お答えします 2013年10月31日木曜日 (日本における東方正教会、最初の侍からドストエフスキーまで)

    お答えします 2013年10月31日木曜日

    A.お題
    日本における東方正教会、最初の侍からドストエフスキーまで
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_10_31/123708828/
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/nikolay-yaponskiy


    B.選曲

    1曲目
    聖ニコライにささげる歌

    2曲目
    天司教

    3曲目
    常に幸いして

    4曲目
    第3アンティフォン


    再放送日時
    2015年4月9日22時台


    C.本文

    「日本人は深い信仰心を持つことの出来る民族である。
    これは尊敬する多くの日本人キリスト教徒の顔つきにはっきりとうかがえる。」

    日本に正教を「植えつける」ことに成功した初めての主教、ニコライ神父は日本滞在30年がたったときにこう書き付けている。
    正教には日本人の心に近い物が多くある。
    キリストの教える愛、自己犠牲、死者へ捧げる祈りがそうだ。

    日本における東方正教会の「初穂(最初の信者)」が現れたのは1868年。
    日本に渡ったニコライ修道司祭(ニコライ・カサートキン)が正教に入信したいと希望する3人の日本人に対して極秘に洗礼を施したときだった。

    極秘というのは1869年まで日本は他の宗教を伝道することも、それを信仰することも固く禁じられており、それを侵した場合、死刑に処せられる恐れがあったからだった。
    だがこうしたご法度も若い修道士に現れた最初の教え子たちをとどめはしなかった。
    3人のうちの1人は函館の神社に神官として仕えていた沢辺琢磨だった。
    パーヴェルという洗礼名を授かった沢辺は後に正教の司祭となる。
    沢辺は実はニコライを殺そうとやってきたのだが、ニコライの説教にすっかり驚いてしまい、その忠実な使徒となり、後継者となったのだった。

    日本で初めて東方正教会の信者になった侍たちは東北出身者らだった。
    明治維新で古い時代を代表してきたこうした侍たちは路傍に捨てられたかのような生活を囲い、内面的には深刻な危機状態にあった。
    改革から逃れるため、侍たちは東北部に分け入っていったが、それでも祖国に仕えたいという真摯な気持ちを変えることはなかった。
    彼らはこの苦しい時代に自分を支えることのできる、なんらかの教えや理想を必要としていた。
    そこにこの若いニコライ修道士が現れたのだ。
    キリストの愛についてニコライの語る教えは傷ついた侍たちの心を励ました。
    もちろん侍たちが感心したのはニコライの人柄や人間愛、豪胆さもそうだった。
    正教は侍たちの間で急速に広まっていき、侍らは新たな教えやロシア人の聖職者について口々に語り始めた。
    そしてそうした侍らは次第に自分の出身地へと戻っていき、今度はその親類縁者らも正教の教えに帰依していった。

    日本で最初の正教徒が出現し、東京ではロシア公使館付属地という条件で伝道が公式的に始まった頃にはニコライの日本滞在も8年に及んでおり、函館のロシア総領事館付属教会で主任司祭として働いていた。
    この間ニコライは日本語の学習を続けており、自分が半世紀にわたって生涯最後の日までとどまることになる国の歴史、文化、伝統を深く掘り下げていた。
    その国の言語、文化を深く知ることなしに、ニコライ大主教は正教の本質を日本人に伝えきることはできなかっただろう。
    ニコライのおかげで教会日本語が作られている。

    ニコライは信者らと共に福音書を訳し、教会の礼拝や祈祷文、そして多くの神学書も日本語になおしていった。
    日本人にはまったく馴染みのない非常に複雑な宗教的概念を伝えるために、正確な言葉を見つける作業は本当に大変な労働を要した。
    モスクワ大学、アジアアフリカ語大学のヴィクトル・マズリク教授はこれについて、次のように語っている。

    「ニコライ・ヤポンスキーは体系的に日本を研究したロシア人としては最初の人です。
    他のキリスト教の宣教師らとは異なり、ニコライは仏教、神道、儒教を研究しました。
    それはその民の精神的な生活を知らずにキリスト教を布教しても、何の結果も得られないことを知っていたからです。
    カトリックやプロテスタントの宣教者らは多額の資金を投じましたが、ニコライが投じたのは心でした。
    これは彼という人格のなした大きな功績です。
    ニコライは病院、孤児院、学校を建てていますが、そうした施設から後に有名なロシア文学の翻訳者らが育っていきました。
    半世紀の間にニコライは、他の宣教師ら全員を束ね、彼らが数世紀をかけて行ったことあわせても、それ以上のことを成し遂げ、これによって日本中のキリスト教信者全員の尊敬を集めました。
    日本人は聖ニコライを偉大な日本国民だととらえています。
    ニコライは宣教師や研究者のみならず、腕のいい外交官でもありました。
    なぜならばニコライは日本とロシアが最も複雑な関係にあった時期に1905年に日本に残ることのできた唯一のロシア人です。
    これを可能にしたことで彼は第1の権威者となったのです。」


    露日戦争の時代の聖ニコライの行いは特筆すべき大きな勲といえる。
    ニコライは祖国を愛していた。
    だが日本の敗北は望まなかった。
    平和のために祈りなさいと信者を祝福し、ロシア人捕虜らへの支援に自分の努力を集中した。
    終戦後、戦った二つの国の間の友好関係はあまりに迅速に回復されたが、これにはニコライの功績が大きい。
    露日戦争後、ニコライ堂の名で有名な東京復活大聖堂が、そして全国各地に約200もの正教会寺院が建立された。
    ニコライ堂は歴史的建築物となっている。
    また正教会の共同体も260を越え、およそ34000人の信者、43人の聖職者、116人の布教者を集め、神学校、学校6校が開校されていたほか、通訳者協会も2つの出版社も抱えていた。

