ヤングウエーブ 2014年2月27日木曜日

    ヤングウエーブ 2014年2月27日木曜日

    A.お題

    1.ロシアの児童文学作家、グリゴリー・オステルさんの作品、「悪い子の勧め」について
    http://japanese.ruvr.ru/2014_02_27/129237918/
    Григорий Остер

    2.音楽のページ (Сати Казанова=サーティ・カザノヴァ特集=2013年11月21日放送分)
    http://japanese.ruvr.ru/2013_11_22/124783997/



    B.選曲 (2013年11月21日放送分)

    1曲目
    Сати Казанова -
    サーティ・カザノヴァ - 夜と昼の狭間で

    2曲目
    Фабрика - Про Любовь
    ファビリカ - 愛について

    3曲目
    Сати Казанова - Семь восьмых
    サーティ・カザノヴァ - 8分の7
    https://www.youtube.com/watch?v=TCe70arrpDc

    再放送日時
    2014年5月17日22時台
    2014年6月6日21時台
    スポンサーサイト

    お答えします 201X年X月X日木曜日(ロシアの結婚式について)

    お答えします 201X年X月X日木曜日

    A.お題
    ロシアの結婚式について
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/svadba

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年5月25日21時台/22時台
    2014年7月1日21時台/22時台
    2014年8月2日21時台
    2014年8月28日21時台
    2014年8月29日22時台
    2014年11月20日21時台


    B.選曲

    1曲目
    Муслим Магомаев - Свадьба
    ムスリム・マゴマエフ - 結婚

    2曲目
    Анна Герман - Эхо Любви
    アンナ・ゲルマン - 愛のこだま


    C.本文

    2808
    前置

    2940
    世界の多くの国と同じようにロシアでも結婚は人生の大事な節目であり、また鮮やかで大々的なお祝い事です。
    結婚を行うには前もって入念な準備が行われますが、決まったシナリオがあるわけではありません。
    おそらくロシア人の結婚式が日本人の結婚式と異なる点は決まりきった形を持たず、新郎新婦もそれぞれの親たちも呼ばれた人たちもとてもリラックスした雰囲気の中で祝われるということではないでしょうか?
    こんな風にラフな結婚式が行われるロシアですが、それでも何世紀にもわたって作られた結婚の、そして結婚への準備の伝統しきたりはあります。

    例えば求婚の儀式、これは新郎がこれと選んだ花嫁候補の親の元に結婚の許しを請いに行くという儀式ですが、普通これに許しを得に行くのは花嫁の父親そして兄弟で、稀なケースとして母親が行きます。
    かといって親戚しか求婚に行けないというわけではありません。
    この求婚の儀では花嫁をもらいに来たという目的を直接口にしないことが多く、しきたりに似たテキストが語られます。
    例えば「あなた方のところには一輪の花がある、そしてわたしたちには庭がある、その花を我々の庭に植え替えてはどうだろうか?」といった具合に。
    もし同意が得られた場合、花嫁の父は娘の右手をその未来の夫の手に握らせます。
    こんにちではこのしきたりはいささか古風じみてしまい、必ずしも行われるというわけではありません。

    3146
    さて若い2人がより大きな注意をさくのは結婚式の衣装のほうです。
    ロシアでは新郎は白いワイシャツにかっちりとした黒いスーツを着るということが多いです。
    花嫁のドレスは伝統的には白いドレスですが、それも絶対に白でなければならないというわけではありません。
    頭には白のベールをかぶるか、花をきれいに飾ります。
    面白いのは新郎たちは花嫁のドレスを一緒に買ったり、新郎が花嫁にドレスをプレゼントをするということはあっても、新郎は結婚式まで花嫁が着飾る様子を見てはなりません。
    ロシアではドレス姿の花嫁を式の前に見てはならないというジンクスがあるからです。

    3238
    さて求婚は終わりました。
    同意も得られました。
    親同士の顔合わせも済みました。
    結婚の計画も練られました。
    いよいよ若い2人にとって最もにぎにぎしい門出の日がやってきました。

    典型的なロシアの結婚式とは何から始められるのでしょうか?
    結婚の当日、花嫁の親と友人たちは花嫁の買収劇を行います。
    この買収といいましてももちろんおふざけで行われるもので、お楽しみのものでしかありません。
    普通は朝早く花婿を乗せた結婚式用のクルマが花嫁の家へとやってきます。
    式に参加するお客さんたちのクルマは美しいリボン・花・風船で飾られています。
    花嫁の家に近づこうとする車に花嫁側の友人たちが待ったをかけます。
    この人たちは花婿たちに難題を吹っ掛け、あの手この手で花婿が花嫁に簡単に到達できないように邪魔をします。
    愛しい花嫁を買い付けに来るためには、花婿は様々な困難をかいくぐらなければならないというわけです。
    例えば花嫁に美辞麗句を浴びせようという催促がなされます。
    お世辞なら任せて!
    この手のテストなら花嫁は難なく合格点を与えるのが普通です。
    ハードルはだんだん高くなります。
    次は花嫁のことをどれだけよく知っているか冗談交じりの質問があびせられます。
    花嫁の性格は?学業成績は?仕事ぶりは?
    よく聞かれるのは知り合いとなったなれそめのお話、デートの話が取り上げられ調べられます。
    花婿が間違った答えを返した場合、花婿や友人たちは罰金を支払い、ごちそうをふるまい、何とかして売り人の機嫌を取らなければなりません。
    こんな試験を潜り抜け、ようやく最後に花婿は花嫁のもとへたどり着きます。

