのオーケストラ

    臨時企画 2013年8月16日金曜日

    テーマ:
    マトリョミンのオーケストラ
    http://japanese.ruvr.ru/2013_08_16/119738780/?slide-1
    http://cdn.ruvr.ru/download/2013/08/16/1320489806/MATRYOMIN.mp3

    担当:
    いちのへ特派員

    収録:
    2013年7月20日

    A.トーク
    日本人奏者の竹内正美さんへのインタビューがなされました。


    お答えします 2013年8月15日木曜日(ソ連のアンドロポフ書記長について)

    お答えします 2013年8月15日木曜日

    A.お題
    ソ連のアンドロポフ書記長について
    http://japanese.ruvr.ru/2013_08_15/119673974/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/andropov


    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年6月25日21時台/22時台
    2014年7月21日21時台/22時台
    2014年8月21日21時台


    C.本文

    ユーリー・アンドロポフはロシア史のソ連時代のなかでは、最も謎に満ちた興味深い人物といえる。
    ある意味ではアンドロポフのたどったキャリアはこの時代には多くの面で典型的なものだったが、アンドロポフは独創的な政治家であり、その人間性は多くの歴史家にとってはいまだに謎に包まれている。

    アンドロポフは1914年に鉄道員と音楽教師の両親の元に生を受けた。
    出生は非常につつましいものだった。
    家庭が貧しかったためアンドロポフは早くから働き始めた。
    電信所で、映画館の映写係補佐として、河川をゆく汽船の船員として務めたあと、こんどは河川技術学校に入学し、卒業後ヴォルガ川沿いにある町の造船所で働き始めた。

    アンドロポフの職歴は最初はあまりにも慎ましやかなものだが社会的な活動は活発だった。
    ソ連共産党の青年向けの組織「コムサモール」で、若きユーリー青年は16歳から熱心に活動を開始した。
    その活動振りはほかのものの目を引いたため、8年でアンドロポフはこの組織のピラミッドの階段を上に向かって着々と上っていく。24歳でアンドロポフはヤロスラーヴリ州のコムサモール州委員会の第1書記長となる。

    歴史家のアレクサンドル・ルカシン氏はアンドロポフのこの昇進は彼の目覚しい才能と状況の一致に追うところが大きいとして、つぎのように語っている。

    「こうしたうなぎのぼりの昇進の第1の理由はアンドロポフが生き生きと演説を行なえたこと、注目を集め、新たな考えをひきつけるのがうまかったことでしょう。
    第2の理由は政治体制自体にある。
    1936年の末から37年初頭にかけては『大テロル』の嵐が最も激しく吹き荒れていた頃で、党でコムサモールで人事上の粛清が行われ、そしてその後、大量粛清が始まりました。
    こうして空いたポストに収まったのがコムサモールで活躍していた人々で、そんな中にユーリー・アンドロポフの姿もありました。
    ある研究者は当時の様子について『キャリアアップはこの時代非常に速く行われた。ただし、そのキャリア志向の者がポストに留まり続けることができた場合に限られるが』と書いていますが、アンドロポフはラッキーだった。
    彼は慎重に行動していたからです。」


    大祖国戦争時代、アンドロポフは健康上の理由から前線には送られなかったが、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に派遣された。
    これはソ連の北西の端にあり、フィンランドと国境を接する土地だ。
    当時27歳だったアンドロポフは共産党の動きを組織し、確保する部署のトップを務めていたが、戦後は戦争で崩壊した経済を復興する仕事についた。
    この仕事のあらゆる面でアンドロポフは非常に効率的に自分を活かした。
    これが功を奏し、1951年アンドロポフは正真正銘の目覚しい昇進を遂げる。
    アンドロポフは首都モスクワへと連れて行かれ、ソビエト共産党中央委員会に引き抜かれたのだった。