    ニコライ大主教が1912年に死没すると、彼に代わって日本における東方正教会、日本ハリストス正教会を率いたのはセルゲイ・チホミロフ府主教だった。
    セルゲイ府主教の率いた日本ハリストス正教会は苦しい試練の時代を味わった。
    1917年に社会主義革命が起こる。
    これは本国からの宣教へのあらゆる金融支援を損ねただけでなく、正教を信仰する大国、ロシアという手本を台無しにした。
    ロシアに登場した新たな政権によってロシアのあらゆる宗教組織を代表する人々は苦しんだ。
    日本の正教会は自活の道を踏み出し、宣教活動、啓蒙活動も著しく縮小された。
    このため1920年代、多くの教会が閉鎖されてしまった。

    1923年日本の正教会をもう一つの試練が襲う。
    関東大震災が起こり、東京復活大聖堂、ニコライ堂が大きな損壊を受けたのだ。
    図書館や宣教のための建物は全壊した。
    セルゲイ府主教は大聖堂再建のために資金を集めようと、日本全土を、そして近隣諸国を束ね、心血を注いだ。

    1920年代の日本正教会は独立独歩で生きぬく力を発揮したが、そんななかにあってもモスクワ総主教座とのつながりを絶ったわけではなかった。
    これはロシア正教会が1917年の革命以降、ロシアをあとにした亡命者らによって設立されたロシア正教在外教会と袂を分かったときでさえも同じだった。
    分裂の原因は在外教会の高位聖職者らの立場だった。
    在外教会の高位聖職者らはモスクワ総主教座が反宗教的なソビエト政権の圧力に屈していると捉え、総主教座に非好意的な態度を示していた。
    ところが日本正教会はモスクワ総主教座はソ連のなかで勇猛果敢に生き残りを図っていると考え、これを支持しつづけていた。
    日本の正教会にとってはロシアの正教会はつねに母体教会だったからだ。

    日本における正教会の歴史に詳しい横浜国立大学のエレオノラ・サブリナ教授は次のように語っている。

    「日本正教会は正教の源であるロシアの正教会、そしてその聖職者らを信じ続けています。
    なぜなら正教の教えはロシアから伝えられたからです。
    日本では教会の分裂のことも、1917年の革命後、ロシアをあとにした亡命者らに在外ロシア正教会が出来たことも知られていました。
    日本人は在外教会の立場を理解せず、ソ連に残った正教会が迫害される様子に胸を痛めていました。
    日本でも19世紀には日本人司祭らも投獄の憂き目を味わっていたからです。
    聖ニコライの直弟子であったパーヴェル沢辺でさえ監獄暮らしを経験しましたし、1870年代に布教の許可が出たあとも迫害は続いていたのです。」


    第2次世界大戦中の日本の法律では外国人は宗教団体の代表を務めてはならなかった。
    このためセルゲイ府主教は日本正教会を管轄する権利を失い、引退を余儀なくされた。
    終戦の年1945年、セルゲイは諜報行為を疑われ、特別高等警察(特高)に逮捕され拷問を受けた。
    40日に及ぶ拘留を解かれ出獄したセルゲイの健康状態はあまりにも衰弱していた。
    その数ヵ月後、セルゲイは永眠する。
    セルゲイに代わってニコライ小野帰一掌院が信徒を束ねることになった。
    ところが小野司祭が同胞であるにもかかわらず、信徒らは新たな主管者となった小野司祭の存在をすぐには認めようとしなかった。
    だが時がたつにつれ、ニコライ小野司祭は信徒らの尊敬を集めるようになる。

    平和なときが訪れた。
    だが日本正教会にとっては平和なときではなかった。
    それは日本正教会が日本における米国の国益の人質的な存在になってしまったからだった。
    1946年ニコライ小野主教と日本の主教管区監督局はモスクワ総主教座のアレクシー1世に対し、日本の正教会と母体教会との合一を要請する。
    この問題はほぼ解決されたかに思われたが、ニコライ小野主教が突然要職を解かれ、合一の話は取りやめになってしまった。
    これが起きたのはマッカーサー元帥を頂点とする米国のGHQの圧力が原因だった。
    マッカーサーは日本正教会に自分の腹心の米国のヴェニアミン主教を押し付けた。
    ヴェニアミン主教はロシア正教会によって作られた、いわゆる米国府主教座を代表していたが、この府主教座は後に母体であったロシア正教会とは分離してしまう。
    こうした米国の影響がなくても、日本の正教徒はそのほとんどがヴェニアミン主教を頂点とする米国府主教座に入った。
    ただニコライ小野主教とアントン高井司祭の率いる少人数のグループのみがモスクワ総主教座に忠実な立場をとり続けた。
    これは大体が北海道と東京の信者たちだった。

    サブリナ教授はさらに次のように語っている。

    「ニコライ堂が建つ丘のふもとにはプーシキン学校がありました。
    このプーシキン学校には外交官の子息らが学んでいたのですが、学校の建物のなかに北米の管轄に入ることを拒み、モスクワ総主教座ととどまろうとした信徒らのための礼拝の場がしつらえられました。」