    ところが昔はこの買収劇にこんなまやかしのおふざけがついてくることがありました。
    花嫁は顔を布で隠したまま渡されます。
    花嫁の代わりに他の女性やときにはどこかのおばあさんが渡されるということがあるので、花婿は細かいディテールに入念に注意を払って貰い受けたのが本当に花嫁なのか、それとも偽物なのかを見極めなければならなかったそうです。
    こんな冗談は今日でもよくやられるそうです。

    3537
    さてもろもろの困難を克服し、花嫁を手に入れた花婿は彼女に美しいブーケを差しだし、結婚の車に乗せると結婚登録宮殿へ連れて行きます。
    人口の少ない居住区では結婚登録宮殿ではなく、ザックスと呼ばれる住民登録所へ連れて行きます。
    ここで新郎新婦は結婚指輪をかわし、婚姻証明をもらいます。
    ザックスへは親戚や友人を伴い、大騒ぎしながら行くのが普通ですが、2人きりでひっそりと行く方がいいというひともいます。
    こうした婚姻登録は結婚の公式的な部分で、このサインを得ますと自分たちは自分たちが住む町の名所や記念碑のある場所をまわります。
    モスクワでは若い2人は赤の広場のわきにある無名戦士の墓を詣で花輪をささげますが、これは今ある平和な暮らしへのシンワライズしています。
    モスクワの街が一望できるスズメヶ丘へと向かうカップルもいます。
    スズメヶ丘はこの素晴らしいビューを楽しもうといつも多くの観光客や地元民でにぎわってますが、結婚式のクルマがひっきりなしに訪れるために背後にモスクワ大学のスターリン洋式の高層建築のいただくこの丘には常に祝祭的なにぎにぎしい雰囲気が漂っています。
    こうした名所以外に最近登場したのは橋に錠前をかけるという伝統です。
    2人の名前を書いた錠前を永遠の硬い愛と家庭生活の証のために橋にしっかりとかけるという光景は今やどこの街にも見られるようになりました。

    夜になりますと新郎新婦は結婚を祝うパーティーの席へ移動につきます。
    ここ近年流行なのは最小限度の人数のお客を呼んでロマンチックなディナーを戴きながら行う華麗な披露宴です。
    こうしたことが流行するのは飲めや歌えやの一夜の宴に多額を費やすよりはハネムーンを豪華にして楽しもうという単純な理由からですが、それでも大半のカップルはやはりこの記念日を忘れがたい思い出のひとときにしようと出費を惜しみません。
    もちろん双方の親たちもこれに協力します。

    3824
    新郎新婦も有名人だと披露宴は王宮並に豪華にダイナミックに行われ、テレビやプレスで国中が見守ることになります。
    そうした例では記憶に新しいのはボリショエ・バレエの元プリマ、Анастасия Волочкова アナスタシヤ・ヴォロチコヴァの結婚式でヴォロチコヴァはみんなをあっと言わせようと気球に乗って結婚式場に現れました。
    (2007?)
    この式は150万ユーロもの巨額の費用をかけて行われたそうです。

    3905
    小さな町ではレストランではなく、自宅で結婚式が行われることが多いです。
    新郎の家でやるか、新婦の家でやるかは前もって決められます。
    こうしたホームパーティの場合は両方の親戚・友達が一緒になって披露宴のごちそうを作ります。
    時には規模が大きすぎてどんな人でも宴に加わることができるように家の中ではなく、中庭で行われるということがあります。
    町の中ではなく、郊外や小さな居住区・村など住んでいる人たちが互いをよく知っている土地での披露宴はよくそんな形で行われます。
    こうした宴にはロシアのアコーディオンやギターが演奏され、みんながわしで歌う光景がよく見られます。

    3958
    さてここで結婚式の厳かな雰囲気を感じていただくためにこの歌を聴いていただきましょう。
    ムスリム・マゴマエフの歌声でСвадьба(結婚)。

    4011
    (1曲目:Муслим Магомаев - Свадьба ムスリム・マゴマエフ - 結婚)

    4327
    ムスリム・マゴマエフの歌声で結婚をお聴きいただきました。
    (中略)

    4349
    さて披露宴の宴の席に再び戻りましょう。
    新郎新婦の席は披露宴の真ん中にしつらえられます。
    新郎側から見ると右側に新郎の両親が、また花嫁の左側には花嫁の両親が座ります。
    披露宴で一番重要な場面はそれぞれの親が若い2人の門出に来る祝辞です。
    今では若い2人が自分たちで何でも決めてしまいますが、それでも2人が新しい生活の第一歩を踏み出すこの日、式の中でもっとも感動を呼ぶ場面は親が子供に贈るあたたかいお祝いのセリフだとされています。
    祝辞が述べられた後、新郎新婦の幸せと健康を祈り、子供の誕生を期待して杯があげられた後は式は自由な形式で展開していきます。
    踊り・歌・冗談を交えた乾杯の席が繰り返され、披露宴は決して悲しみで曇らせてはなりません。
    ロシアの結婚式では乾杯の度にゴーリカ(苦いぞ!)という言葉が繰り返されますが、これは新郎新婦が甘いキスをしないとウオッカの味が苦いぞという意味です。
    人前でキスを交わすのは結婚式では欠かせない光景となっています。