    党中央委員会から外務省へとさらに昇進したアンドロポフは、今度は大使としてハンガリーに赴く。
    この時代はアンドロポフのキャリアのなかでも謎のひとつとされている。
    しかもアンドロポフはこの要職にふさわしい特殊な教育をうけてはおらず、大学の卒業証書すらもっていなかったからだ。
    確かに2つの大学で学んだ経験はあるにはあったが。

    それでもアンドロポフが常に独学で学んでいたことは、同時代の人々の証言で明らかにされており、党の指導部のなかでも最も博学で知的な人物だといわれていた。

    こんなわけでハンガリー語も、目的に向かって猪突猛進するアンドロポフは独学でさっさとものにしてしまう。
    当時の外務大臣を務めたヴャチェスラフ・モロトフについては、彼は大使や参事官を任命する際に、東欧諸国で共産党のイデアをプロパガンダできる人物を選んだという説がある。
    モロトフはまさにこうした人間だとしてアンドロポフを買ったのだろう。

    ハンガリーはアンドロポフにとっては、キャリアアップの大きな弾みとなったが、当時ハンガリーで展開されていた出来事はあまりにも悲劇的なものだった。
    1950年代の半ば、ハンガリーでは当時の共産党指導部に反対する市民の動きが大きなうねりとなって高まっていた。
    ハンガリー動乱である。
    アンドロポフはハンガリー共産党の指導者であったヤノシュ・カダルとともに市民蜂起を武力鎮圧することを強要した。
    結果ハンガリーにはソ連軍が動員され、戦闘のなかで反乱者2500人以上、ソ連兵2000人が命を落とした。
    最終的にはハンガリーにはかなり自由主義的な社会主義体制が出来上がったが、アンドロポフにはこの出来事すべてはあまりにも深い刻印を残すことになった。
    こうした現象を多くの歴史家は「ハンガリー症候群」と呼ぶ。

    歴史家のアレクサンドル・ルカシン氏はさらに次のように語っている。

    「ハンガリーでアンドロポフが目にしたものは無秩序でした。
    何十万人もの市民が統制を失い、通りにあふれ、たくさんの死者が出ていました。
    ハンガリー動乱でアンドロポフが得た最大の教訓は、こうした事態を絶対に自国で起こしてはならないということでした。
    これはアンドロポフの政治理解に、この先の彼の行動に紛れも無い刻印を残すことになります。
    アンドロポフは動乱を恐れました。
    『下から』の改革を恐れ、改革が行われるときは必ず『上から』行われることを支持したのです。」


    ハンガリーから帰るとアンドロポフは再び共産党中央委員会で働いた。
    1967年、アンドロポフは国家安全保障委員会(KGB)のトップに就任する。
    KGBのトップがこのシステムの出身ではまったくなく、この環境にいた者でもなかったというのは驚きに値する。

    当時KGBを代表してアンドロポフの補佐官をつとめていた、元KGB少将のヴィクトル・シャラポフ氏は次のように語っている。

    「私たち、つまり自分の補佐官らとの話の中ではアンドロポフは自分にとってはこの辞令は予想外だったことを認めていました。
    こうした任命の原因はいくつかあります。
    指導者のレオニード・ブレジネフは内政、外交政策と国家の問題を討議する際に自分には手ごわい反対者が存在することを知っていました。
    ユーリー・アンドロポフもその一人でした。
    アンドロポフをKGBに追いやることでブレジネフはライバルを脇に追いやったのです。」


    アンドロポフがKGBの職に任命されたもろもろの理由のひとつにとして、彼の同僚らが挙げている事実がある。
    それはブレジネフは側近のなかに自分の生活様式に好感を持たない人物を置きたくなかったというものだ。
    勤勉家のアンドロポフはブレジネフとは異なっていた。
    ブレジネフは豪華な食事、ハンティング、贈り物を好んでいた。

    アンドロポフがKGBを率いた15年の間にこの国、社会の生活のあらゆる分野に対する統制は強化され拡大された。
    目覚しい諜報活動、防諜活動が行われ、産業スパイ、学術技術スパイによって多くの成果がもたらされた。
    KGBのトップとしてのアンドロポフは巨大な金融の策動を解き明かしながら、闇の経済、汚職と闘った戦士としてよく知られている。