    日本正教会の2つの流れは米国占領政府がモスクワ総主教座とのやりとりを様々に妨害しようとしてきたにもかかわらず、長い間、和解しようと試みてきた。
    だが母体教会との合一はやはり実現しなかった。
    1969年、米国府主教座とモスクワ総主教座の間に完全な和解が成立し、これに続いて日本の正教会を「自治教会」(アフトノモス)とすることが決まった。
    このとき以来、日本正教会は日本人の聖職者らが率いており、現在は東京の大主教、全国の府主教のダニイル主代郁夫が日本正教会を代表する府主教となっている。
    こういった経緯があったものの、文書には日本正教会とモスクワ総主教座の関係は今日でも保たれており…と書かれている。

    さて日本正教会は現在どうなっているのだろうか?
    現在日本の正教徒はずいぶん増え、3万人を越す信者と2人の主教、22人の聖職者がいる。
    教会の数は72軒、そして神学校が1校あるほか、正教徒の団体、正教青年団体が活動しており、「正教時報」という雑誌が出版されている。
    礼拝は日本語で行われているが、用いられる言葉は耳で聞くだけではかなり理解に難しい。
    というのも聖ニコライとその使徒たちが礼拝と聖書を翻訳したのはまだ19世紀のことで、文法的にも、語彙自体も古典的な表現があまりに多いからだ。
    付け加えるとロシア語で行われる礼拝も全く今の言葉からはかけ離れている。
    普通のロシア人でも子どもの頃から祈祷や礼拝のテキストと馴染んでいなければ、それを理解するのはとても難しい。

    日本人の正教徒らは独自の運営を行っている。
    運営予算もきちんとたてられており、日本の正教徒らの持ち寄る資金を集め、それによって成り立っている。
    これはロシアの現状とは異なる。
    ロシアの教会も信者の持ち寄るお金で運営されているが、会計は不明瞭でいくらお金があって翌月はどうなるか、翌年はどのくらいあるかも把握されていない。
    今日は裕福なスポンサーが来るかもしれないが、明日は蝋燭を買うのにやっと足りるだけのお金しか集まらないかもしれない。
    ロシアの現状は日本のそれとは全く異なる。

    函館のハリストス復活教会のニコライ・ドミトリエフ司祭はこれについて次のように説明している。

    「信者ひとりひとりが来年の寄付額をあらかじめ明らかにするので、教会はこれを元にして予算を立てます。
    日本人正教徒は決して裕福ではありませんが、きちんと定期的に寄付を行ってくれます。
    年に一度慈善バザーが行われ新品の物品から要らなくなったものを売った収益金は困っている人たちや障害者リハビリセンター、老人ホームなどの社会施設に送られます。」


    正教会の一員となるためには洗礼を受けねばならない。
    洗礼を受けるためには福音書を学び、正教の信仰の基礎を知って礼拝に来なければならない。
    これは親が正教徒であり、子どものときに洗礼を受けた人には当てはまらない。
    日本の正教会の場合、信仰は親から子へと140年間継承されてきたというケースが多いのだ。
    それでも信仰にいたるというのは、一人一人の人間の心の秘密であり、独自の歴史といえる。
    現在の日本人正教徒は聖ニコライ・ヤポンスキーの洗礼を受けた侍の子孫らだけではない。
    これについて函館ハリストス正教会のニコライ・ドミトリエフ司祭はさらに次のように語っている。

    「日本の信者は、まず昔からの信徒で、最初に入信した者たちの子孫がいます。
    日本人は誠実な民で、忠実な姿勢を保ち、それを他にも伝えていきます。

    次に信者となった人たちは、いわゆる「頭で考えて」きた人たちで、ロシア語を学び、ドストエフスキーと衝撃的な出会いを経験し、正教会に通うようになって信者となったケースです。
    セルゲイ・ラフマニノフの教会音楽を聴いて、またロシアの宗教絵画を目にして、それから信仰にいたったという人もいます。

    次のグループは「偶然」に信者になった人たちで、散歩していたら教会の灯りがともっているのが見えたので入ったら気に入ってしまい、そのまま信仰の道に入ってしまったというケース。
    こういう人たちにどうして正教を選んだんですかとたずねると、説明はできないんですけど、ここにはなにか本物のものがある、ここには神様がいるって感じるんです、と答えますよ。」


    日本人には入信の理由に正教会にくるとひとつの家族のなかにいるように感じるからと答える人もいる。
    これがまさに互いを兄弟姉妹と呼び合う正教会の魅力なのだ。

    (東京復活大聖堂教会の水の輪混声合唱団と函館ハリストス正教会の聖歌隊に、番組内での日本語翻訳の聖歌の音声使用許可を頂きました。
    末筆ながら感謝申し上げます。)

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    臨時企画 2013年10月28日月曜日 インタビュー ピャトニツカヤ25番地

    臨時企画 2013年10月28日月曜日

    テーマ:
    インタビュー ピャトニツカヤ25番地
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_10_28/123519492/


    A.トーク
    放射線基礎医学の分野における世界的権威である大阪大学の教授を1021スタジオにお迎えして、先生の「安全哲学」のインタビューがなされました。



    お便りスパシーバ 2013年10月26日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年10月26日土曜日

    担当:
    和田

    A.トーク
    中波継続、短波年内停止予定
    埼玉トーク




    情報元:
    http://9005.teacup.com/matsu01/bbs/7537
    potatoのラジオ受信記録
    http://potato1013.blog22.fc2.com/?mode=m&no=1247

    臨時企画 2013年10月23日水曜日 ロシアナの部屋 ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏インタビュー

    臨時企画 2013年10月23日水曜日 ロシアナの部屋

    テーマ:
    4大戯曲チェーホフ舞台 「かもめ」上演ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏インタビュー
    http://japanese.ruvr.ru/2013_10_23/123271521/
    http://static.ruvr.ru/download/2013/10/25/1322044548/KERARINO.mp3

    担当:
    いちのへ特派員

    A.トーク
    ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏へのインタビューがなされました。



    B.選曲(コーナー終了時)

    1曲目
    МакSим - Ветром Стать
    マクシム - 風になる
    https://www.youtube.com/watch?v=q8Il2rhe3MI


    再放送日時
    2014年7月11日

    お便りスパシーバ 2013年10月19日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年10月19日土曜日

    担当:


    A.トーク



    情報元:
    potatoのラジオ受信記録
    http://potato1013.blog22.fc2.com/?mode=m&no=1244

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年10月18日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2013年10月18日金曜日

    A.トーク
    世界サーカスフェスティバル?


    B.選曲

    1曲目




    情報元:
    (予備)josef_zenchanの受信ログとQSLなどの返信物のレポート
    http://blog.livedoor.jp/qsljosefzenchan/archives/6904081.html

    ヤングウエーブ 2013年1x月x日木曜日

    ヤングウエーブ 2013年x月x日木曜日

    2013=12
    1003/1010/1017/1024/1031
    1107/1114/1128
    1205/1212/1219/1226

    (一部のみ把握)

    A.お題

    x.和田アナのロシアレポート(ウラジーミル日帰り旅)

    9時くらいにようやく朝が来た





    再放送日時
    2014年5月12日21時台
    2014年6月7日
    2014年6月28日
    2014年7月23日

    お答えします 2013年10月17日木曜日 (ロシアの自然災害について)

    お答えします 2013年10月17日木曜日

    A.お題
    ロシアの自然災害について
    http://japanese.ruvr.ru/2013_10_17/123009626/

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年6月8日21時台/22時台
    2014年7月5日21時台/22時台
    2014年8月4日22時台


    C.本文

    自然災害の発生件数はここ10年ごとに2倍ずつ増えており、ますます憂慮すべき事態になっている。
    地震、暴風、洪水に見舞われるケースが多くなってきた。
    自然災害が破壊力の大きい技術災害を呼ぶ例も少なくない。
    2011年の福島第1原発の事故がそのいい例だろう。
    21世紀の初頭から数えてこの13年で自然災害による被災者の数は27億人に及んだ。
    この数は地球上の人口の3人に1人を上回る。
    2001年国連総会によって10月の第2水曜を国際防災の日とすることが定められた。

    今回、滝さんによいテーマをいただきましたこと感謝いたします。

    実際、自然現象は世界中でますます予見不可能になりつつある。
    ロシアは自然、気候条件が多岐に渡るため、様々な規模の自然災害が発生する脅威に常にさらされているといってもよい。
    森林火災、洪水、地震、津波、台風、雪崩、流氷の堆積など、こうした自然現象が定期的に市民生活に降りかかってきており、経済にも損失を与え、環境にも害をもたらしている。

    だが最も危険性の高い自然災害はやはり地震だろう。
    毎年、世界には震度の違いはあれ100万回を超える地震が発生しているが、ロシアにも地殻プレートが重なり合い、潜在的に地震の多発するゾーンが存在している。
    カムチャッカ、サハリン、アルタイ、東シベリア、北カフカス地方がそうした危険ゾーンに属している。
    昨今、研究者らが特に憂慮しているのはカムチャッカ半島の東側海岸地域で、すでに数年にわたって、大地震の発生する危険度が高まっていることが取りざたされている。
    カムチャッカ半島やクリル諸島で発生する地震のほとんどが日本の地震と同様、時に津波を伴うことから状況はさらに深刻化している。
    たとえばカムチャッカ半島の太平洋岸で1952年に起きた地震では、あまりにも高波の津波が発生し、セヴェロ・クリリスクの町が完全に破壊されている。

    ここ百年でロシアで最も被害の大きかった地震は1995年サハリンで起きたものだった。
    サハリンの揺れは大陸部でも感じられたほど大きく、ネフチェゴルスクは震度10の揺れで大きな破壊をこうむった。
    ネフチェゴルスクの地震は予期せぬ恐ろしいものだった。
    ヘリコプターから現地の様子を目撃者した人々は非常に深い亀裂がいたるところに入り、地球が破裂したかのような印象を受けたと語っている。
    ネフチェゴルスクの市民のほとんどはアパートの自宅で死亡した。
    地震が起きたのは深夜1時で、みなが就寝していた時間帯だったからだ。
    ロシア非常事態の救助作業では初めて「5分間の静寂」メソッドが用いられた。
    これは1時間毎に5分間作業機械のスイッチを止めるというもの。
    どこかに埋まった被災者のうめき声を聞き漏らさないため、5分間作業も会話もストップさせる。
    瓦礫の下から救出された人の数は2000人を超えた。
    ネフチェゴルスクの町はあまりのすさまじい損壊のために復興が行われないことが決まり、町のあった場所には記念碑と礼拝堂が建てられた。
    研究者らの観測では1995年は太平洋地域で前代未聞の活発な地震活動があった年だった。
    1995年の冬、神戸の震災では6300人の人命が失われている。

    現在ロシアで地震活動の活発な地域は7つある。
    地震活動を監視するうえで最も重要な機関はオブニンスクの地質物理学庁だ。
    現在ロシアには300近くの地震観測ステーションがあり、地震の予測のためのデーターベースを準備している。