    4519
    さて結婚式で何を贈るかですが、呼ばれた人たちはそれぞれに贈り物を用意します。
    何も式の席で渡さなければいけないというものではありません。
    式の行われているレストランに新居で使う用のテレビや洗濯機をもってこようという人はなく、大抵は頭を悩ませないために封筒にお金を包んで渡すようになりました。
    この日のために特別な詩を書いて贈るという人もいます。
    披露宴の最後は新郎新婦が親たちや式のオーガナイズを助けてくれた人、この日の喜びを分かち合おうとしてくれた人全員に感謝の言葉を添えて宴は終わります。

    結婚式を行う時期については新郎新婦が決めますが5月に行うということは一番少ないのです。
    この5月という月は結婚にはあまり適していない月とされているからです。
    ロシアの村では結婚式は空きに行われることが一番多いです。
    農作業も少なくなり、式のごちそうのための収穫もすでに終わっています。
    もちろん店に行けば1年中ごちそうのための食材はふんだんにあるものの、それでも自分たちの手で育てた作物を使って自分たちの台所で作った御馳走をテーブルに並べるという醍醐味にはかないません。
    何曜日に一番結婚式が多いかといいますと土曜日に行われることが一番多いのです。
    お休みの日で明日の休みかと思うとゆったりと楽しめるかと思うからです。

    4707
    さて(略)、ウエディングドレスはロシアでもかなり発達しています。
    たくさんの会社があり、それぞれが式の衣装から車の手配、ブーケのアレンジ、ミュージシャンの手配、写真撮影・ビデオ撮影、披露宴の準備まで結婚式に必要なありとあらゆるサービスを提供しています。
    よくあるのはこの全部をサービスを依頼するのではなく、その一部だけを頼み、披露宴は自力でオーガナイズするというパターンです。

    4748
    ここまで今日のテキスト担当のタチアナ・フロニさんの結婚についてのお話をお届しましたが、わたしがですね、1年前ですが参加しました1つの結婚式、古くからの友人の結婚式についてここでちょっとだけお話ししたいと思います。
    大体タチアナさんが書いてくれたことは、このパターンを同じなんですけど、うちの友人の場合は2回目の結婚式で、前の奥さんとはダメになったもんですから、1回目の結婚式と2回目の結婚式の話をしますね。
    1回目は新郎の家で郊外に住んでいる両親のもとで友人たちを集めて真冬に行われました。
    その時は非常にアットホームな雰囲気で手書きでカードを用意したりなどして行ったんですけど、残念ながらそれがダメになってしまい、2番目の奥さんは入念に選ばれた結果、2年くらい同棲しましたかね、それでいろんなテストをして、もう相性ピッタンコという段階になって、とうとう式の運びとなりました。
    選ばれた場所はモスクワにある、とあるレストランで、そのレストランの広告を見ますといろんな結婚式のパーティーがよく行われる場所です。
    そしてキレイに着飾られた友人たちが集まり、そしてそれぞれが封筒にお金を入れる人もあり、結婚式で非常に流行っているのはバスケットにワインとか、シャンパンが多いですかね、お花とかいろんなプレゼントをアレンジして渡す、そこに封筒を入れて偲ばせてというパターンなんですけど、お酒が多かったですかね、そういうプレゼントをもって会場に来ます。
    1つのテーブルに7人8人くらい座ったでしょうか、そういったテーブルが8つくらいあったと思います。
    そして日本と違って上座というところではなく、まん中のところに新郎新婦が座るのは、上座のところはミュージシャンたちが演奏する場所になるんですね、そこで空間をきってありまして、とにかくダンスが多い、ちょっとするとダンス、みんなが出て行って踊って、そしてまたゴーリカゴーリカといって席に戻るというのがずっとパターンとして繰り返されます。

    5021
    わたしがびっくりしたのは式の最初の部分で両親たちが自分たちの子供に祝辞を述べるという場面でお母さんは2回目の結婚だからうまくいってほしいと思うと感動的な詩を作って読んでいました。
    そしてそれが終わると司会者がいろんな冗談交じりのゲームをしまして、みんなを盛り上げていくんですね、それまで知らない人同士で遠慮していたんですけど、ゲームをやるとロシア人は燃えあげるものですから、どんどん祭りの雰囲気が盛り上がっていきました。
    とにかくずっとうるさい、ずっとガンガン音楽が鳴って、そして親戚たちも歌い踊り、最後は疲れて寝に帰るという感じのものでした。
    おそらくレストランでの儀式は60何人くらいの人数とはいえ、値が張ったのではないかと私は思います。