    一方でアンドロポフといえば何よりも社会の気運に対する統制を強化した人物の印象のほうが強い。
    まさにこの目的のためにKGBはほぼすべての組織、そして企業にKGBの特殊な部署をおいた。
    こうした体系はアンドロポフ以前にはなかったことだった。
    どんな人でも外国人と接触したり自由主義的な視点を持っているというだけで、スパイ扱いされ、ひどいときは祖国を裏切ったという刻印を押されうるという事態は恐ろしいものだった。
    これは大量粛清ではない。
    アンドロポフの政治は政権に反対するものは統制下においておかねばならないというものだった。
    時には職を解かれたり、作家のソルジェニーツィン、音楽家のガリーナ・ヴィシネツカヤやロストロポーヴィチのように祖国を追われることもあった。
    アンドロポフにとってはこれは国の秩序を守り、国家の安全を保障するためだった。
    ハンガリー動乱は警戒の念を呼び起こすように幾度も記憶によみがえってきたからだ。

    インテリゲンチャ、つまり反体制派となりうる人々と行うKGBの作業は特殊なものだった。
    芸術、学術分野の活動家に警告するため話し合いの場が設けるられこともよくあり、これをKGBの長官としてアンドロポフはしばしば自ら行った。
    しかしながら、時にはより厳格な措置を講じざるを得ないこともよくあった。
    歴史家のアレクサンドル・ルカシン氏は次のように語っている。

    「まるで機械のようにアンドロポフは具体的目標の達成のために様々な手段を使っていました。
    もし相手の考えを変えさせる方法がある場合は、それを使おうとしました。
    アンドロポフは詩人のエヴゲーニー・エフトゥシェンコやタガンカ劇場の主任演出家であったユーリー・リュビーモフと差し向かいで話したことがありましたが、そのなかでアンドロポフは、こうした人々が自らの創造活動のなかで、彼の考えるところの危険な歩みをとらぬよう、なんとか説得しようと試みたものです。
    それでも相手が頑として受け付けない場合はアンドロポフはより強硬な措置をとることもありました。
    国家と党の利益のほうが彼にはより重要だったからです。」


    アンドロポフの人物評価がこのように分かれる理由はインテリ層自体がある時期まで彼をソ連の政治家としてはかなり自由思想的な人間だととらえていたためだろう。
    自由思想的と見られたのは、この人物が博学であり広い視野を持ち、劇場の演目、展覧会に通じ、リベラル思想の人たちに取り巻かれていたせいだろう。
    しかしアンドロポフのなかには自由主義的なところもあったが、本人が自由主義者だったとしても政策の上でそれが反映されたかというと、全くそんなことはなかった。

    1982年11月12日にブレジネフが死去すると、アンドロポフは彼に代わり国の最高のポストを占める。
    この地位にアンドロポフが就いていたのはたった15ヶ月間だけのことだった。
    だがいまだに研究者らはソ連史の中でも最も短いこの期間を最も興味深い時期として注目している。
    アンドロポフは政治家として社会経済改革路線に乗り出す。
    彼が狙ったのは経済のメカニズムを変え、経済効率を引き上げることだった。
    アンドロポフは計画経済から企業の独自経営へと徐々に移行する必要性を理解していた。
    そのためには科学の達成を生産へ導入するよう刺激を加える必要があった。

    当時アンドロポフの補佐官をつとめていたヴィクトル・シャラポフ氏は次のように語っている。

    「アンドロポフはソ連経済を強くし、市民の高まる消費を満足させることのできるものにしたかったのです。
    浪費に反対し資源を考えもなしに大量に無駄にすることに反対しました。
    これは規律にあらゆる分野の社会に直接的に関係しました。
    アンドロポフは工場、コルホーズの労働集団に大きな権利を与えなければならないと考えており、これを実現させました。
    人々がどうやったらよりよく働くだろうかというふうに、労働に対する報酬を与えるよりも市民の関心に訴えたのです。」