    災害予測で主要な役割を演じているのはロシア気象庁。
    気象庁の職員らはロシアで危険な気象現象が起きる確率は夏のほうが高いと指摘している。
    夏はロシアでは気流の流れが垂直方向に起こり、これが強まると雷や強風などの危険な自然現象がおきやすくなる。
    09年夏、モスクワ州はこの地域にはあまりにも珍しい現象を目にした。
    クラスノザヴォツク市で竜巻が起きたのだ。
    竜巻は石造りの住居が立ち並ぶ中を通過し、樹木だけでなく2トンもの重さの自動車までも横倒しにし、町の市場を完全に破壊した。
    気象庁によると竜巻の風圧は1平方メートルあたり250キロにも達している。
    モスクワでは1998年に暴風が吹き荒れたが、これも夏で、ロシアのヨーロッパ地域ではこの地域には似つかない30度を超える酷暑が続いていた。
    98年の暴風では11人が死亡している。
    トロリーバス、路面電車に被害がでて、都市の公共交通機関は大きく乱れた。
    突風はボリショイ劇場、クレムリン大宮殿の屋根を破壊した。
    飛ばされた樹木があたって、クレムリンの城砦の壁のぎざぎざが12箇所で壊された。
    ノヴォデーヴィチ修道院の十字架も風で飛ばされた。
    専門家らの調べでは98年の暴風は1904年に起きた竜巻以降、モスクワが味わった自然災害で最大級の破壊力を有するものだった。

    もうひとつモスクワが経験した異常気象はスモッグだった。
    2010年の夏、モスクワとモスクワ郊外は異常な暑さと郊外の泥炭の発火によって起きた森林火災の煙で、文字通り息も絶え絶えになってしまった。
    この異常な天災のため、首都は濃いスモッグで覆われてしまった。
    スモッグは地下鉄構内にまでもぐりこみ、空港の作業を麻痺させ、クレムリンの有名な閲兵の交代式まで取りやめになる始末だった。
    モスクワ動物園でもモスクワ郊外の森でもたくさんの動物たちが死んでいる。
    スモッグを吸い込まないようにと市民がこぞってガーゼ、ガスマスクを求めたため、品が不足し、ありえないほどの高値がつけられた。

    だが最も深刻な損害を与えるのは洪水ではないだろうか。
    ロシアでは大都市も小規模な居住区も洪水に見舞われている。
    たとえばサンクト・ペテルブルグは文字通り水の上に建てられており、外国人観光客らはこれを「ロシアのヴェネツィア」と称えるが、この町が1824年に経験した洪水は市の歴史のなかで最も大きな破壊をもたらした。
    この跡は今日でも明らかで、建物の壁には1824年の洪水でどこまで浸水したかを示すプレートが掲げられている。
    当時ネヴァ川やたくさんの水路の水位は4メートル以上も上がり、600人もが溺れ死に、多くの人が行方不明になった。
    また最近では2012年、クラスノダールで豪雨と強風の結果、起きた洪水も大きな被害をもたらした。
    2日間で降雨量は月平均の降水量の5倍を記録した。

    2013年、最多の洪水の数を記録したのはシベリアと極東だった。
    極東の洪水は過去100年で最も大きなものとなり、7月末に始まり約3ヶ月にわたって収拾していない。
    アムール川の水位は通常より10メートルも上昇し、これによって何千ヘクタールもの陸地が浸水した。
    コムソモリスク・ナ・アムーレ市だけを例にとっても約900軒の家屋が浸水し、12000人を超す被災民が出ている。
    町のほぼ半分が道路も含め浸水した。
    コムソモリスク・ナ・アムーレの町を災害から救うため、3000人を越す兵士とレスキュー隊員が昼夜を問わずダムを建設し、特製の鉄の盾を設置し、この作業を数百人のボランティアが手伝ったほか、ダムが決壊しないよう新技術を用いて様々な方策が採られた。
    連邦政府の決定で、この地域の被災者らには一時的な住居があてがわれ、住居の修復のため、または新居を購入するための見舞金が支払われている。

    深刻な被害をもたらすのは路面凍結、吹雪、雹や氷雨など、大気圏の現象もそうだ。
    こうした自然現象を予測するためにはロシアでは「非常事態の予測、処理庁」という統一国家システムが機能している。

    それでもどうしても予測できない稀有な現象もある。
    その良い例が2013年2月にチェリャービンスクに落ちた隕石だ。
    隕石はチェリャービンスク郊外の地上25キロの地点で爆発し、これによって1600人を越す市民が被害を受けた。
    その多くが割れたガラスの破片が当たって怪我をしている。
    米国航空宇宙局(NASA)の試算では、隕石は直径17メートル、大気圏に侵入してきたときの重さは約10000トンで、それが秒速18
    キロという速さで飛んできたとされている。
    隕石は大気圏に入って数秒後爆発した。
    ロシア科学アカデミーの試算では爆発時に放たれたエネルギーは100キロトンから200キロトンとされている。
    これは1908年におきたツングースカ大爆発事件以来、地球に落下した最大の天球だった。
    チェリャービンスク隕石落下事件以降、ロシアでは宇宙からの脅威を予測するシステムの構築の必要性が唱えられ始めている。