    5137
    結婚式はモスクワのいろんな所で花嫁花婿さんが歩いて撮影しているので、こちらにご旅行に来られた人たちは真冬だろうが貼るだろうが夏だろうが一度はご覧になったことがあるのではないかと思いますけど、非常にきれいに着飾った新郎新婦たちのところに友人たちがブーケを持ったりベールを持ったりなどしながら一緒に歩き、それをずっとビデオカメラを撮って後で編集してみんなに配るというパターンが多いです。
    出てきた無名戦士の墓、そしてスズメヶ丘などはいつもいつも結婚式のカップルがいます。
    えー、ここでわたしは本当に人生の一番大事な時期に幸せな気持ちで門出を踏み出すたくさんの人たち、ロシア人でも日本人でも結婚という日を迎えた人たち、そして過去に迎え家庭生活を楽しく、そしていろんな困難を潜り抜けながらも、やはり固い愛の絆に育まれて潜り抜けてこられた人たち全員にこの歌をお届けしたいと思います。
    アンナ・ゲルマンの歌声で愛のこだま。
    こうした愛のこだまはどんな人の人生でも一度は必ず響くものではないでしょうか?

    5305
    (2曲目:Анна Герман - Эхо Любви アンナ・ゲルマン - 愛のこだま)

    5621
    締めくくり

    5728

    MMMモスクワミュージックマガジン 2014年2月21日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2014年2月21日金曜日

    A.トーク
    ソチオリンピックで使用された曲の数々についての特集がなされました。


    B.選曲

    1曲目



    情報元:
    http://9326.teacup.com/pechika/bbs/215

    MMMモスクワミュージックマガジン 2014年2月14日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2014年2月14日金曜日

    A.トーク
    ソチオリンピックで使用された曲の数々についての特集がなされました。


    B.選曲

    1曲目



    情報元:
    http://9326.teacup.com/pechika/bbs/208

    お答えします 2014年2月13日木曜日 (露日戦争、現在との絆)

    お答えします 2014年2月13日木曜日

    A.お題
    露日戦争、現在との絆
    http://japanese.ruvr.ru/2014_02_13/128686012/?slide-1
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/sensou-2
    編集改造13分21秒

    露日戦争が芸術に残した影響 
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2014_02_13/128686695/


    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    再放送日時
    2014年3月5日22時台

    C.本文

    1904年から1905年の露日戦争から110年が経過したことを振り返る番組の第2弾。
    前回、ロシア北西部、ノヴゴロド州にあるメドヴェージ(クマ)村について、この村が日本とロシアを結び付けていた時代についてお話した。
    これはロシア領内で日本兵捕虜が収容された唯一の場所だった。
    捕虜らは1904年春、戦闘開始から数週間後にこの村に連行され、無人状態にあった地元の兵舎へ入れられた。
    軍事大臣のサハロフ中将の出した捕虜の食事に関する命令書では、昼に出される玉麦のスープを米を使用したものに代え、夕食の引き割り麦の粥を小麦粥に代えること、しかもその支出は軍事基金がまかなうことが記されていた。
    収容所施設の警備は兵士の中隊がこれにあたった。
    日本兵はさしたる問題を起こすこともなく、おとなしかった。

    日本人が、ある程度自由が許されるようになっても、自からすすんで軍事規律を守っていたというのは興味深い。
    しばらくすると日本人らには収容所から表に出て散歩することさえ許されるようになった。
    日本人と地元民の関係はうまくいっていた。
    いさかいがあったとか衝突が起きたという話は聞かれたことがなかった。
    日本人は人形、傘、扇、指輪、キーホルダー、船の小さな模型など地元民にとっては珍しいものをこさえ、売ったり、贈ったりしていたという。
    そのうち扇2本と人形、そして100年前、ロシア人の少女のために日本兵が作った子どもの靴が未だに地元の郷土博物館に納められている。
    しだいに日本人たちは自由に村を歩き回り、村唯一の一杯飲み屋ベロフの店に出入りするようにまでなった。
    とはいっても酔っ払った日本人の姿を見た人は誰もいなかった。
    将校らはよろこんで通りを自転車で走っていたという。
    日曜ごとに日本人のアマチュア・オーケストラが催すコンサートが開かれ、村人たちは日本人の手作り楽器での演奏を聞きに集まった。
    収容所が閉じられると、こうした楽器はすべてサンクト・ペテルブルグへと送られ、演劇音楽博物館に収められた。

    メドヴェージ村にも恋物語があったといわれている。
    若い日本人将校の名はヒガキ・マサカズ、ロシア人乙女はナージャ・カスポヴァといった。
    乙女は当時16歳。
    ペテルブルグに暮らし、メドヴェージ村へは夏の休暇で訪れていた。
    ある日、村の通りで彼女に突然ロシア語で若い日本人将校が話しかけてきた。
    二人が互いに好きあったのは一目瞭然だった。
    ふたりの逢引は夏の間続いた。
    ヒガキが引揚げたあとも、二人はさらに1年間文通を続けた。
    1906年、ナージャはペテルブルグのギムナジウム(中学校)を卒業すると、メドヴェージ村に移り住み、教師としての生活を始める。
    このセンチメンタルなお話がどういった結末を迎えたのかはわかっていない。
    ところが、まさにこの村で端緒が開かれ、有名なロシア人日本学者らを輩出したある家族の話は良く知られている。