    アンドロポフの行った第1歩の成果が出始めたのは1年後だった。
    生産規律が高まり、労働への刺激が行われたおかげで食物の生産性が向上したのだ。
    より深い変化を起こすためには、時間と根本的な改革が必要だった。
    アンドロポフのまわりでは変革プロジェクトを用意する学者グループができてきた。
    だがこのプランが日の目を見ることはなかった。
    1984年2月アンドロポフは急に病状が悪化し、亡くなる前の数ヶ月は病床から政治を執り行う状態にまでなったからだ。

    アンドロポフが政権についていたソ連時代を研究する人の多くは、アンドロポフをロシア版の鄧小平と呼ぶ。
    これは国家統制の元に市場的な関係を導入し、やがては政治制度を民主化することができただろうという意味でのことだが、当時、アンドロポフの補佐官をつとめていたヴィクトル・シャラポフ氏は次のように語っている。

    「アンドロポフから私は幾度となく、中国の経験を学ぼうとしたことを聞いています。
    ハンガリーもアンドロポフの興味をひいていました。
    これは社会主義体制でありながら、初めて市場的要素が出現した国です。
    農民らは生産物の一部を国家に納め、残りを小売価格でさばいていました。
    また手工業的企業も民営化していたのです。
    このように次第に市場的要素へ移行してゆけば、われわれも成長を速め、よりよい生活へと移ることができたでしょう。
    しかしながらアンドロポフは死去し、こうした発案を支持できるような継承者は見つからなかったのです。」


    アンドロポフの伝記を書いたジャーナリストのレオニード・ムレチン氏は、その政治を評して、次のような一文を記している。

    「彼には多大な期待が寄せられた。
    だが実はこの人物は化粧直し的な措置しか取れなかった。
    これはこの国にとってはさらに失われた一年であった」


    アンドロポフの死後、改革については一切話題に上ることはなかった。
    それが再び語られるようになったのはミハイル・ゴルバチョフ氏が政権についてからのことだった。

    この話を締めくくるにあたって、アンドロポフの人となりに少し触れておきたい。
    アンドロポフとともに働いた人の多くはアンドロポフは非常に勤勉で広い分野に精通し、どんな新しいことに遭遇しても、すべてに通じようとまい進する人だったと語る。

    ここで再び、かつてアンドロポフの補佐官をつとめていたヴィクトル・シャラポフ氏にマイクを向けてみよう。

    「あの方はいかなる分野にも通じていましたが、最も得意とするものは内政、外交政治でした。
    アンドロポフは大量に読んでいましたが、私たち補佐官らを非常に驚かせたことがあります。
    それはアンドロポフは読むときに一行ごとに読むのではなく、段落を読んですごい勢いで読み飛ばしていくのです。
    あの記憶力は普通ではありませんでした。
    毎日膨大な量の紙を読みこなしていかねばならないのですが、これをアンドロポフは自分ひとりでやっていました。
    病院に入院して、片方の目しか使えない状態にあっても1日に400枚もの報告書を読みこなしていたんですよ!
    アンドロポフはよく政治の人間だ、ホモ・ポリティクスだといわれていました。
    日常生活は非常に慎ましやかで、大きなマンションを提供されたのに、それを拒み、子どもは大きくなって巣立っていったのだから、妻とふたりの生活にこんな大きな部屋はいらないと言っておられました。」


    アンドロポフを良く思わず、あまりにも厳格なその態度を激しく批判する人たちでさえ、アンドロポフが広い見識を持っていることは認めていた。
    ソ連でかつてイデオロギー上、受け入れがたいとされていたロック、ディスコ、シンセポップ。
    西側のミュージシャンが演奏するそういったジャンルの音楽の正規のレコードが大量に生産されるようになったのは、まさにアンドロポフの時代だった。
    アンドロポフ自身がことに好んだのは反体制的詩人のヴィソツキーの歌だったという。
    それでいながらアンドロポフはイデオロギー的統制や異分子への弾圧を弱めることは決してなかった。
    本当に一様には語れない人物だった。