    国連の専門家らが21世紀の初頭から自然災害が世界経済にもたらした損害額を算出したところ、2.5兆ドルに上ることがわかった。
    事態の深刻さは国際世論に徐々に浸透し始めている。
    地球冷却化に向かって気候変動が起きる可能性を口にする者、逆に温暖化の警鐘を鳴らす者とさまざまだが、これはまだ仮説の段階で、研究者のなかには気象の予測を立てることは基本的に不可能だと語るものも少なくない。
    それでも21世紀、人類は最新技術に大きく支えられている。
    たとえば以前は沿岸まで打ち寄せてこなければわからなかった津波も、人工衛星のおかげで発生すると同時にわかるようになった。
    このため津波が押し寄せてくる前に、ある程度それに備えることが可能となり、犠牲者の数やリスクを最大限縮小されるようになっている。

    科学と技術 2013年10月14日月曜日

    科学と技術 2013年10月14日月曜日

    A.お題

    1.アムールトラの遺伝子解明、クローン作製による保護王手


    2.ロシアの高校生、次世代大量記憶媒体を開発


    3.ナノ粒子から人間を救うシベリアハタネズミ


    4.火星入植者は必要なもののすべてを印刷して手に入れる



    選曲リスト 2013年10月14日月曜日

    選曲リスト 2013年10月14日月曜日

    22時台
    ニュースの後

    1曲目
    Александр Буйнов - Падают Листья
    アレクサンドル・ブイノフ - 落ち葉

    2013年10月14日月曜日番組表

    2013年10月14日月曜日番組表


    https://web.archive.org/web/20131014170023/http://jpnserver.streamr.ru:8024/jpn
    https://web.archive.org/web/20131014212052/http://jpnserver.streamr.ru:8024/jpn

    コーナー外選曲リスト
    http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-3588.html

    21時台
    ニュース
    ラジオジャーナル今日の話題


    22時台
    ニュース
    ラジオジャーナル今日の話題
    科学と技術
    http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-3587.html

    お便りスパシーバ 2013年10月12日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年10月12日土曜日

    担当:


    A.トーク



    情報元:
    potatoのラジオ受信記録
    http://potato1013.blog22.fc2.com/?mode=m&no=1241

    各地の話題 2013年10月11日金曜日

    各地の話題 2013年10月11日金曜日

    A.お題

    1.

    X.モスクワ発、ナノ技術でロシアの21世紀モードを創生
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_10_11/122719056/




    臨時企画 2013年10月1X日X曜日 ロシアにおける日本食

    臨時企画 2013年10月1X日X曜日

    テーマ:
    おいしい日本の秋:ロシアにおける日本食
    http://japanese.ruvr.ru/2013_10_11/122696002/
    http://static.ruvr.ru/download/2013/10/10/1321610569/WADA.mp3
    関連
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2013_10_08/122556052/?slide-1

    A.トーク
    ロシアにおける日本食について、モスクワで開催された日本食のイベントの概要や出場した日本人などに日本食の今後の展望などを含めたインタビューなどがなされました。




    お便りスパシーバ 2013年10月5日土曜日

    お便りスパシーバ 2013年10月5日土曜日

    担当:
    日向寺・真野

    A.トーク
    年内で短波放送から撤退



    情報元:
    国際短波放送情報
    http://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/33172968.html
    http://blogs.yahoo.co.jp/swl_information/33165033.html

    お答えします 2013年10月3日木曜日(吟遊詩人 ブラート・オクジャワについて)

    お答えします 2013年10月3日木曜日

    A.お題
    吟遊詩人 ブラート・オクジャワについて
    http://japanese.ruvr.ru/2013_10_03/122282317/
    http://japanese.ruvr.ru/2009/05/19/419620/(過去放送分)

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3


    B.選曲

    1曲目
    Булат Окуджава – До Свидания, Мальчики
    ブラート・オクジャワ - さようなら少年たち

    2曲目
    Булат Окуджава – Надежды Маленький Оркестрик
    ブラート・オクジャワ - 希望の小さなオーケストラ

    3曲目
    Булат Окуджава – Грузинская Песня
    ブラート・オクジャワ - グルジアの歌
    注意:歌ってるのは山之内重美さんです。

    4曲目
    Булат Окуджава – Былое Нельзя Воротить
    ブラート・オクジャワ - 過去は繰り返すことができない


    再放送日時
    2014年5月09日22時台
    2014年6月09日21時台/22時台
    2014年8月10日21時台
    2014年8月28日22時台
    2014年8月29日21時台
    2015年4月18日21時台
    2015年5月07日21時台


    C.本文

    ブラート・オクジャワはひとつのエポックを象徴する名前となりました。
    そのエポックとは「大祖国戦争」後、みんなが大きな希望を抱いていた時代です。
    オクジャワの運命は稀有なものであると同時に典型的なもので、このエポックを映す鏡ともいえるものでした。

    1924年5月9日、モスクワである一人の男の子が生まれます。
    この子の両親は父はグルジア出身の若き共産党員シャルヴァ・オクジャワ、母はアルメニア人のアシュヘン・ナルバンヂャン。
    ふたりはそのたった2年前、大学に入るためにモスクワに出てきたばかりでした。
    お父さんは21歳、お母さんは19歳と本当に若かったのですが、ふたりは党員としての経歴をすでに有しており、共産党のロマン思想に満ち溢れ、誠実で確信に満ちた、そしてナイーブで不屈の精神の持ち主でした。
    最初の息子につけた名前も普通のものではありません。ブラートというのは「鋼鉄」を意味します。