    当時、メドヴェージ村にアレクサンドラ・オルロヴァという少女が住んでいた。
    この少女にとってはあまりに遠い不思議の国から、戦争の運命でこの村に送られてきた人々が、この子の人生を決めることになったのだ。

    「私はメドヴェージ村にいた日本人捕虜たちを覚えています。
    当時私は幼い子どもでした。
    日本人とロシア人が互いに説明しあうのになんとまぁ苦労しなければならないのかと思うと、子ども心に腹立たしく思っていました。
    互いがなかなか分かり合えない。
    言葉の違いが邪魔してしまう。
    よい人たちがお互いを理解し得ないことが、小さい私なりに残念でなりませんでした。
    私は記憶力がよく、主要な言葉をさっさと覚えました。
    そのときにすでに日本語をしっかり覚えて、みんながお互いを正しく分かり合う助けになれたらと思い始めたのです。
    私のこの夢は叶う運命にありました。
    10月革命の後、私はコムソモール員となって活動していました。
    そしてチャンス到来を逃がさずにモスクワへ勉強しに行ったのです。」


    このアレクサンドラ・ペトローヴナ・オルロヴァが1970年代に行なった講演の録音がメドヴェージ村の郷土博物館に保存されている。

    日本へ抱く関心はアレクサンドラをレニングラード大学東洋学部日本語課へと連れ寄せた。
    アレクサンドルはそこからモスクワへと移り、1931年から日本語を教え始め、ソ連の日本専門家を数世代にわたって養成し続けた。
    日本への愛情をアレクサンドラは娘のタチヤナ・グリゴーリエヴナにも伝えた。
    タチヤナはロシアにおいて日本文化に最も精通した有名人の間で成長したのだ。
    現在タチヤナさんは年金生活をおくっておられるが、退職するまではロシア科学アカデミー東洋学研究所の学術員として働いていた。
    タチヤナさんは日本の芸術、文学に関する大きな研究を幾冊もの書物に著している。

    タチヤナ・グリゴーリエヴァさんは母、アレクサンドラさんの思い出について、VORからのインタビューに答えて次のように語ってくださった。

    「おそらく母には生まれつき言語を習得する才能があったと思います。
    なぜなら彼女はとても耳が良かったからです。
    彼女は自分の母親や祖母と同じように、子どもの頃から教会の合唱団で歌っていました。
    メドヴェージ村の住人の中で初めて日本語の単語を覚えたのは母なのです。
    母は村人と日本人捕虜の間の会話をとりもとうとさえしたそうです。
    だって彼らの間の会話といったら、最初はジェスチャーだけに限られていたんですよ。

    母はそんなにしょっちゅう日本人のことを思い出すことはありませんでした。
    というのも当時母はとても小さかったからです。
    それでも遠い昔にメドヴェージ村で日本人捕虜と出会ったことが、まさに彼女の運命の決め手となったのです。
    母は生涯通じて大学の生徒らに日本語を教えていました。
    そして病気に罹り、大学に通えなくなると、今度は学生のほうがうちに通うようになりました。
    母は最期の日、すでに起き上がる力もなくなるまで日本語の本を読み、ふいに漢字が思い出せなくなると、とても気落ちしていました。」


    アレクサンドラ・オルロヴァさんは1982年12月23日深夜に息を引き取った。
    アレクサンドラさんが自分の生まれ故郷のメドヴェージ村に里帰りすることはとうとう叶わなかった。
    なぜならアレクサンドラさんの生まれ育った家も第2次世界大戦のさなか、ナチスドイツ軍に破壊されてしまったからだ。
    アレクサンドラさんの家だけではない。
    戦後、村のあった場所はほぼ廃墟と化してしまっていた。
    ところがあの露日戦争当時、日本人捕虜らが収容されていた兵舎はかなりの損傷を受けたものの焼け落ちずに残った。

    日本人捕虜の墓地についてはもう誰も知る人はいない。
    あれからあまりに多くの歳月が流れ、1960年代初め、漢字が刻まれた墓石が数個発見され、これがセンセーションを呼んだ。
    1965年11月、日本語で発行されていた雑誌「今日のソ連邦」にイラスト付きでメドヴェージ村についての記事が掲載され、住民らによって漢字を刻んだ墓石が見つかったことが書かれた。

    この記事が発表された後、メドヴェージ村をある日本の新聞社の通信員が訪れる。
    この人物は村の話を入念に報道し、地元の博物館に収められていた数枚の写真を掲載した。
    この記事は日本の社会を震撼させた。
    この新聞社あてに、そして直接メドヴェージ村あてに、村民に日本人の記憶をとどめてくれたこと、死者を弔ってくれたことへの感謝をつづった手紙が寄せられるようになった。
    そのなかには当時すでに数少なくなった、生き残った元捕虜やその親類からの手紙も数通あったという。