    アンドロポフはモスクワの赤の広場のクレムリンの壁の脇に葬られた。
    葬儀には各国の政府代表者が参列し、そうしたなかには英国のマーガレット・サッチャー首相、米国のジョージ・ブッシュ・シニア大統領の姿もあった。

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月12日月曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月12日月曜日


    A.トーク
    モスクワで開催中の世界陸上の話題とリスナーからの要望に応えた内容となりました。


    B.選曲

    1曲目
    Валентина Толкунова и Лев Лещенко - Старт Дает Москва
    ヴァレンチーナ・トルクノーヴァとレフ・レシェンコ - モスクワはスタートの合図を出す

    2曲目
    Лариса трухина - Я Москва
    ラリーサ・トゥルーヒナ - わたしはモスクワ
    (再確認用音源未確認)

    3曲目
    Александр Грибоедов - Вальс
    アレクサンドル・グリボエードフ - ワルツ
    (お答えしますコーナー テーマ2)

    4曲目
    Ивушка
    柳の木
    (歌唱はサンクトペテルブルグ室内合唱団)

    5曲目
    Ансамбль "Финист Балалайка" - Ивушка
    フィニストバラライカ - 揺れる柳の歌


    再放送日時
    2014年5月10日21時台
    2014年5月12日21時台

    お便りスパシーバ 2013年8月10日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年8月10日土曜日

    担当:


    A.トーク




    情報元:
    potatoのラジオ受信記録
    http://potato1013.blog22.fc2.com/?mode=m&no=1198

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月9日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月9日金曜日

    A.トーク



    B.選曲

    1曲目



    情報元:
    http://9326.teacup.com/pechika/bbs/152

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月5日月曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月5日月曜日

    A.トーク



    B.選曲

    1曲目



    情報元:
    http://9326.teacup.com/pechika/bbs/148

    2013年8月4日日曜日番組表

    2013年8月4日日曜日番組表

    http://web.archive.org/web/20140116031246/http://m.ruvr.ru/download/2013/08/04/1302835830/2013-08-04_17-00-00.mp3

    21時台
    ニュース
    週間ラジオ展望
    再放送:お便りスパシーバ


    22時台
    ニュース
    週間ラジオ展望
    (再)臨時企画:朗読:ロシアの怪談(ニコライ・ゴーゴリ民話 『ヴィイ』)


    お便りスパシーバ 2013年8月3日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年8月3日土曜日

    担当:


    A.トーク




    情報元:
    potatoのラジオ受信記録
    http://potato1013.blog22.fc2.com/?mode=m&no=1192

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月2日金曜日 MMM東京特派員スペシャル「テレビでロシア語」!

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年8月2日金曜日

    http://japanese.ruvr.ru/2013_08_02/119011935/
    http://cdn.ruvr.ru/download/2013/08/13/1317140621/MMM-NHK NEW.mp3
    http://ameblo.jp/jenya/entry-11584449191.html

    A.トーク
    NHKロシア語講座に「サンクトペテルブルク・魅惑の旅」が登場しているということで、いちのへ東京特派員が渋谷のNHKスタジオを訪れ収録風景のレポートが紹介されました。


    B.選曲

    1曲目
    Алла Пугачёва - Ленинград
    アーラ・プガチョヴァ - レニングラード

    2曲目
    Эдуард Хиль - Дождь На Неве
    エドゥアルド・ヒリ - ネヴァ川の雨

    臨時企画 2013年8月1日木曜日 ロシアの怪談:ニコライ・ゴーゴリ民話

    臨時企画 2013年8月1日木曜日

    テーマ
    朗読:ロシアの怪談(ニコライ・ゴーゴリ民話 『ヴィイ』)
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/horror
    37分52秒

    担当:
    和田

    A.トーク
    作品の朗読がなされました。


    再放送日時
    2014年6月8日
    2014年7月5日
    2014年7月28日

    情報元:
    http://9005.teacup.com/matsu01/bbs/7488

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