    新たな生活を形作ろうと必死で働く親たちとブラートが一緒に過ごすことはあまりありませんでしたが、それでもこの不足分をあまりあまって補ってくれたのは大好きなおばあちゃんでした。
    グルジアではおびただしい数の親戚がいつもブラートのことを首を長くして待っていてくれました。
    そんな幸せな子ども時代はあまりに早く終わりを告げました。
    ブラートが12歳のときです。

    当時、一家はニージニー・タギール市に住んでいました。
    ブラートの父はタギール市の共産党市委員会の第1書記を務めていました。
    1937年2月の初め、突然父が逮捕されます。
    当時、大量粛清はいたるところで行われており、高いポストについた役人でさえもこれを間逃れる方策はなかったのです。
    逮捕の翌日、朝刊には新たな人民の敵を暴露する記事が載りました。
    でもブラートは新聞を読まず、いつもどおり学校へと向かったのです。
    学校につくとブラートは、父が共産党員ではなく、人民の敵であったと聞かされました。
    目に涙を浮かべて家に戻ったブラートは母親に、学校には金輪際行かないと宣言したのです。
    タギール市で父を失った一家は急いで荷物をまとめ、モスクワへと旅立ちます。
    旅立つ一家には見送りのものもなく、誰も温かい言葉をかけてはくれませんでした。
    ブラートのお父さんはついこのあいだまで、委員会の職員に慕われ、存命中にこの町に記念の銅像を建てなければといわれるほどだったのに。

    オクジャワの母は人民の敵の妻として党を追われ、職も失いました。
    友達も顔を背け、知り合いではない振りをしました。
    ある日、真夜中にドアがノックされました。
    この瞬間が来ることを母親はもう前から覚悟していました。
    彼女の夫を襲ったのと同じ運命がやってきたのです。
    虚偽の告発で彼女は鉱山での強制労働に送られてしまいました。

    ブラートは両親の逮捕を嘆き悲しみました。
    父が逮捕されたとき、親戚はみな、これは何かの間違いだ、すぐに疑惑が晴れて、お父さんはうちにもどってくるよ、とブラートに言っていたのです。
    ところがこんどはお母さんが…。
    こんなにも革命に忠実な、誠実な党員たちがなぜ突然卑劣な裏切り者扱いされたのか、ブラートにはどうしてもわかりません。
    彼のママとパパは本当に「人民の敵」になってしまうのでしょうか?

    結局この事態がどう収まったのかはわかりません。
    おばあさんには急に大人になった孫を相手にする力はありませんでした。
    学校卒業後、ブラートは砲兵学校に入学書類を出しましたが、保健委員会の書類審査で落ちました。
    ブラートはグルジアの、母の妹の元にいくことになりました。この叔母はブラートに、彼の両親は逮捕されたのではない、外国に特務課題を負って派遣されたのだが、非合法活動のために二人は人民の敵として非難を受けたのだと説明しました。
    これでブラートは胸をなでおろしましたが、心に刻まれた傷は深く、生涯癒えることはありませんでした。

    子ども時代にブラートが負ってしまったこの傷は一番深手のものでしたが、これにとどまることはありませんでした。
    新たな傷をブラートはそれからまもなくして受けてしまいます。
    これは彼がその後展開した創作活動のみならず、全生涯に大きな刻印を残すものとなります。
    それは戦争でした。
    1941年から45年、ナチス・ドイツを相手に戦われた戦争。
    1942年、ブラートは歳を何年か偽って志願兵として戦場へ赴き、負傷します。
    前線で彼が目にしたものは非常に自然に反するものでした。
    ブラートはこれ以来、生涯戦争を憎むようになります。
    人間の自然現象に全く矛盾するものとして戦争を憎む気持ちはオクジャワの多くの歌に歌われています。

    1曲目
    Булат Окуджава – До Свидания, Мальчики
    ブラート・オクジャワ - さようなら少年たち


    戦争の前線から復員し、1945年ブラートはトビリシ大学文学部に入学します。
    そして卒業後の1950年、妻を伴いカルーガ州に学校の教員として赴任しました。
    1954年、30代を迎えたブラートは教員を辞め、地元の新聞社に就職します。
    このとき、ブラートの初めての詩集が世に出版されます。
    この年はブラートにとって本当の意味で記念すべき年となりました。
    それはまず、ブラート・オクジャワは田舎の新聞にその詩が時々掲載される、単なる詩の愛好家から、カルーガ州の詩人のひとりとしてその専門性を認められるようになったからでした。

    1954年、オクジャワに長男が誕生します。
    この年、母親は釈放されました。
    彼女は名誉回復され、謝罪を受け、没収されたモスクワの中心部のアルバート通りのアパートの代わりを受け取ります。
    恐怖はすべて過去に去ったかに思われました。
    これでブラートも何年も夢に見、恋しがったモスクワに戻ることが出来るのです。

    モスクワにくると、オクジャワは出版社で編集を担当し、その後「文学新聞」の詩歌部の部長となります。
    オクジャワ自身も詩を書き続け、歌を作り続けました。
    ところが母親との関係だけはなんともなりませんでした。
    収容所で暮らした歳月は、彼女の分別に大きな影を落としてしまったのです。

    1956年からオクジャワは自作の詩に曲をつけて歌い始めます。
    人気はしだいにあがりました。
    オクジャワはみんなの心を本当の意味でつかむためには素晴らしい歌声や美しい容姿がかならずしも必要ではないことを証明したのです。
    背の低い男が、決して広くはない音域の声で歌う歌がみんなの心をわしづかみにしました。
    オクジャワがこんなにも人をひきつけたのはなぜだったのでしょうか? 
    おそらく、あまりにも誠実で高貴な人柄と思想の、作品のイデーの高邁さにその秘密があるように思われます。