    2008年9月28日、日本兵の遺骨里帰りからちょうど100年が経過した日、メドヴェージ村ではこのことを記憶するため、記念碑が建てられた。
    発見された石は、亡くなった日本人捕虜全員の名がロシア語と日本語の両方で刻まれた石碑の側に置かれた。
    そしてこのメドヴェージ村をほぼ毎年のように日本人代表団が訪れるようになっている。
    この話がどんなに昔のことであっても、異国の地で日本人捕虜がどんなに「快適」な暮らしをしていたとしても、捕虜たちがやはり、祖国から切り離された人々のつらい気持ちを味わっていたのはどうしようもない事実だからだ。
    そしてこの歴史は忘れ去られてはならない。

    ロシアの声、日本語課はこの資料を準備するにあたって惜しまずご協力くださった東京ロシア語学院の藻利佳彦主事およびメドヴェージ村のマリヤ・グーセヴァ村長、タチヤナ・グリゴーリエヴァ文学博士に対し心から感謝申し上げます。
    ご協力くださった方々のお写真およびメドヴェージ村郷土博物館収蔵の写真資料はVORのサイト上でごらんいただけます。

    (一旦終了後、下記記事が放送)

    ----

    補足追加

    A.お題
    露日戦争が芸術に残した影響
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2014_02_13/128686695/

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    B.選曲

    1曲目
    Пётр Киричек - На сопках Маньчжурии
    ピョートル・キリチョーク - 満州の丘に立ちて

    2曲目
    Хор Красной Армии - Варяг
    赤軍合唱団 - ヴァリャーグ

    C.本文

    露日戦争は芸術の様々なジャンルに影響を及ぼさないわけにはいかなかった。
    文学作品がロシア語でも日本語でも少なからず書かれている。
    ロシア語による作品の中で最も大きな関心を呼んでいるのは、作家ノヴィコフ=プリボイの『ツシマ』、ステパーノフの『アルトゥール港』、ピクーリの『流刑』、『オキニさんの3つの年齢』、ボリス・アクーニンの『金剛石の2輪馬車』。
    また日本語による作品では1906年に戦争のメモワールとして出された櫻井忠温(さくらい・ただよし)の『肉弾』が注目に値する。
    『肉弾』は出版1年目で4万部を売り上げ人気を博した。
    『肉弾』は後に英語、ドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語に訳されている。
    『肉弾』を発表して7年後、櫻井はその続編作品『銃後』を出した。
    櫻井は最後まで戦争をテーマにした長編を書き続けている。

    露日戦争はロシア人戦争画家として有名なヴェルシャギンにも絵筆を取らせた。
    絵の構想をヴェルシャギンは日本を滞在した折に汲み取ったという。
    ヴェルシャギンは1903年に日本を訪れた。
    この国に自然に、古いオリジナリティーに溢れた建築に、民族固有の習慣に感銘をうけた様子は一連の写生から伺える。
    1904年ヴェルシャギンは仕事をいったんおいて極東へと赴いた。
    この目で戦闘場面を見て、その本質を自分の作品の上に映すために。

    「平和の思想を他を夢中にさせる、力強い言葉で広めようとするものがいる。
    その思想を守ろうとして、宗教、経済など様々な論拠を出してくるものがいる。
    私は戦争反対を絵の具という表現で訴えているのだ。」


    1904年3月31日、ヴェルシャギンは戦艦ペトロパヴロフスクに乗船していた折、アルトゥール港付近で奇襲にあい、機雷を受けて提督とともに戦死した。
    暗い運命のいたずらだろうか、見事な習作「日本人女性」は1904年の初め、ヴェルシャギンの死のたった数ヶ月前に描き上げられたばかりだった。

    ここで音楽についてもご紹介しよう。
    人の一生で多少なりとも意義のある出来事が起きた場合、それは音楽、歌、バラード、詩に表現される。
    露日戦争の時代も後に大きな跡を残す有名なワルツ、「満州の丘に立ちて」が誕生した。
    これは満州の丘で命を落とした第214モクシャ連隊の兵士らを讃えてつくられたものだ。
    作曲はこの連隊の軍楽隊長をつとめていたイリヤ・シャトロフが行った。

    1905年2月、予備隊だった第214モクシャ連隊は日本軍に取り囲まれた。
    武器弾薬も尽き、絶体絶命の瞬間が訪れたとき、連隊長の出した命令は「旗を掲げ、軍楽隊だ。前進!」 
    シャトロフの指揮する軍楽隊は連隊の前にたち、軍楽マーチを演奏し、旗を掲げて進んだ。
    連隊は軍楽隊に鼓舞されて突破した。
    軍楽隊で演奏していたのはたったの7人だった。
    軍楽隊はこの勇ましい働きが讃えられ、軍人に授与される章としては最高のゲオルギー勲章を受けた。
    露日戦争が終わったあともモクシャ連隊はさらに1年満州にとどまり、ここでシャトロフはワルツを作曲した。
    それが有名なワルツ、「満州の丘に立ちて」である。
    それではピョートル・キリチェクの歌声で「満州の丘に立ちて」をお聞きいただきたい。

    http://static.ruvr.ru/download/2014/02/13/1312664178/NA SOPKAH.mp3

    もちろん日本でもこの戦争にインスピレーションを受けた音楽作品が生み出されている。
    たとえば1905年9月、戦争終了とともに発表された「戦友」という歌がそうだ。
    作詞を行った真下飛泉(マシタ・ヒセン)は京都の小学校の教師だった。
    歌に真下は親戚の一人が語った戦争の体験をこめた。
    作曲を担当した三善和気(ミヨシ・カズオキ)は真下と同じ小学校で音楽の教師をしていた。
    歌「戦友」は当初、兵士が歌うものとしてではなく、小学生が口ずさむために書かれ、関西一円で子どもたちの間で歌われた。
    だが1910年ごろにはもう全国レベルに知れ渡り、大きな人気を博していたという。

    番組の終わりにもう1曲、露日戦争当時に歌われた歌をご紹介したい。
    「ヴァリャーグ」という歌。
    歌詞はオーストリア人の詩人、ルドリフ・グレインツが巡洋艦「ヴァリャーグ」と砲艦「コレーエツ」の勇ましい戦いぶりを讃えて書き、これにロシア人作曲家のアレクセイ・トゥリシェフが曲をつけた。
    この歌が初めて歌われたのは、ニコライ2世がヴャリャーグとコレーエツの将校、水兵を讃えて催した豪華なレセプションの席でのことだ。この歌はロシアで大変流行った。
    特に軍隊の水兵の間で愛された。
    第1次大戦時には、「ヴァリャーグ」からは日本と戦うことを歌った3番の歌詞が削除された。
    というのもこの戦争においては日本はロシアの同盟国だったからだ。

    「ヴャリャーグ」をアレクサンドロフ記念ロシア軍歌唱舞踊アンサンブル(赤軍合唱団)の歌声でどうぞ。

    http://static.ruvr.ru/download/2014/02/13/1312664094/VARYAG.mp3

    MMMモスクワミュージックマガジン 2014年2月7日金曜日

    MMMモスクワミュージックマガジン 2014年2月7日金曜日

    A.トーク
    ソチオリンピックで使用された曲の数々についての特集がなされました。


    B.選曲

    1曲目
    ТОКИО - Шаг Вперёд
    トキオ - 1歩前へ
    https://www.youtube.com/watch?v=YnFVKrltiwA

    2曲目
    -
    -

    3曲目
    -
    -

    4曲目
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    -

    5曲目
    -
    -

    お答えします 2014年2月6日木曜日 (日本人と熊(メドヴェージ)、露日戦争開始から110年)

    お答えします 2014年2月6日木曜日

    A.お題
    日本人と熊(メドヴェージ)、露日戦争開始から110年
    http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2014_02_06/128372720/?slide-1
    https://soundcloud.com/sputnik-jp/sensou
    編集改造27分40秒

    翻訳アナウンス:真野
    メロディ=3

    C.本文

    2014年2月で、露日戦争(1904~1905)の開始から110年となる。
    これはロシアと日本という2つの帝国間で初めて行われた戦争であると同時に、20世紀で初めて遠距離砲、装甲車、水雷艇など、最新の武器が用いられた戦いだった。
    そしてどんな戦争でもそうだが、露日戦争も苦しい戦い、勝利、敗退を経験し、多くの兵士が戦死し、捕虜にとられた。
    「お答えします」では2週間にわたり、露日戦争についてとりあげるが、ここに記すのは過去の話でもあり今の話でもある。

    歴史というのは私たちのまわりを取り囲んでいるものだが、昔の戦争の痕跡もしかり。
    まだ地球の表面から消え去ってはいない。
    歴史の糸はロシア北西部ノヴゴロド州のうっそうとした森のなかに埋もれたメドヴェージ(熊)村と日本とをつないでいる。
    この戦争の結果、7万人を超えるロシア人兵士、将校が日本の捕虜になった。
    四国の松山市には合計で6000人のロシア人捕虜が収容されたが、このほかに姫路、福岡、熊本、広島、仙台、長崎、大阪、名古屋などにもロシア人捕虜の収容施設が設けられていた。
    捕虜の生活条件はかなり気楽なものだった。
    位の低い者には集団で観光が組織され、仕事についてお金を稼ぐこともできた。
    将校は祖国から妻を呼び寄せ、護送隊もつけずに散歩を楽しみ、温泉旅行にもいけたという。
    ロシア人将校と日本人女性の間に数々の熱い恋愛が成立していたことも良く知られている。
    それを裏付けるひとつの証拠が、数年前、松山で見つかった10ルーブルの金貨だ。
    この金貨には陸軍准尉ミハイル・コステンコと彼を慕った看護婦のタケバ・ナカさんのふたりの名前が刻まれていた。
    この話をもとにした戯曲が劇団「坊ちゃん」でかけられている。
    2013年松山市ではこの二人の人物と愛し合う恋人たちを記念した像が建てられた。

    1905年、ポーツマス条約が締結されると、捕虜たちの本国送還が始まった。
    ところがこれで全員が祖国へ帰ったわけではなかった。
    当時の軍事歴史委員会の調査によると、日本にいたロシア人捕虜のうち負傷や病気で亡くなった人は1600人を超える。
    異国で息を引き取ったロシア人捕虜の墓地は地元の日本人、学生、ロシア正教の信者たちが手入れをしている。