    2曲目
    Булат Окуджава – Надежды Маленький Оркестрик
    ブラート・オクジャワ - 希望の小さなオーケストラ


    正直いえば、オクジャワの歌は社会全体の気運と非常にかけ離れていました。
    1960年代初めはエポックだけでなく、人々もまったく別の様相を呈していました。
    ずっと明るく、喜びにあふれた時代となっていたのです。
    戦後の大々的な建設、地球の周りを飛ぶ人工衛星の打ち上げ、ガガーリンの成し遂げた初の有人宇宙飛行に社会全体はたくさんの幸せを味わっていました。
    この時代に歌われた歌もそれに呼応する、人生の喜びにあふれ、勇ましく行進し、光り輝く未来に響くものでした。
    ところがオクジャワの歌は戦争や平和を、愛や裏切りを、名誉、誠実さを考えさせるものだったのです。
    たとえば、彼の有名な「ブドウの種」という歌。
    「ぶどうの種を地面に埋めました」というフレーズで始まるこの歌。
    主人公の私は大きなものを要求はしない。
    少しだけを手に取る。
    ひとつぶのブドウの種をとり、ぶどうのツルを育て、友達を呼んで、心を愛で満たそう… 
    少しだけを取り、たくさんのものを与えようというのは、これこそ高貴な魂ではないでしょうか。
    これがオクジャワの歌うどんな歌にも現れているのです。

    3曲目
    Булат Окуджава – Грузинская Песня
    ブラート・オクジャワ - グルジアの歌
    注意:歌ってるのは山之内重美さんです。


    オクジャワの歌に全く注意を払わない人は事実上誰もいませんでした。
    文句なしにすぐに気に入ってしまう人もいれば、その歌にも作詞家にも激しく異議を唱える人も出てきました。
    音楽がなっていない、ギターの演奏が下手だ、歌声がなっていないという批判が飛びました。
    それでもカセットテープレコーダーの登場でオクジャワの歌は目覚しい勢いで広まっていったのです。
    ホールの入り口付近で歌うオクジャワを聞こうとサッカーの試合の観客ほどの数の人が集まってきたため、騎馬警察が用意されたほどです。
    テープレコーダーに録音されたオクジャワの歌はソ連各地に伝わっていきました。

    オクジャワは詩や歌を書き続け、長編小説、中編小説を執筆し、人民の心をつかみ、栄光を勝ち取ってゆきます。
    オクジャワは800以上の詩を書いていますが、多くが音楽とともに生まれでたものです。
    オクジャワの歌はいまだに映画で芝居でコンサートのプログラムで、テレビでラジオで流され、歌われています。
    初めて正規の形で出されたレコードは1968年パリ。
    ソ連政権の大きな反対にもかかわらずリリースされました。
    ところがそのあとのレコードはすべて後にソ連で出されています。
    現在、国立文学博物館にあるテープによるオクジャワの音源は280を超えています。

    オクジャワは1997年6月12日、コンサートに出演しに出かけたパリで客死します。
    死亡診断書に書かれた死因は流行性感冒。
    それでも人々の心に植えつけられたオクジャワへの愛は消えることはありません。
    毎年、オクジャワの誕生日である5月9日にはモスクワで詩人、吟遊詩人であったオクジャワを偲んで音楽フェスティバルが開かれています。

    ブラートは本当に強い鋼鉄です。
    この名前をオクジャワ自身も見事に体現しました。
    ブラートを幾多の困難が襲いましたが、ブラート・オクジャワはこれを素晴らしい詩に鋳直し、その詩が今日、人々を助け、痛みに打ち勝ち、心の平安を取り戻してくれているのです。

    4曲目
    Булат Окуджава – Былое Нельзя Воротить
    ブラート・オクジャワ - 過去は繰り返すことができない


    2013年10月2日水曜日番組表

    2013年10月2日水曜日番組表

    https://web.archive.org/web/20131002125444/http://jpnserver.streamr.ru:8024/jpn
    https://web.archive.org/web/20131002131453/http://jpnserver.streamr.ru:8024/jpn

    21時台
    ニュース
    ラジオジャーナル今日の話題
    再放送:文化の世界


    22時台
    ニュース
    ラジオジャーナル今日の話題
    (再)臨時企画ソチ五輪への道(9月28日放送分)
    再放送:モスクワ情報エクスプレス


    文化の世界 2013年10月1日火曜日

    文化の世界 2013年10月1日火曜日

    A.お題

    1.日本版のマトリョーミン


    2.オペラ劇場の開幕に寄せて


    3.モスクワで閉幕した国際フェスティバル四季



    モスクワ情報エクスプレス 2013年10月1日火曜日

    モスクワ情報エクスプレス 2013年10月1日火曜日

    A.トーク

    1.初雪、モスクワにはラーメン専門店がない


    2.ハンバーグを初めて作った



    B.選曲

    1曲目
    -
    - ?

    2曲目
    -
    -

    3曲目
    -
    -

    2013年10月1日火曜日番組表

    2013年10月1日火曜日番組表



    21時台
    ニュース
    ラジオジャーナル今日の話題
    モスクワ情報エクスプレス
    http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-3582.html

    22時台
    ニュース
    ラジオジャーナル今日の話題
    文化の世界
    http://pycradiomemo.blog.fc2.com/blog-entry-3593.html

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