    ロシア人も、ロシアで亡くなった日本人の記念碑に対して、これを大事に保存している。
    メドヴェージ村でも日本人捕虜を受け入れていたが、ここでの生活条件はなかなか悪いものではなかった。
    だが戦いで受けた傷や厳しい気候条件、祖国を懐かしむ気持ちはわが身のかこう状況を思わせた。
    ここでは19人の日本兵が病気で亡くなり、地元の墓地に埋葬されている。
    1908年兵士らの遺体は祖国へ戻されたが、地元民には判読不明な漢字が彫られた墓碑はそのままに残された。
    メドヴェージ居住区会議のマリヤ・グセーヴァ議長は次のように語っている。

    「まさにメドヴェージ村が、おおきな意味でロシアと日本の直接的な接触の場となっていた。
    というのも日本人捕虜は特別にここ、ロシア北西部まで連れてこられてきたからだ。
    それはロシア全土をつっきり、これがなんと大きな国土を有しているかを知らしめ、この先、こんな国を攻めようという気を起こさせないようにするためだった。
    地元民は日本人捕虜にとても温かく接しており、敵に向かうような感情は微塵もなかった。
    互いの関係はかなりの部分、好奇心によるものだったらしい。日本人は兵舎に暮らしていたが、村を自由に歩き回り、住民と付き合い、紙の扇を作ってあげたり、おもちゃなどを作ってあげていた。
    捕虜らは樽の底を使って楽器を作り、コンサートを開いてみんなを招待していた。
    地元民は日本人が黒パンを食べないことを知ると、特別に白いパンを焼いてあげていたという。
    そしてとうとう本国に帰されるときがくると、村中が総出で橋まで出て、遠い旅に出る日本人を見送ったそうだ。
    ただ帰ったのは全員ではなかった。
    数人はここで亡くなったからだ。
    その遺骨はその後日本に移されている。
    死去した兵士が葬られた墓地は、今は記憶の場所と呼ばれ、墓碑だけが残されている。
    そして御影石の石碑が建てられ、「ロシアと日本の友好を記念して」と刻まれ、ロシア語と日本語の両方で、ここでほとんどが病気が原因で亡くなった19人の捕虜全員の名前が記された。
    村の市民は子どもも含めこの歴史を知っており、たくさんの資料、写真、展示物を収めた博物館も作られている。
    あるときからここを日本人代表団が訪れるようになった。
    日本人らは追悼セレモニーを行い、我々も一緒になって記念の『石庭』をこしらえようとしている。
    こうした活動にはロシア語を教える藻利佳彦教授が長年にわたって取り組んでおられる。われわれ、村民全員とも藻利さんに非常に感謝している。」

    東京ロシア語学院の藻利佳彦主事は、長年にわたり、メドヴェージ村日本人捕虜についての文書収集センターの所長を務めている。その藻利さんにお話をうかがってみた。

    http://static.ruvr.ru/download/2014/02/06/1311823877/MORI YOSHIHIKO.mp3
    15:43

    メドヴェージ村にも松山のロシア人捕虜収容施設と同様に歴史があり、地元民と日本人捕虜の間にも愛のドラマがあった。
    だがその話の信憑性はあまり高くない。
    だがメドヴェージ村に住んだ日本人と接触したロシア人の日本研究者のたどった運命についてははっきりわかっている。
    これについては次の番組でお話しようと思う。

    藻利佳彦氏からは捕虜が作った楽器について、以下の追加資料をいただいた。

    日露戦争時に、日本人捕虜がメドヴェージ村で作った三味線と月琴、ロシア人捕虜が京都の捕虜収容施設であった東福寺塔頭霊雲院に残していったバラライカとバイオリンが、愛媛県松山市の坂の上の雲ミュージアムに現在並んで展示されている。
    どの楽器も長年大切に保存されてきたもので、こうした両国の捕虜の残したものが一緒に展示されることは、おそらく世界でも初めてのことと思われる。
    三味線と月琴は、主にメドヴェージ村の白樺を使って作られているが、月琴の底は、食料品を運んだ樽の底板を使っている。霊雲院のバラライカは主に松の木を使って作られているが、ペグやフレットなど楽器の重要な部分には竹が使われている。
    バイオリンの裏には、製作者の書き込みがある。
    それによると、「プスコフ県オストロフ郡リシン郷マカロヴァ村、イヴァン・ドミートリエヴィチ・ドミートリエフが作成した」とある。
    このドミートリエフ氏の住所プスコフ州は、日本人捕虜のいたノヴゴロド州の隣の州で、現在車で行けば5-6時間の位置にある。
    広大なロシアのなかで、偶然にもバイオリンの製作者はメドヴェージ村に極めて近い土地の出身者であったことがわかる。

    三味線と月琴を保存管理してきたサンクトペテルブルグ国立シェレメチェフ宮殿音楽博物館のコーシェレフ楽器保存主任は、「日ロ両国の捕虜が作り、それぞれの故郷や肉親を想い奏でた楽器が同じ場所で展示されることは大変すばらしい。
    この展示が、両国の平和友好を深める機縁となってほしい」と語った。
    また、日本の楽器を調査した結果修復が必要であることを指摘し、「修復ののち、今度はこれらの楽器が実際に音を出し、ともに美しいハーモニーを奏でる日が来ることを希望する」と述べ、ロシアでの楽器の修復を提案している。
    (藻利佳彦)

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